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何処でだって、ブーストさせていいのかもしれない

書きたいことやら書くべきこと、書けることはたくさんあるのだけれど、なんだか私生活がバッタバッタしており、落ち着いて書けていない。(大変なことがあるという意味ではなく、単に「noteを書くこと」以外のやること・考えることが多い)

頭のキャパシティって限られているんだなぁと実感する。落ち着いた時間がないと、書けないんだもんね。書くと落ち着く、というときもあるけれど、とにかく「書く」という行為にたどり着くには、それなりのキャパが必要。


文筆家の嶋津亮太さんが主催している「教養のエチュード賞」。そこに私はスーパーオオゼキの体験レポを出してみたのだけれど、それに対して嶋津さんから頂いたコメントに、目から鱗がポロポロ落ちる言葉があった。

Saeさんの作品。念願のスーパーオオゼキ体験。そのレポート。とにかく愛に溢れている。
(中略)
Saeさんは「人」が見える。ウキウキしている顔が浮かぶ。文章を通して話している感じ。だから「この人、とても素敵な人なんだろうな」って。「文章を磨く」という表現があるけど、彼女の場合は「人を磨く」ことが一番早いと思う。一番早いというのは、「いい文章を書く」に繋がるということ。会ったことがないので、説得力はないのだけれども。
オオゼキへの恋が、愛へと変わる、壮大な物語。

私はもうすぐ1年、毎日noteを更新していることになるのだけれど、コンテスト関係で賞をいただけたことがない。賞をいただけないことに対して「なんでだよ〜」と思ったことはない。だって、出している作品がめちゃくちゃにつまらないから。

どちらかというと、なんで賞に出す作品が、つまらなくなってしまうのだろうか、と考えていた。ずっと。他人の作品と比べる、というよりかは、自分と向き合っている感じ。

しょーもないなーと思いながら好き勝手書いたものの方が、思いがけず読んでいただけたりする。これってガチャなの?と思ったりした。「書く」そして「評価される」ことって、運ゲーなのかなぁ、とか。そんなわけ、ないんだけど。

結局は、テーマを与えられてしまうと、ものすごく自分を失ってしまうんだと思う。「こういうテーマで書いてください」と言われると、萎縮してしまう。綺麗に、整った、美しくトゲのない、なんでもない文章を、書いてしまう。誰が書いてもおんなじになってしまうような、そんな個性のない文章を。

「コンテストのために書く私の文章、なーんでこんなにつまんないんだろ」といつもいつも思っていた。自分で自分の文章を読んで「つまらない」と思うのだから、そりゃ賞なんていただけるはずがないのである。

嶋津さんのコメントを読んで、合点がいった部分がある。私の文章を毎日しぶとく読んでくださったり、フォローしてくださっている人たちは、きっと「私の文章」そのものを作品として捉えて好きだと思ってくださっているというよりかは、私の日常を覗いてくださっている感覚なんじゃないかなあ、なんて。

なんかすごくネガティブに聞こえるけれど、全然ネガティブな意味で言っているわけではない。どちらかというと、私は書くことに関して、自分の「核」となるような特徴や個性を、ずっと探り続けている感覚がある。それに少しでも気づけるヒントがあるのであれば、なんでも欲しい。つまらない文章を書こうが、賞で選ばれなかろうが、読まれなかろうが。だから、なんだってチャレンジしたい。

「文章が上手くなりたい」「魅力的なものを書ける人になりたい」とはずっと思ってきたし、今も思っている。けれど、それが、イコール書く技術が上がること、ということではないのかもしれない、とも思った。

思えば、歌が上手い人なんてたっくさんいるけれど、「良い歌を歌うなぁ」と思う人は、それほど歌うこと自体は上手くなかったりするもんなぁ。

そんなもんなのかもしれないな、と思うと同時に、少しだけ、自分の書くことに対する向き合い方を変えていける気がした。

人に評価される場だったとしても、自分の感情を表現する場。ブーストさせていい場所。良い子でいなくたっていい。綺麗に整えようとしなくたっていい。そう思うと、もっと気楽に、自然な心で、文章を慈しむことができると思うのだ。

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。