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『痛みと悼み』 三十六

そう言って、若葉さんは、背中に当てた手で招くように軽く押すと、めぐむを教会の中に導き入れる。めぐむは、作用と反作用の力の微妙な差で進み出し教会に招き入れられる。
 朝、まだ、人もいない教会の中は、10月中旬の朝の、高い天井までの冷たい空気に満ちている。ここは日が当たらない分、外より涼しいのだろうか。中に入って教会の涼しさと静かさが、染み込んでくるような気がする。
 教会の奥の部屋から、スーツ姿の聡二さんが顔を出す。
「いらっしゃい。」
変わらない笑顔。手には茶話会のための紙皿を持っている。若葉さんが小走りで駆け寄って、同じように奥の部屋でテーブルにお菓子を並べ出す。めぐむも、初めに何を言ったらいいかもわからなくて、それが1番の方法のような気がして、テーブルに駆け寄り若葉さんを手伝う。聡二さんはニコニコして、若葉さんに話しかける。

 「若葉さん、準備は進んでるの。」
 若葉さんが恥ずかしそうに下を向く。動かす手は止まっていない。
 「啓介さんと時間があるときに、色々と相談して決めています。」
 短く言った。その声は、少し跳ね上がって嬉しそうだった。
 「教会の仕事が忙しくて、ごめんね。」
 聡二さんが言う。その目は、あの教会の説教のときとは少し違っているようにも思える。
 「お二人はね、もうすぐ結婚するんだ。」
 聡二さんが、テーブルを挟んで正面のめぐむに、秘密を打ち明けるように小声で言う。若葉さんにも聞こえている。恥ずかしそうに肩をすくめる若葉さん。教会で2度目に会ったとき二人が忙しそうに先に出て行ったのは、だからなんだとめぐむは二人の姿を思い出す。
 「おめでとうございます。」
 少し赤くなった若葉さんは、めぐむに小さく頭を下げると恥ずかしそうに言った。
 「ありがとうございます。二人とも施設に長くいて、この教会で出会って、この教会で式を挙げて、この教会の仕事を続けるので、何も変わらないんですよ。」
 声は、教会の温度を数度上げたように感じる。めぐむの朝から緊張していた心を、少しだけ溶かしたからかもしれない。
「新婚旅行とかは、行かれないのですか。」
「このコロナのこともあるし、仕事もあるので。」
5度目のコロナのピークが過ぎて、緊急事態宣言は9月末で解除になった。児童養護施設に長い間いたという、手を止めないでいう若葉さんの言葉には、屈託の影は無い。多分啓介さんと二人とも、家族の関係で苦労したのかもしれない。でもこの二人は、二人でいることだけで嬉しそうに見える。そしてこの二人は、周りからもお互いからも求められているんだろう。求め、求められて皆が集まる場所の中心にいる。
3人皆が、作業に没頭する。
奥の部屋でテーブルに皿や簡単なお菓子を並べ終わった頃、教会に人が入ってくる。聡二さんに求められて教会に通うようになったと言っていたあの男性もいた。ニコニコして、教会の長椅子に座る人たちに挨拶しながら、祭壇の前の最前列に座る。軽く顔を挙げて祭壇の十字架を見て、それから頭を軽く下げて目を瞑る。

ミサの最中、めぐむの頭の中では、教会に響く聡二さんの声よりも、自分がどうやって聡二さんに謝ろうか、そのことばかりが頭から離れない。自分の暗い闇の源を話したい衝動に何度も駆られる。
でも、今まで外の世界から自分を守ってきた、半分崩れかけてはいても持ち堪えている防壁のようなものを、自分から壊す姿を思う。心の中で立ちすくむめぐむは、壁の内側でじっと膝を抱えて目だけを怯えたように虚空に彷徨わせる。
外の世界への想いを断ち切ってきた。自分の小国を守る、それが唯一の方法だった。それを自ら崩すことは、自分を崩すことだと思っている。