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掌編小説【薔薇喪失】

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美貌の公爵こと麗人薔薇柩による美と幻想への耽溺。 最も美しいものを失い、自らの美貌に処刑された貴公子の、優美な日常と殺伐の物語。 掌編小説。耽美小説。幻想文学。幻想小説。
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掌編小説【薔薇喪失】42.行方知れずの手紙に溺れて

掌編小説【薔薇喪失】42.行方知れずの手紙に溺れて

 しどけない倦怠を、はためかせた黒絹のガウンに含みながら纏っていた。はだけた肩を直すには、物憂さがすぎた夜が落ちてきている。湯浴みの残り香は、麗人を魔物めいて匂い立たせる妖艶に気怠い空気を添えていた。麗人は真っ直ぐ机に向かっていくが、机に向かう作業をするには、遅すぎる時間だった。
 開けっぱなしの窓から吹き込む風に、カーテンが揺らめく闇のように翻るのを見つめてから、麗人は椅子に座った。何を考えてい

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掌編小説【薔薇喪失】41.水に委ねた悲劇と英雄

掌編小説【薔薇喪失】41.水に委ねた悲劇と英雄

 水に揺られて咲く薔薇は、どれも暗い赤の花びらをしていた。巻かれた柔い花弁に雪をのせて、漣に咲いている。神聖な水の下でしか生きられない薔薇が、暮らしから隔絶されたその湖が特別であることを語っている。山の上にある湖は拒むのである。その場所に、立ち入ることが相応しくないものを。静謐は漣の無音。水は何処かへ打ち寄せる時だって、何かを言うことはなかった。
 空気の彩度は限りなく落ち込んでいる。澄んだ水面は

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掌編小説【薔薇喪失】40.人生の断頭台を飾るために

掌編小説【薔薇喪失】40.人生の断頭台を飾るために

 眼下に見下ろせる薔薇庭園の遥か遠くの何処かから、金木犀の匂いが風に乗って漂っていた。薔薇庭園の向こう、広い敷地の先にある門を、麗人は見つめた。黒地に白く大きな薔薇模様をあしらった大判のストールを肩にかけて、黒いシャツの襟をかき寄せる。
 麗人がいたのは、城のバルコニーだった。ラム酒を垂らしたコーヒーが冷え切って、重ね置かれた分厚い本の山を築いた隙間で肩身が狭そうにしている。雑然としたテーブルの中

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掌編小説【薔薇喪失】39.星の配置図、薔薇の支配図

掌編小説【薔薇喪失】39.星の配置図、薔薇の支配図

 星明かりが、不思議と弱くなっている。貧民窟で芥を漁りながら歩いていた夜鴉は、残飯を突くことをやめていた。見上げた夜には、月明かりがある。しかし、雲がないにも拘らず、星の煌めきが減っているように思えて、小首を傾げていた……

 明るかった夜は、星明かりが異変を見せていた。ランプの灯をぽつりぽつりと消していくように、星が一つ、また一つ、誰かが夜を見上げるたびに、姿を消していたのだった。無論、星が姿を

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掌編小説【薔薇喪失】38.変身する肉体と死の国へ続く夜

掌編小説【薔薇喪失】38.変身する肉体と死の国へ続く夜

 開け放たれた窓から、深更が吹き込んでいた。冷たい風とともに、清らかに落ちている夜闇が、カーテンを魔物のように躍らせては、誰にも侵せない時間を昏く彩るのだった。麗人は誰も入り込む余地のない夜の底で、花瓶に生ける薔薇を切っていた、麗人の白い手は、薔薇に傷付けられていた。節と節の間隔が長い指は、切り付けられて、白い肌の肌理(きめ)に血が這い込んで刻まれている。だが麗人は無造作な薔薇の、鋭い棘を切り落と

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掌編小説【薔薇喪失】37.悪夢を欺く仮面と悪夢を暴く美貌

掌編小説【薔薇喪失】37.悪夢を欺く仮面と悪夢を暴く美貌

 彼岸と此岸の境界が、曖昧に霞んでいた。昨日でも今日でもない時間の青みは、灰色がかった薄靄となって漂っている。薔薇庭園を包み込む冷たさは視界を酷く煙らせている。早朝と浄闇、その瞬きの狭間。全てが淡くほどけていた。薄闇色の曖昧は何処までも広がり続けていた。
 何処かから戻ってきた黒蝶が、麗人の黒髪に吸い込まれていった。薄靄に奪われた視界の外から、旅に出ていた黒蝶がひとひら、またひとひらと、戻ってきて

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掌編小説【薔薇喪失】36.手帳の余白と先約主義

掌編小説【薔薇喪失】36.手帳の余白と先約主義

 誰もいない執務室に、風がこそりと入ってきた。少しだけ開いていた窓から、吹き抜けた風。少し前まで誰かいた薔薇の血の青みが匂い立つ室内、机の上に置き去られた手帳は開かれたままだった。一日の予定を書きこむ、その日の日付が横たわる。誰に見られても構わないのか、手帳は無防備に、奇妙な余白を曝していたのだった。昼下がりのある数時間。何かの予定があることだけを意味するように、時間を区切るような書き込みだけがあ

