20世紀の歴史と文学(1912年)

1912年7月11日、明治天皇は、東京大学(=当時は東京帝国大学)の卒業式に臨席した。

明治天皇は、明治32年から東大の卒業式に臨席していたのだが、当時は、7月が卒業式だった。

このとき、東京帝国大学で英文科の講師を務めていたのが、夏目漱石であった。

そして、明治天皇はこの日、体調がすぐれなかったようだが、実はこの18日後にお亡くなりになった。59才だった。

明治45年7月30日午前0時43分に亡くなられたのが公式な発表であるが、実際はその2時間前(つまり7月29日午後10時43分)に御臨終となった。

なぜ時刻を遅らせたのかというと、日付が変わるまで残り時間が短すぎて、皇位継承の手続きができない状況だったからである。

7月30日、明治天皇の唯一の成人した息子(三男)であった大正天皇が皇位継承したことで、この日の元号は大正元年になった。

大正天皇は、明治12年8月31日にお生まれになったので、このときは、33才の誕生日を迎える1ヶ月前だった。

大正元年(1912年)8月1日、夏目漱石は、明治天皇の崩御について、『法学協会雑誌』に次のような追悼文を寄稿した。

過去45年間に発展せる最も光輝ある我が帝国の歴史と終始して忘るべからざる 大行(たいこう)天皇去月30日を以て崩ぜらる
天皇御在位の頃学問を重んじ給ひ明治32年以降我が帝国大学の卒業式毎に行幸(ぎようこう)の事あり
日露戦役の折は特に時の文部大臣を召して軍国多事の際と雖(いえど)も教育の事は忽(ゆるがせ)にすべからず其局に当る者克(よ)く励精せよとの勅諚(ちよくじよう)を賜はる 
御重患後臣民の祈願其効なく遂に崩御の告示に会ふ我等臣民の一部分として籍を学界に置くもの顧みて天皇の徳を懐(おも)ひ 天皇の恩を憶(おも)ひ謹んで哀衷を巻首に展(の)ぶ

以上である。

最後の文に書いてあるとおり、この追悼文は、雑誌の巻頭に掲載された。

そして、漱石は、この2年後に『こころ』という小説を発表するが、この作品にも明治天皇の崩御のことが触れられている。

そして、大学の7月の卒業式や、乃木大将夫妻の殉死についても、主人公の「私」や父親の言葉で語られている。

乃木大将というのは、知る人ぞ知る乃木希典(のぎ・まれすけ)のことであり、日露戦争で大活躍した陸軍の軍人である。明治天皇の信頼も厚く、乃木自身も天皇を心から慕っていた。乃木は、明治天皇より3つ年上だった。

1912年9月に、明治天皇の「大喪の礼」が実施されたのだが、その日の夜に、乃木希典は、妻とともに自刃して殉死したのである。

国民的英雄の殉死は、当時の新聞でも大きく報じられ、夏目漱石の『こころ』でも、主人公の父親が病気になって寝込んでいる場面で、こんなふうに書かれている。

父は時々囈語(うわごと)をいうようになった。 「乃木大将に済まない。実に面目次第がない。いえ私もすぐお後(あと)から」
こんな言葉をひょいひょい出した。
母は気味を悪がった。

以上である。

文豪の作品にも影響を与えるほど、明治時代は、神格化された天皇の崩御と国民的英雄の殉死によって、終わりを告げたのである。



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