「時間割」は正しかった。
大抵の悪いことは元を辿ると「自律神経の乱れ」なのであって、それを「そのままでいいや」と思ってしまうことが自分のことも他人のことも傷つける。「生活リズムを崩さない」そのために、自由な時間を残しつつ、起きる時間、寝る時間、動く時間、最近はルーティン作りを意識してる。
今朝こんなツイートをした。
わたしは週4で下北沢で働いている。
ドアトゥドアで14時間ほど外出している。
1日の中で家にいられるのは10時間。
睡眠時間は7時間は確保したい。
この、残された3時間で食事を摂り、風呂に入り、化粧をしたり、夫と会話したりする。
余裕はない。疲れる。でも、慣れたい。
疲れずにやれるようになりたい。
死ぬほどやりたいことがある。だから、長い時間動ける体力がほしい。人にやさしくできるだけの体力がほしい。そのための健康体がほしい。
若いうちは体が資本なのならば、いま体という資本を豊かにすることは、後々知識やお金といった資本を増やすための元金になる。
自分が健康でいるために必要なのは、無駄を省くことだと思う。もっと具体的にいえば、「惰性による無駄な時間と無駄な思考を減らすこと」だと思う。
その思考に行き着いた結果なのか、
後付けの理由なのかは定かでないけれど、
わたしに必要なもの。
あ、ルーティンや、となった。
なぜ、こんなにも体力もないうえ性格も悪い、嫌われてはいじめられて、といった私が子どもの頃全く不登校にならずにいられたのか。むしろ、小学生の頃から高校生までわりと厳しい部活にも所属し続けてこられたのか。
「そういうことにしていた」からだ。
「そういうリズム」があったからだ。
たしかにキツかった。キツかったけどね、
キツくても「ルーティン」だったからやれていたんだ、と思った。
そして、それがこなせていた時の自分というのは好きだった。自信があった。
例え他の人からはどう思われようとどうでもよかった。
学校にあった「時間割」。
授業前の読書タイム、
曜日と時間ごとに決められた教科、
食後の休み時間、
あの固く統制されたモノたちの意味。
それの重要性がわかった気がする。
ずっとどうしてこんなにも自由でないのかと思っていたけれど、これは「ルーティン」の学習だったのかもしれない。
卒業したらコレを自分でやるのだ。
コレを自分でやって、健康に生きるんだ。
何時に起き、何時に寝る、
どれだけ働く、どれだけ遊ぶ、
どれだけお金や時間を使う、
「管理」。
そういえば借金玉さんも「金曜日はカレー」
って言ってたっけな。
「そういうこと」にしておくと無駄な思考が減るね。
教育から解放されてしまった私たちは、自分で自分を教育していかなくちゃならない。
管理してもらえてた私たちは、自分で自分を管理していかなくちゃならない。
25歳にもなってようやく気づきましたとさ。
瑠璃
あなたのこと忘れない