路上の言語〜ストリート・スケートの起源『棒馬としてのプール』3

棒馬とは、子供が棒を馬に見立てたいわゆるごっこ遊びだ。

「最初の」棒馬にはおそらく像といえるようなものは全くなかったろう。ただの棒が馬と言われたのはそれに乗ることができたからだった。比較項は形よりも機能の方だった。
引用:E.H.ゴンブリッチ『棒馬 あるいは芸術形式の根源についての考察』P14

ゴンブリッチはある物を何かの代替物として使う際、機能を比較項としているものの例として二つを挙げ次のように述べている。

猫が鼠を追いかける要求をほかの代替物で満たす場合、すばしっこく不規則に動く鼠の動作を満たすための形としてスムーズに動き方向が制限されない球形が最小限の要件になる。耳がないとか足が生えていないとか、そのようなことはどうでもよいのだ。また、幼稚園生ぐらいの子が寝るときにタオルケットの端を口にしないと眠れないということがあるが、それは母親の乳房を吸って育つことの名残で母親の象徴を求めてああいった行為をする。

タオルケットは人間に似ている部分など一切ないが、母親という象徴を求めて吸うという行為を満たしてくれる機能を持っているから子供の欲求に適うことができた。それは要求に適うものであればタオルケットではなく親指であってもかまわない。

ボールは追いかけることができるということを除けば鼠とは何の共通性もない。親指は吸える点以外に乳房と共通するところは何もない。それらは「代替物」として生物の何らかの要求をみたしているわけである。
引用:E.H.ゴンブリッチ『棒馬 あるいは芸術形式の根源についての考察』P15

猫が鼠の代わりにボールを追いかけまわすこと、乳房の代わりにこどもがタオルケットや自分の指を吸うことは、求めているものをある意味で「表す」。ボールは猫の狩猟本能を、タオルケットと指は母親を求める子供の心情を表しているのだ。棒は馬の、ボールは鼠の、タオルケットと指は母親の象徴としての機能を持ち、それらの象徴と象徴されたものは機能を共通項に持つ。

しかし、ここでもまた「表現」は機能の最小限の要件をこえてまで形の類似性に頼っているわけではない。
引用:E.H.ゴンブリッチ『棒馬 あるいは芸術形式の根源についての考察』P14

棒が馬になったとき乗るという機能が優先されたわけだが、上記引用中にある【最小限の要件を越えてまで形の類似性に頼っているわけではない】とは、言い換えれば、最小限の要件さえ満たされれば代替物として認めることは可能なのだ。

さらに素材を求めるものの代替物として認めるためには、

代替物として機能するために最低限必要な要素を備えた「概念的イメージ」引用:田中純『表象の墓碑銘――ゴンブリッチ「棒馬」考』P28

が重要と述べている。どのような最低限のイメージになるかは求める機能と代替物になり得る素材によって決まる。

求める機能を満たしてくれる代替物を探す場合、上記引用中の【最低限必要な要素を備えた「概念的イメージ」】に適うかどうか素材と対話するわけだが、求める機能を持つ本体(つまり馬と波)の姿全体の部分を抽出することで棒とプールという素材は代替物になった。棒が馬になったのは乗るという動作に必要な、馬の乗ることのできる部分を持っているからであり、必要のない首やたてがみ、脚は省略されている。

乗るという要求が大きければ大きいほど、馬として役立つ特徴の数はそれだけ少なくなるだろう。
引用:E.H.ゴンブリッチ『棒馬 あるいは芸術形式の根源についての考察』P23

代替物として機能すれば、役立つ特徴があればそれだけで良い。

道具の役立つ特徴を見つけるのであればそのまま道具の持つ機能に焦点をあてればよい。棒馬の場合は馬の代わりに乗る機能をもつ代替物を探すために、まず乗るために必要な部分を探さなければならず、そのためには馬のどこかに焦点をあてなければならない。

焦点があてられる場所は乗っているときに見える馬の後頭部ではなく、まさに乗る部分である胴体だ。このとき、通常とは異なる視点で対象を分解している。頭の中にあるのは漠然としたただの馬のイメージではなく、最低限必要な要素である「胴体」のイメージを備えた馬の概念的イメージである。

暴れ馬に乗る疑似体験ができるロデオマシンというものがあるが、すべての装飾をなくしたロデオマシンの最後に残るのは乗る胴体の部分だ。最小限の要件である乗る部分さえあれば馬と把握することができるのだ。

このとき

「表現」は機能の最小限の要件を越えてまで形の類似性に頼
引用:E.H.ゴンブリッチ『棒馬 あるいは芸術形式の根源についての考察』P14

らない。「乗る」ものを求めたとき、最小限の要件が満たされれば代替物を手に入れることができるのだ。代替物になり得る素材の棒を見たとき、それは最低限必要な要素である胴体のイメージに適うと同時に抽象化され、馬になった。子供は棒を馬と把握したのである。

目に見える形として棒という姿であらわれているものが、馬と把握された。子供の抽象の力により棒は馬となったのだ。同じようにサーファーもプールという施設を抽象化した結果、波と把握しそこでスケートボードをした。プールのある庭全体を見ているとき、お椀のようなプールの内側のRに波を発見することができるだろうか。答えは否だ。部分の抽象化をして初めて波に見えるようになり、部分の抽象化をするには最低限のイメージが必要になる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?