【続編】歴史をたどるー小国の宿命(8)

足利義満が南北朝合一を実現させたとき、天皇は大覚寺統と持明院統の双方が交互に即位するという「両統迭立」(りょうとうてつりつ)の約束事が、再び決められた。

そもそも南北朝が分裂した状態で、室町幕府が始まったのは、誰のせいだったか覚えているだろうか。

そう、鎌倉幕府を倒した第96代の後醍醐天皇である。

その後、後醍醐天皇の息子である後村上天皇が第97代、後村上天皇の息子である長慶天皇が第98代、長慶天皇の弟である後亀山天皇が第99代の天皇になった。

つまり、後亀山天皇の代まで、ずっと大覚寺統の天皇が、南朝で続いたわけである。北朝は北朝で、足利尊氏らによって持明院統の天皇が立てられたが、正統な皇位継承として認められたのは南朝のほうであった。

ただ、第99代の後亀山天皇は、足利義満の働きかけで南北朝合一に協力し、同時期に北朝の天皇だった後小松天皇に神器を譲り渡したのである。

そして、後小松天皇は、第100代の天皇として、南北朝合一後初めて、単独で即位したわけである。

そうなると、第101代の天皇は、大覚寺統から即位するという約束なのに、実際は、後小松天皇が自分の息子の称光(しょうこう)天皇に譲位したのである。

この譲位があったのは、1412年のことであり、すでに南北朝合一の立役者だった義満は1408年に亡くなっていた。

南朝の勢力は、当然のことながら、約束が違うではないかと反発した。

後小松天皇は、北朝時代の即位から数えると、丸30年も在位したのだが、息子の称光天皇に譲位したあとは、なんと上皇として引き続き権力を持ち続けたのである。

そして、上皇としての院政は、4代将軍の義持の代を超えて、1431年まで続いた。6代将軍の義教は、守護大名からは恐れられていたが、後小松上皇は、義教に仲介を依頼して、自分の息子の後にも、持明院統から後花園天皇を即位させたわけである。

だから、南朝の勢力はよけいに猛反発するわけだが、義教の恐怖政治を前にして、なかなか思い切った行動が取れなかった。

1433年に後小松上皇は57才で亡くなり、6代将軍の義教はその8年後に暗殺される。

その後、南朝の勢力が、後花園天皇を狙うのは、当然の成り行きだったといえよう。




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