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贅沢な望み

インプレッションゾンビがうじゃうじゃしているツイッター(現X)。もはやツイートに対するリプライなんて何の意味もなさないと思いながら、10数年の手癖だけはなかなか抜けず、引用リツイートを流し見している。「へー、こんな考え方の人もいるのね」「はー、荒れてますなぁ」「ここにもインプレゾンビがいるよ」なんて思いながらもそっと閉じ、次の瞬間には違うアプリを開く。ツイッターの治安の悪さなんて今に始まったことではなく、いちいち受け取っていたらやっていられない。そんなふうに、ぬるりと付き合ってきた。

ただ、今日は、うまく付き合えなかったのかもしれない。あるツイートをみて、ほうほう、と思い引用リツイートを覗いたが最後、心に刺さった小さい針が抜ける気がしない。小さいはずなのに、毒がまわるようになっているタイプの針だ。

あるお母さんのSOSともとれるツイートだった。2人の子どもを育てているが、2人とも障害をもって生まれてきた。とにかく全てが大変すぎる。3人産んで3人とも健常な家庭もあるのにどうしてうちだけ。神様はひどい。こんなことなら、産まなきゃよかった。どうしてもそう思ってしまう。そんなようなことが書かれたツイートだった。

あぁこれは大変だ、と思った。状況が大変なのはそうなのだが、それ以上にこの書き込みをしているお母さんがあまりに限界に近い場所にいるのだと思ったから。ノイローゼ状態のように見えた。あまりに孤独なように感じ取った。これはどうにかして母子ともに安全な場所で休み、誰か/何かの手を借りて保護されることはできないのだろうか。そんなことをぼんやり思いながら、いつもの流れで引用リツイートをみたら、そこはもう、なんていうか、地獄だった。

「2人連続っていうのは遺伝だろうなぁ」
「1人産んで障害を持っていたのに、なんでもう1人産もうと思ったの」
「産んだのは親の責任。産まなきゃよかったはありえない。」
「このひと、6-7年くらいうつとパニック障害もってるっぽい。なんでその状況で産もうと思ったかなぁ」

そんなようなことがずらずらと並んであった。中には「どうにかして休んでください」というようなメッセージもほんの少しあったけれど、大半が上記のような言葉たちだった。

えーーーーと。
「遺伝」っていう言葉の暴力さをどうしてこうも簡単に投げつけられるんだっけ。障害をもつ子供が生まれたらもう1人子供を産んじゃいけないんだっけ。子育ての大変さって、弱音を吐くことも許されないんだっけ。子育ての責任って、お母さんだけが背負わないといけないんだっけ。病気を持っているひとは、子どもを産んじゃいけないんだっけ。

デリカシーも優しさも配慮も適切な距離感も何もかもがない言葉たちに、私までもがじわじわと傷ついたのがわかった。特にこたえたのは「このひと、6-7年くらいうつとパニック障害もってるっぽい。なんでその状況で産もうと思ったかなぁ」というような言葉だった。

私は30代半ばに差し掛かりつつある、独身の女性で、かれこれ5年以上パニック障害の治療をしている。あぁ、今書いていて思ったけれど、こうして自分のことを紹介するときに、属性のひとつとして病気のことを書くのはもうめちゃくちゃ飽きました。病気がなんだっていうんだ。パニック障害という言葉も聞き飽きたし使い飽きたんだよ。そう思う気持ちが8割くらいあって、でも思い出さずにはいられないくらい病気というのは自分のアイデンティティに食い込んで染み付いていっていて、この病気なしに自分のことをしっかりと説明することも難しいのだということも8割くらい感じている。つまり、16割。感情も脳みそもとっくにキャパシティを超えながら、それでも生きたいしできる限りたのしい人生を送りたいから、なんとか自分をみつめながら生きている。(病気を持つ人間は、もしかしたら大抵そうなのかもしれない)

30代半ばという年齢を考えると、自分は子どもを産むのだろうか、という疑問が頭をよぎる。そして、その疑問に明確に答えをみつけられないから、卵子凍結をした。2回採卵手術をして、約2ヶ月にわたる検査・投薬・通院・手術というプロセスを経て、お金も100万円くらいかけた。答えがわからない問いに対してかけるコストとしては大きいのかもしれないが、答えがわからないものは仕方がない。そして、卵子凍結は魔法ではなく、妊娠が約束されるものでもなく、運がよかったら役にたつお守りくらいに思っておいた方がよいこともわかっている。

