【続編】歴史をたどるー小国の宿命(9)

暗殺された父親の跡を継いで、1442年、義教の長男の義勝は、7代将軍に就任した。

ちなみに、「義勝」の名前は、後花園天皇がつけたものであり、もとは幼名の「千也茶丸」(せんやちゃまる)であった。

後花園天皇は、このとき23才で、立派な社会人である。義勝は、まだ8才だった。

だが、不運にもこの義勝は、就任後たった1年で死んでしまう。死因は、赤痢とされている。

義勝が亡くなった1443年、またもや将軍不在の混乱に陥った幕府の隙を、南朝勢力は見逃さなかった。

義勝の死後1ヶ月経って、南朝勢力は、夜襲をかけて内裏に火を放った。後花園天皇は、身の危険を感じて避難して無事だったが、南朝勢力は、神器を奪った。

南北朝合一のときに、後亀山天皇が後小松天皇に譲り渡した神器であり、剣と勾玉が奪われたのである。

剣は、後日清水寺で発見されたが、勾玉は持ち去られてしまった。

それでも、後花園天皇は引き続き天皇の地位にとどまり、南朝勢力の討伐は、管領の畠山氏が中心に対応した。

その間、亡くなった義勝の後継者として、2つ年下の弟であった義政が就任する運びとなった。

実際は、1449年まで義政は正式に就任せず、細川氏や山名氏などの守護大名が実質的に幕政を維持していた。

義政は、あの銀閣寺を建てたことで有名である。8代将軍として就任したあと、25年間もその地位にとどまり、祖父の義満の金閣に倣って、将軍職を退位してから銀閣を建てた。

応仁の乱の渦中を生き抜き、1490年に54才で亡くなるまで長生きした義政は、周りの守護大名とどう渡りあったのだろうか。

また、同時期に生きた後花園天皇とのかかわりは、どのようなものだったのか。

明日で、いったん本シリーズは中断する。1467年から10年に及んだ応仁の乱については、再開後、改めて解説したい。

明日は、応仁の乱の前に、あの赤松氏が復活することに触れておこう。



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