古典100選(32)鳴門中将物語

もし現代において、自分の上司が、「昇進を約束する代わりに妻をよこせ」と言ってきたならば、絶対に大問題になるだろう。

『鳴門中将物語』は、実在した後嵯峨天皇が、ある少将の妻をたまたま蹴鞠の会で見初めて、蔵人(くろうど)に頼んで後をつけさせてその女性の居所を突き止め、少将の中将への昇進と引き換えに、自分の元に通わせることに成功したお話である。

今ならゲス野郎と非難される事案ではあるが、当時の天皇に逆らえる貴族はいなかった。後嵯峨天皇は、鎌倉時代の1242年から1246年までの5年しか在位していないが、1247年以降は上皇としての実権を20年近く握っていた。

この物語で描かれている「内」が、当時20代前半だった後嵯峨天皇であり、「為家卿」は藤原定家の息子の為家(ためいえ)である。藤原定家は、後嵯峨天皇が即位する前年に亡くなっていた。

では、原文を読んでみよう。

いづれの年の春とかや、弥生の花の盛りに、和徳門の御壺にて、二条の前(さき)の関白、大宮の大納言、兵部卿、三位の頭の中将など参りて、御鞠侍りしに、見物の人々に交りて女どもあまた見え侍る中に、内(うち)の御心寄せに思し召す、ありけり。
鞠は御心にも入れさせ給はで、かの女房の方をしきりに御覧ずれば、女わづらはしげに思ひて、うちまぎれて左衛門の陣の方へ出でにけり。 
六位を召して、「この女の帰らん所、見置きて申せ」と仰せられければ、蔵人追ひ付きて見るに、この女房心得たりけるにや、「いかにもこの男すかしやりてん」と思ひて、蔵人を招き寄せ、うち笑ひて、「『なよ竹の』と申させ給へ。あなかしこ、御返事承らんほどは、ここにて待ち参らせん」と言へば、すかすとは思ひもよらず、ただ、「数奇(すき)あひ参らせんとするぞ」と心得て、急ぎ参りてこのよし申せば、「さだめて古歌の句にてぞあるらん」とて、御尋ねありけれども、その庭にては知る人なかりければ、為家卿のもとへ御尋ねありけるに、取りあへぬほどに、古き歌とて、 

高しとて    何にかはせん    なよ竹の
一夜二夜(ふたよ)の    あだのふしをば 

と申されければ、いよいよ心にくくおぼしめして、御返事はなくて、「ただ女の帰らん所を確かに見て申せ」と仰せありければ、立ち帰り、ありつる門を見るに、なじかはあらん、見えず。
また参りて、「しかじか」と奏するに、御気色(けしき)悪しくて、尋ね出ださずは科(とが)あるべきよし仰せらる。
蔵人青ざめてまかり出でぬ。
このことによりて、御鞠もことさめて、入らせ給ひぬ。
その後は、にがにがしくまめだたせ給ひて、心苦しき御ことにぞ侍りける。

以上である。

これは物語の冒頭場面であるが、蔵人は後嵯峨天皇に命じられて女性に出会えたものの、逆に「なよ竹の」という古歌の一節を(後嵯峨天皇に)伝えてと言われ、それを伝えに行っている間に逃げられたのである。

それで後嵯峨天皇は不機嫌になり、蔵人に対して「探し出さねば何らかの罰を与える」と言ったので、蔵人は真っ青になった。

しかし、この物語には続きがあり、ようやく蔵人は後日同じ女性を見つけて、女性の居所や誰の妻であるかも突き止めたのである。

この物語は、古本屋に売っていると思う。ネットでも「日本の古本屋」で購入できるだろうが、必ずしも手に入るとは限らないので、この機会に近くの古本屋に足を運ぶのも良いだろう。

ただし、買い求めても現代語訳がついているとは限らないので、注意したほうが良い。


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