【続編】歴史をたどるー小国の宿命(1)

1401年、15世紀の幕が開けたとき、日本では、室町幕府の第4代将軍である足利義持(よしもち)が実権を握っていた。

義持は、3代将軍であった義満の長男であり、父親が1395年に譲位したため、そのときから跡を継いでいた。譲位されたとき、義持はまだ9才であり、1401年には15才になった。

父親の義満は、将軍職を退いたあとは、1408年に50才で亡くなるまで余生を過ごした。

その余生を過ごした場所が、今でも観光名所となっている鹿苑寺金閣のそばの北山山荘であった。

この山荘は、もともと鎌倉時代に西園寺公経(さいおんじきんつね)という公卿が、1224年に建てた別荘であった。

それを200年近く経って、義満が譲り受け、1397年に総工費100余貫を投じて、改築したのである。

100貫というのは、今の金額では1200万円ほどにあたる。金閣寺の建設は、相当のお金がかかったはずである。

だが、その山荘は、義満の死後、ほどなくして解体される。金閣寺だけが残されたのである。

実は、義満は、長男の義持とは折り合いが悪く、北山山荘の解体も、義持が解体を命じたといわれている。

今でもおそらくは反感を買われると思うが、権力者が自分の別荘を大金を投じて建てたら、庶民は快く思うだろうか。

義満は、中国の明(みん)とも貿易をしたことで有名であるが、義持はそれも父親の死後に断り、国交を断絶した。

こうして、義満の死後、室町時代は新たな局面を迎えるのである。

義持は、室町幕府の将軍としては、最長の28年間、在職したのである。








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