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「姫」の思い出【6〜10歳】


6〜10歳の頃に起きた印象的な出来事を紹介します。
後で追加更新するかもしれません。


6歳の誕生日


6歳の誕生日に、近所のMちゃんが遊びにおいでと誘ってくれました。Mちゃんは姉の同級生で幼馴染です。
母は私にすぐ帰って来るよう言いつけました。
私もすぐ帰るつもりでしたが、プレゼントがあると言うのです。
蜻蛉返り出来ないことは幼心に分かっていました。
勿論、母も分かってくれると思っていました。

Mちゃん姉妹は私にお菓子やジュースを振る舞ってもてなしてくれました。
私のためだけの時間。
とても嬉しかったです。
早く帰らなくてはいけないのは分かっていましたが、帰るに帰れません。

40分が過ぎた頃、母が車で迎えに来ました。
Mちゃん姉妹に見送られて、母もニコニコしていて、幸せでした。
しかし、車を乗った瞬間、
幸せは終わってしまいました。

「早く帰って来いって言ったでしょ。ケーキ、買わないからね。」

ピシャリと、さっきまでの和やかな空気が嘘の様に凍りつきました。鏡越しに見える母の顔は険しく、眉間に皺が寄っていました。
重く静かな車内で、私は俯いてか細く
「ごめんなさい……」と応えるのが精一杯でした。

母には母の都合があるのは分かっています。
忙しいなか、私のためにケーキを買おうとしてくれた優しさも。
しかし、私の楽しい時間は終わってしまって、ただ静かに泣きました。

誕生日が嬉しかったことがありません。
成長するに連れ、それは父母が己の良心を痛ませないため仕方なく執り行う最低限の儀式でしかないことに気付いたからです。
私のためと言いながら、そこに私の希望は反映されません。
私の誕生日は、私のものではありませんでした。



蟻の家


私が6歳前後の出来事だったと思います。
両親が喧嘩をしていて、家に入りたくなくて、玄関先の蟻の巣の上に石を複雑に高く積んで遊んでいました。
そこに姉が来て
「何してるの?」
と尋ねられたので
「蟻の家を作ってるの」
と答えました。
すると、姉は
「ふーん」
と言って、思いっきり、石を蹴り飛ばしました。
私は石を積もうとした手を反射的に引っ込めました。一瞬、目の前で何をされたか分からず、壊された蟻の家の残骸を黙って見つめました。
その様子を一瞥して、姉は満足そうに何も言わずに去って行きました。
私は動けないまま、蟻の巣を見つめていました。



弟の暴力性


私は7〜8歳、弟は3〜4歳くらいだったと思います。
姉の同級生のNちゃんも交えて、複数人と庭で遊んでいました。
鬼ごっこや隠れんぼ、ごっこ遊び等をしていたと思います。
具体的にどういう経緯があったか忘れてしまいましたが、思い通りにならない事に弟が癇癪を起こし、私達に石を投げつけました。Nちゃんにも平気で投げつけました。
何個も何個も。身体中に大きな痣ができて、本当に痛かったし怖かったです。あれが顔や目に当たっていたらと思うと寒気がします。
更に怖しいのは、何故だか弟がほぼ無罪放免となったことです。

私はNちゃんに謝らなくてはいけません。
咄嗟に近くにいたNちゃんの影に隠れてしまったことを、今でも恥じております。



コオロギ


弟が4歳頃のことだったと思います。
当時3〜4歳くらいの親戚の男の子が遊びに来ましたが、弟は意地悪ばかりしていました。
両親は都度やんわり諌めましたが、最後に親戚の子が庭で大きなコオロギを捕まえたのに対し弟は
「それはウチのコオロギだ」
と言って譲りませんでした。
これに父は激怒し、親戚が帰った後、弟を家から閉め出しました。弟は泣き喚いて、家に入れてと懇願し、開いている戸はないかと駆け回りました。
私は弟の言動に呆れていましたが、段々と可哀想になってきて、弟にオニギリを持って行きました。
弟は泣きながら黙々とそれを食べました。
もうあんな意地悪しないよう諭し、家に連れて帰りました。

