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コラム:花岡町と鉱山と「花岡事件」をめぐる人々

社会学の先生方が中心になったシリーズに、コラムを書かせていただきました。以下、冒頭部分を抜粋します。

 アジア太平洋戦争中、日本国内の労働者不足を補うため、政府は朝鮮人や中国人労働者の「移入」を決定した。この結果、朝鮮半島や中国大陸から強制的に連行された人々が、日本各地の工事現場や鉱山へ労働力として配置された。秋田県の花岡鉱山は、中国人労働者が一斉蜂起した場所であることから、戦後は中国人犠牲者の遺骨返還や元徴用工に対する裁判・補償が話題となるたび、シンボル的な存在としてひきあいにだされた。そのせいか、花岡事件をめぐる語りにはイメージ先行ゆえの誤解も含まれる(1)。

 例えば、花岡に強制連行された中国人は鉱山坑内で酷使されたと思われがちだが、それは誤りである。鉱夫の仕事は熟練労働で危険もともなうため、彼らは信頼できる人間にしか命綱を預けなかった。花岡で導入されていた「友子」制度では、鉱夫たちが親分子分の盃を交わして結束を高めた。そこに、外国人が加わる余地はない(2)。また、戦前の朝鮮人は「日本人」であり、日本人の労働者が不足した戦争末期は中国人を管理する立場にも立てた。しかし、言葉が通じない中国人や戦争捕虜は、花岡鉱山の外部で土木作業に従事させられ、軍隊式に酷使されたのである。他にも、地元の人々の思いとは別に、外部の人々が花岡事件を美化したり、誇張したりした事例は少なくない(3)。

 現在の花岡では毎年大館市主催の慰霊祭が行われ、秋田県外からも多くの人が訪れる。同時に、地元信正寺でも慰霊活動が継続されている。本コラムでは、花岡町と花岡鉱山、そして花岡事件をめぐる人々をたどり、二つの慰霊活動に至る道を確認してみたい。

(1)例えば荘慶鴻『不一様的日本人』清華大学出版社、2016年など。
(2)同和鉱業株式会社事業史編纂委員会編『七十年之回顧』同和鉱業、1955年、111-112頁。
(3)花岡事件40周年記念集会の記録編集委員会編『花岡事件四〇周年記念集会の記録』花岡の地日中不再戦友好碑をまもる会、1986年5月、104-105頁



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