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掌編小説【薔薇喪失】35.何処にもない薔薇

掌編小説【薔薇喪失】35.何処にもない薔薇

 赤い薔薇の花束一つ、それだけが道連れだった。麗人は、薄墨色の湖を渡っていた。柩のような、細い黒塗りの舟に乗っていた。大切に花束だけを積んだ舟を、心許ない櫂で水を切りながら、漣を立てていた。透き通った水の匂いを胸に含ませて、麗人は水に根を張る薔薇が咲く湖を進んでいた。自分の葬送を、自分一人で執り行っている気分だった。誰もいない岸が見えていて、そこが何処なのかは分からなかった。それでも麗人は、折れそ

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掌編小説【薔薇喪失】34.僕の薔薇はいつもなくなる

掌編小説【薔薇喪失】34.僕の薔薇はいつもなくなる

 麗人は城へ帰る道を、一人歩いていた。大きな薔薇の、花束を肩に乗せていた。麗人の所有する黒い巨城、極夜の孤城、あるいは常夜城ことデュラフォワ城は、高級住宅街の先にある。住宅街と城の区画は大きく二分されていて、住宅街の数倍もの敷地を、麗人の城と庭が占めていた。城がある区画への道は、一つしかない。白は現在、公には閉鎖されていることになっていて、人が立ち入れるのは住宅街までとなっていた。尤も、麗人はこの

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掌編小説【薔薇喪失】33.辺境に流れて

掌編小説【薔薇喪失】33.辺境に流れて

 薄墨色の湖を、音のない漣を描きながら進んでいた黒くて細い舟は、見知らぬ土地の海岸に上陸していた。柩舟は、流木のように打ち上げられている。波と砂浜の境界で、水に沈んでいる薔薇の根に引っかかると、柩舟は大きく傾いた。岸辺に佇む薔薇の樹木、薄墨色の水に根ざしていた薔薇に座礁して、麗人は舟からまろび出る。葬られた死者が、蘇って柩から這い出るような重々しさと厳かさがあった。薔薇の樹木が根ざす水際は、湿原の

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掌編小説【薔薇喪失】32.麗人の首

掌編小説【薔薇喪失】32.麗人の首

 ──その交錯は、無音の斬首に似ていた。
 滑らかで鋭い刃が、首に、斬られたことを悟られないような、そんな鮮やかさだった。

 麗人は夜の繁華街を歩いていた。ダークスーツにの上に羽織った豪奢なファーコートを夜風と覇気でふわりとさせていた。オペラ座から帰ろうとしていたのだった。正装なのは、観劇のためだった。すでに醒めた高揚の残滓を吐息に乗せて、麗人は夜の威容を纏いながら、大股に歩いていた。帰ったら、

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掌編小説【薔薇喪失】31.美と悲しみのゲシュタルト

掌編小説【薔薇喪失】31.美と悲しみのゲシュタルト

 長い睫毛が、微かに震えた。気づかれないように頬に落とされた唇の感触に似た柔い何かの気配で、麗人は呆っと目を覚ました。曖昧な口づけの正体は分からないまま、目を覚ますつもりがなかった早朝に目眩を覚えて動けない。ベッドに横たわったままで、麗人はぼんやりと、睫毛の長い目を半分伏せていた。明眸は図らずも、何かを睨んでいるような鋭さになっていたが、麗人が見ていたのはカーテンの隙間だけだった。青みを帯びた眉目

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掌編小説【薔薇喪失】30.呪われた瀉血

掌編小説【薔薇喪失】30.呪われた瀉血

 沈黙している扉があった。暗がりの中、足元だけを点々と照らす、間接照明の赤光。その残滓が赤黒い闇の中に蟠りながら、ただの扉を不気味な色にしていた。ほどけた赤光は、闇との親和性が高くなっていた。扉はまるで、炎と暗がりに飲み込まれているようであった。内側から、鍵穴がたてた小さな音がした。鍵がかけられた音だった。闇の中に消えていくような扉は、施錠されるとそのまま園先にある空間ごと外界からは不可侵の存在に

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掌編小説【薔薇喪失】29.殺し屋の善良

掌編小説【薔薇喪失】29.殺し屋の善良

 殺し屋という仕事は、革命家よりも善良な職業だと、炎が灯った薔薇を手にした麗人は思っていた。責任などという言葉を、大義によって喰らい尽くしたような、食傷による眠気が瞳の色を朧ろにしていた。殺し屋は時間をかけない。殺す相手だって、正確に決められた人物のみが対象になる。革命はどうして、殺し屋のように正確に人を殺す力がないのであろうかと、麗人は無益な心の赴くままに、ただ思うだけのことをして、無責任な風情

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