私が弟にしてやれた姉らしいことは、今思えばこれだけだった気がします。



叔父の電話


姉が11歳頃のことかと思います。
叔父から電話があり、姉がそれに出ました。
内容は「2、3日(←正確な日付は忘れました)に実家を訪ねるから、よろしく」というものでした。
問題はこの「2、3日」という件です。2日に来るのか3日に来るのか分かりません。
父は姉に
「2日なのか3日なのか、どっちなんだ! はっきりしろ!!」
と責め立て、何時間も怒鳴りつけました。
姉は泣きながら
「だって本当に2、3日って言ってた……」
と繰り返し答えるしかありません。

そんなに知りたければ叔父に電話をかけ直せばいいだけの話なのですが、父には思いつきもしない様でした。
結論は叔父は本当に「2、3日」と言っていました。
叔父が訪問した際に父が確かめたのです。

「確認したんだ。電話口で〇〇〇(姉の名前)に何て伝えたか。そしたらあいつ『2、3日』って言ってたわ。」

とだけ、私達に報告しました。
何の悪びれもせず、姉に特に謝りもせず、ヘラヘラしていました。



見えなかった富士山


私が10歳頃のことです。
両親と姉私弟の5人で山梨の方へ旅行に行くことになりました。
当時、ナビはありません。
父が運転し、母が地図を見ての旅です。

それはもう、ただの地獄でした。
誰も道を知りませんので上手くいかなくて当然なのですが、父は終始イライラしていて何度も怒鳴って喧嘩になりました。
車内という狭い空間で、もはや拷問です。
冷静に考えて、アナログ地図片手に初めての道を正確に走るなんて無理なことですし、母には荷が重過ぎでした。
途中、席替えをし、母は1番後ろの席に、助手席には姉が座りました。
それでも母は何とかしようと、力になろうとしていたのだと思います。父に何度も主張と提案を繰り出しました。
しかし、父はそれを無視して黙り続けました。そんな状態が暫く続いて父が舌打ちして、ボソリと言いました。
「話しかけんなよ……。」
完全に空気が凍りました。
もう、お通夜です。
母は完全に黙りました。
それから暫くして、母は吐きました。
それを父は
「悔しくて泣いてんだろ。」
と言いました。
母は本当に具合が悪そうで、苦しそうにエチケット袋を口に押し付けていました。

今思うと、若干、過呼吸を起こしていたのではないかと思います。

父は続けて言います。

「うるさいんだよ。何度もキャンキャン、スピッツの仔犬みたいに……。」

え?
スピッツの仔犬って何?
それ、何か上手いこと言ってるつもりなの?
本当に上手いこと言ったつもりなのか、何故か同じ台詞、4回は繰り返し口にしましたよ、彼。

もう、私まで吐き気がしてきて、頭が変になりそうでした。


せっかく富士山が見えれば絶景と呼ばれる湖畔に辿り着いたのですが、見事に曇っていて、全体的に灰色の世界でした。車から降りてもスッキリしません。
もう何しに来たのか、何の為の旅行なのか、誰にも分かりません。
何の感慨も無く、湖面を見つめるだけでした。

母が突然
「もう限界、帰る。」
と言って、1人でツカツカ何処かへ歩いて行ってしまいます。
誰も追いかけません。
1番近くにいた私が1人で追いかけました。

咄嗟に、義務感で、誰も動かないから仕方なく、です。悲しいかな、こういうときにだけ発揮される中間子特有の空気読み&絆す能力。
後の人生を知っていたら、私は追いかけなかったかもしれません。
追いかけない方が良かったのかもしれません。
それでも必死に母に「待って」「何処に行くの」「お母さん」と繰り返し呼びかけました。
気がつけば涙が溢れて止まりませんでした。

母は止まらず、電話ボックスに入りました。
私はやっと追いつきましたが、どうしていいか分かりません。
すると、父が後ろから追いついてきて、呆れた声で母に呼びかけました。
「もうやめろ。どうするんだ。何するんだ。子どもが追いかけて行ってんのに……。」
2人で喧嘩する限り、原因の半分は間違いなく父にあるのですけれど、何処まで行っても自分に悲はないって姿勢、凄いです。私を利用して引き止めようと言う魂胆なのですから。

この旅がその後どうなったか、不思議なくらい全く覚えていないのですけれど、母を追いかけて走った記憶は何度か夢に見ました。

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