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自由という枷

自由な時間を与えられたとき、人は何を思うのだろう。
与えられて嬉しいのか、それとも困惑するのか。
または、その両方か。


今日は、バイトが休みだ。いつもより30分遅く起き、パンを食べ、コーヒーをすすり、ゆっくりとゆったりと朝を過ごす。

本業(Webライティング)の方も、急ぎの案件はない。今日は終日休みにして、好きなように活動しようと決めた。

応募しようと考えているエッセイコンテストの、過去の受賞作品を読み漁る。どれも素敵な作品で、今の自分では到底届かないと痛感した。感動と落胆が同居する複雑な気分になった。

数年前から気になっていた小説を読み始めた。宮下奈都さんの『羊と鋼の森』だ。まだ1割程度しか読めていないが、ずんずんと引き込まれていく感覚がある。小説はあまり読まないが、これを面白いと呼ぶのは納得だ。


休日にしては、生産性はそれほど低くない過ごし方だと思う。
しかし、そこはかとない焦りを、僕は感じていた。


「働いている」といっても、「自立している」わけではない。
今この瞬間を本業にあてていれば、多少の稼ぎになったはずだ。
ほかの仕事を探したほうがいいかもしれないと、いたずらに転職サイトを開いた。

窓の外では、しんしんと雪が降っている。北海道の冬は厳しく、長い。
温かい部屋でぬくぬくと過ごす時間に、不安を抱く。得体のしれない焦燥感が、背徳感が、罪悪感が、僕の首筋にまとわりついて離れない。

中学だか高校だかの社会の授業で、『自由からの逃走』というものを知った。漠然とした理解としては、「人は、何もかも自由であるよりも、縛りがあったほうが生きやすい」みたいなことが書かれていたと思う。

同じ時間に出勤し、不平不満を腹に溜めながら働き、くたくたになって帰宅し、ほんの少しの自由を嗜み、寝て起きてまた同じような一日が始まる。
こういう状態のほうが、ある意味では楽なんだろう。


僕は、自由であって、自由ではない。

人に傷つけられるのを恐れ、人を傷つけるのを恐れ、それでいて孤独を最も恐れ、矛盾だらけの自由を生きている。

自由という枷が、両手首と両足首にカチッと装着されている。おまけに、首や腰にもあるような気がする。

枷にはそれぞれ鎖が繋がれており、鎖の先は見えない。その見えない鎖の先から吊り下げられた僕は、マリオネットのように宙ぶらりんになっている。
それでも、さも自分の意志で動いているかのように取り繕う、憐れな道化師だ。

枷も、鎖も、道化師も、全部ただの妄想だけど、容易に想像できてしまった。


何をもって自由とするか。そんなことを考えたってしょうがないのに。

操られていることに気づかないフリをしながら、その光か闇かわからない何かを抱えながら、自由に、そして不自由に手探りで今日を進むのだろう。


窓の外では、しんしんと雪が降っている。当分は止みそうにない。


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