そこまでして、卵子凍結を決めた理由にもまた、病気のことが関わってくる。投薬治療中の身で妊娠・出産は厳しいのではないか。まずはそれよりも自分の体や仕事を整えることを優先した方がよいのではないか。そして何よりも、自分の健康という何よりも大事なものに対して大きな挫折を経験した身としては、自信がなかった。

年齢も年齢のため、周囲の友人知人が必死な思いで妊娠・出産・子育てに取り組んでいるところを見ているし、すくすくと育って保育園に通って友達ができて習い事に通わせて…などという他人からみたら「当たり前」に見えるであろう状況を整えるのにも血の滲むような努力が必要であることを知ってしまった。中には流産・死産や、病気で幼い子を亡くすケースがあることも見てきたし、障害をもって生まれた子どもをもつ友人も当然ながらいる。妊娠や出産、子育てがキラキラと夢や希望に溢れただけのものだなんて一ミリも思っておらず、どちらかというと想像しただけで大変そうすぎて、自信がない。だからこそ、今すぐに産むという決断もできず、だからといって全ての可能性を消し去る勇気もなく、卵子凍結という今とりうる選択肢をとったというだけだった。

一方で、病気を持ちながらも妊娠・出産をし、子育てをしている知人も複数いる。私と同じくパニック障害を持ちながらも出産をしたひともいて、おめでとうと声をかけたところ「さえさんももしそういうことを考えることがあったら、言ってくださいね。薬のこととか、不安じゃないですか」と話してくれ、予定もないのにその心強さに泣きそうになった。(こういう不安は、なかなか自分からは口に出せないものだ。一番気になることこそ、一番いいづらい。厄介なことに。)

そんなふうに、卵子凍結という選択肢を取ることができ、理解し寄り添ってくれる友人知人がいるというめちゃくちゃ恵まれた環境にいる私ですら、冒頭の引用リツイートの数々をみて「病気を持っているやつが子どもを産もうと思うなよ」と言われた気分になってしまったのだ。

病気を持つ人は子どもを産んではいけないのかもしれない。産むことを望んではいけないのかもしれない。この病気も「遺伝」するのだろうか。運良く健康に生まれてきたとしても、母親が病気だったら子どもにかわいそうな思いをさせてしまうのだろうか。それなら、産まない方が子どものためなのだろうか。私が子どもを産むのはやめて、健康なお母さんが産んでくれた子どもたちを見守るおばあちゃんになろうかな。そんなふうに、本来であれば自分の意思が尊重されるはずのひとつの選択肢が誰かの言葉によって霞んで見えなくなってしまっていることに、私は泣いている。

病気になって、人生でとりうる選択肢は減ったと言わざるをえない。なんでも無鉄砲にチャレンジできる体ではないし、無理もきかない。いつ治るかもわからない。それでも、できることを少しずつ増やしながら、精一杯のクリエイティブ精神をもって人生を楽しもうとしている。私だからできることはなにか。私だから楽しめることはなにか。そうやって感覚を研ぎ澄ませて、うんざりするほど自分と向き合うのだ。せっかく生きているのだから、味わえるものは味わい尽くしたい。できることは、全部やりたい。限りあることを理解しているからこそ持つことができる、私なりの人生への誠実さでもある。

そんな中のひとつとして、「子どもをもつ」ことを通して得るであろう、ありとあらゆる感情(それは、よいもわるいも、楽しいも苦しいも、かわいいもしんどいも、感動も絶望も、たまらないも勘弁して、も、自分よりも大切なものができるという感覚も、自分の全てをかけて守りたいと思うその感情も、もう逃げてしまいたいと思う気持ちも何もかも)を引き受けることを望むことは、贅沢なのだろうか。美味しい思いをしたいわけではない。誰かと比較することなんてとっくのとうにやめた。思い通りにいかないことが増えることもわかっている。それでもその願望は、許されないのだろうか。

冒頭の投稿をしていたお母さん。その状況も病気云々も真相は知る由もないけれど、妊娠をして出産をして今にいたる。2人の子どもを育てている。葛藤も悩みも苦しみも迷いも、なかったわけがない。

親のエゴなのだからと突き放すことも、自己責任として個人のみに押し付けることも、その不寛容さに悲しみが満ちる。みんなそんなに完全な人間なのだろうか。正しさだけでは乗り越えられないことがあるから、歪んだ自分が溢れてしまうことだってあるから、こうやって私たちは見ず知らずのひとと関わり合っているのに。





「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。