歴史をたどるー小国の宿命(95)

観応の擾乱で、側近の高師直を失った足利尊氏は、弟の直義が擁する直義派の排除工作をした。

高師直ら一族が滅亡しても、直義派と反直義派に足利氏一門は分裂しており、関係修復は難しい状況であった。

そうすると、直義は行き場を失うわけであり、帰順した南朝方に対して、正式に降伏したのである。兄の尊氏にとっては、もはや弟とは仲直りできない状態であり、ともに鎌倉幕府を打倒したかつての兄弟仲は完全に断ち切られた。

弟の追討の綸旨を、南朝の後村上天皇に発出してもらうために、尊氏は北朝側の人間でありながら、無条件降伏をしたのである。これは、戦術としては奇策であった。

この動きを察知した直義は、もはや兄の近くにはいられないと判断し、京都から鎌倉へ逃亡した。

1351年10月、室町幕府の初代征夷大将軍である足利尊氏の降伏によって、北朝が南朝に吸収合併される形で、南北朝が一時的に合体した。

この合体は、南朝の元号の名をとって、「正平一統」(しょうへいいっとう)と呼ばれたのである。当時、北朝の元号は「観応」であった。

後村上天皇から正式に直義追討の綸旨を受けた尊氏は、その年の12月に、鎌倉へ逃亡した直義を追いかけて、京都を出発する。

そして、翌年1月に、とうとう直義は追い詰められ、兄の前で降伏したのである。2月には現地で幽閉されたのだが、ほどなくして急死する。

この死因については、尊氏に毒殺されたのではないかといわれている。奇しくも、直義が亡くなった時期は、ちょうど高師直の一周忌であった。

自分の側近を殺された尊氏の復讐だったのだろうか。真相は分からない。

次週は、一時的に合体した南北朝が再び分かれることになる。いったい何があったのか、引き続きお楽しみいただきたい。






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