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吉本ばなな『キッチン』:悲しみに寄り添いながら生きる再生の物語

我が家のキッチンにはいつも父が立っていた。周りの友達に父がキッチンに立っている家庭はなく、なんとも言えない不思議な空間だった。それが嫌いだったわけではない。父が作る料理は抜群に美味しかったし、母は料理が苦手だと言っていたため、適材適所なのだろうと子どもながらに感じていた。

父の得意料理はなんだったのだろう。カレーや肉じゃが、唐揚げ、オムライスのような鉄板の家庭料理はもちろん、季節の魚や野菜を使った料理も作っていた。どれもご飯が進む料理ばかりで、父が見ていない隙につまみ食いをして、それがバレて怒られたものだ。でも、こっそりとお母さんには内緒やでとつまみ食いを許してくれたのも父の優しさだった。

当時の価値観では、女性がキッチンに立ち、男性は食事をするが普通だったように思える。終身雇用の崩壊や年金問題、女性の社会進出などを受けて、今でこそ男性がキッチンに立つのは普通になったけれど、当時は違和感しかなかった。

父がキッチンに立つ不思議さは拭えずとも、ありきたりな幸せがいつまでも続けばいいと思っていた。中学3年生になったときに、母の癌が発覚する。そこから父も仕事をするようになり、少しずつキッチンに立つ機会が減っていた。ピカピカに磨かれた調理器具も置き物となり、なぜここにいるのだろうと疑問に思っていたかもしれない。そして、母の治療費を稼ぐために父は昼夜問わず働き続ける日々を過ごし、残された僕は自分の食事を作る必要が出てきた。自分で作るのはあまりにも面倒で、それまで食事が当たり前のように出てきていたあの日々がとても幸せだったと気付かされたのだ。

誰も手をつけないキッチンは、声にならない寂しさを感じているような気がした。使用されていない食器や調理器具に埃だけが溜まり、かつての輝きは失われつつある。僕が使おうと思っても、その使い方を知らない。もっと早くに父に料理を教われば良かった。料理をするのは大人になってからだと思っていたため、つまみ食いか調味料やハンバーグをこねるなど簡単なことしかしてこなかったのだ。

毎日のようにバイトをしていたため、料理を作る気力も湧かない。埃が溜まると比例して、食器や料理器具がもの寂しそうにこちらを見る回数も増えた。それを無視して、布団の中に潜る。申し訳ない気持ちよりも体の疲れを取るを優先させたかった。結局、僕は一人暮らしをするまで実家のキッチンにほとんど立たなかった。

一人暮らしが始まり、新しい家のキッチンにワクワクしている僕がいた。少しずつキッチンに立つ機会が増え始め、最初は簡単な料理しかできなかったけれど、自炊はやらなかっただけで、やってみると案外できるものだと実感した。かつて働いていた職場の上司が「料理は理科の実験のようなもの」と言っていたことをふと思い出す。確かに調味料を混ぜたり、いろんなものを切ったりする工程は理科の実験に近い感覚がある。試行錯誤を繰り返しながら、少しずつ理想の味に近づけていく。なんて言いながら、まだ僕はレシピ通りにしか料理ができないのだけれど。

吉本ばなな著書『キッチン』は、祖母を亡くした主人公のみかげを軸に進められる優しさと寂しさに満ち溢れた物語である。キッチンでレシピ本を作り、3人で食卓を囲むその様はかつて家族で食卓を囲んでいたあの頃を思い出す。みかげがカツ丼を食べたときに、雄一に食べてもらいたいと思ってすぐさま彼の元に駆けつけるエピソードがたまらなく好きだ。これほどまで愛を感じるものはない。美味しいものを食べたときに、大切な人にも食べてほしくなる。その気持ちは誰もが持ち合わせているものなのかもしれない。よく綺麗な景色を見たときに思い浮かんだ人が好きな人という話を聞くのだけれど、そこに愛情はあれど、それが必ず恋ではないということを『キッチン」は丁寧に描いている。

2023年2月から恋人と同棲を開始した。1週間に最低2回以上はキッチンに立っている。昔はレシピを決めてからスーパーで必要な食材を購入していたのだけれど、最近は冷蔵庫にあるもので料理をできるようになった。加えて、料理の彩りを気にするようになった。全ては作った料理を美味しいと言って食べてくれる恋人のおかげなんだろうな。

病める時も健やかな時もそばにいてくれる人がいる事実。そして、あなたのためにご飯を作りたいと思える事実。人生には辛い出来事が付き物なのだけれど、それがずっと続くわけではない。そう感じさせてくれたのが、『キッチン』だ。そして、本作は僕のバイブルとなっていて、おすすめの本を尋ねられたときに、必ず答えている本でもある。これから先も何度も読み返すことは間違いないし、ふとした瞬間にみかげが進んできた道のりを思い出して、まだ頑張れると勇気を与えてもらうのだろう。

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