見出し画像

新しき墓  –石神雄介個展「光景の背後」に寄せて–2020.7/11-20 efag.cssにて開催


 記憶と認識

 育った環境が、今もってなお、自らの空間認識に影響している。日々を送る最中より、旅した先でこそ、鳴り響くものでもある。帰宅に際しては、遠く地形の連なりがゆっくりと肌になじんで迎えてくれる。

 平らである

 産まれこそ違うものの、私はすっかり平野の民として育ってきた。関東平野の民である。千葉北西部の民である。日本は土地の七、八割が山岳であるけれども、私の生活に山はとんと現れない。すこし出張れば海があるが、滅多なことでは訪れない。ここいらの生活にあるのは、平たくひらたく延びて止まない土地と、それを潤す川、そして大きな沼である。

 地平線は水平線を隠して重なり、その間を地膨れのような丘やらがむくれたように寝起きしている。建造物にも都内ほどの高さは見当たらない。交通の便によるだけの集合地点では、幾らか背の高いものが並ぶけれども、山野の裾の広がりを持たず、平らな起伏のうちに、突き刺さっているばかりである。そこから何キロという間もなく、あれよあれよと田畑が寝そべる。畝の他に段もなく、その奥で大きく影を落とすのは、決まって寺社の森である。これまたなめされたような広がりのなかで、唯一背が高く、起き抜けの猫の背のように伸びている。

 五月に田んぼへ水が張られると、より一層平らであるということが迫ってくる。そこでは、空も、雲も、鳥も、風も、星も平らである。木々のそよぎも、農耕機の騒ぎも、鳥や蛙の声も、ぼんわりと膨らんでは、降り注いで平らになる。苗を植えたことがあるだろうか。今どきわざわざ手で植えるのは、農業体験に特有であるに過ぎなかろうが、人さえそこでは平らになる。田の端でその姿を眺めてみると、平らであることは、いよいよもって切実になる。植え終えてそこへ人が起立しているのを見つけると、やあ、あれは人間だ、とズイブン妙な得心がいくのである。苗が育ち、影が落ちる。水田は垂直を育てる平面である。育てた垂直に規定される平面である。

 石神の生家は、そんな風景の中にあるということを、描かれたものの前にいるとき、同じく平野の民としては思わずにいられない。
 彼の生家は古い日本家屋である。もちろん、二階がある程度には新しい。

 日本家屋は、方形の連なりでできている。余白によって接着された風の棲み処である。襖は音をこもごもとさせるばかりで断ち切らない。障子は光をなだめすかすばかりで捨て去らない。柱の生む矩形の重なりによる奥行きは、仕切りの横移動によって伸縮する。それらに囲まれてポツネンと、水平に沿うでもなく、垂直に沿うでもなく、座しているとき、生活が膨らんで降り注ぎ、平らに凪いでいく。柱によってできた間に、私たちはいまも存在の影を見出す。神代雄一郎が「間(ま)・日本建築の意匠」*¹で言うように、柱は神であり、間は人である。人間は環境の産物だ。

第一の特徴

 仕掛け


 とくべつ郷愁を煽りたいわけではない。しかし、何にせよ、背景というものは、表面たりいく前景を支えるものである。五年ぶりに催された石神雄介の個展「光景の背後」は、まさしく日本家屋の諸要素に支えられている。一枚の絵として存在する強さをそれぞれが持っていながら、「この絵」と特定の一つを取り上げることが、厳密には、出来ない。なぜならそこには常に他の絵が参加してきているからだ。
 前回の個展「頂上への沈降」で石神は、絵画の背後から、鑑賞者を入室させた。そこでもやはり、絵画はその複数性を保ち、その同時参加を伴って人の目に映ることで「見る」よりも「眺める」を要求してくる装置だった。そして桟橋がそのための特徴的な仕掛けであった。 

画像1

 「頂上への沈降」展示風景 2015年 5月

 今回の特徴の第一は、まぎれもなく絵画の背面同士をつなぐ木枠にある。それは家屋における柱であり、発生した間であり、仕切りであり、認識のぼやかされた単位である。見ることに対応した、こちら側を成立させる奥行き、こちら側もまた、そうであると感じさせるための奥行きである。それは存在の透けた部屋である。むこう側に何かあることを知らせ続ける。林立する絵画に囲まれて、見つめる表面の、文字通りその裏側に、周囲の絵画にうごめく気配がある。誰かいるのじゃないかと思われてくるほどの臨在感が育ってくる。

画像2

「光景の背後」制作過程 2020年 3月

 見える

 「見る」ということには、「見られる」が付随する。「見る―見られる」を取り上げようとするならば、「見える」を取り損ねてはならない。能動でも受動でもなく、自発的に向こう側が現れる。こちら側もその瞬間、互いに現れ合う。互いに成立するということは、見えたときにおこる。山や、海に代表的な風景は(田畑さえも)そうして現れる。

 そして、その作用は実に鏡像段階的でもある。ふと鏡に映った人影が見えて、ナンダロウと見はじめると自分自身が向こう側にもまたあるのだと知れる。この私、と感じられるものと、向こう側に生じた像とが、同じものであるということを積極的につくり上げていく。生後六か月から十八か月のことだと言われている。日本家屋のつくり、特に屋内からの庭の眺めなどは、借景としてその回路を遡ると考えてみることが出来る。見るものとして、見えるものを借りてくる、そして見られているところへと立ち戻りさせさえする。

 所有

 眼差しに晒されることで得ていたまとまりから、眼差すことで場所を専有するまとまりへと転じていく鏡像段階以来、私たちは所有格としての自らに苛まれ続けている。だからこそ、他人から見られていることが生む苦痛は、所有されることの苦痛であり、所有を基盤とした「使用」が自己に作用することへの抵抗感である。見られているということが、自らの一部を、あるいはほとんど全部を、自らの意思の及ばないところへと帰属させる。自分のことなのに自分ではどうしようもないこと、それを生起させる象徴としての「他人」が現れるとき、それがなにより自らを規定するものとして、「私」をごっそり反映してやまないことに気づくのは、一層の苦痛でさえある。借景はその苦痛を和らげる。背負いこんだ苦痛を脱がしていってくれる。私から他人を剥がし、所有を剥がし、山野に見られているだけのまとまりに還してくれる。

 密教では、そこでの作用を瞑想としてつくりあげた。蝋燭の炎を見つめるなかに、仏が見いだされる。その仏をまたずっと、見るともなくみていると(見えるに任せていると)、仏の顔が自分の顔をしていることに気がつく。これを入我我入(にゅうががにゅう)という。
 こことそこが、見る―見られるの応酬で回転し、見える、見えている状態で吊りあってくる。

 絵画=窓?

 絵画は窓だという説がある。枠の中の向こうを借景として、自らを見る、あるいは、それによってより際立つ枠外へ延びる自らの膨らみを眺めるからだ、というならばそうだろう。しかし、絵画=窓説は、その平面化における表面上の等質性を特徴的要素として取り上げられることが多い。だから、その窓はスクリーンに代わり、TVを経て、液晶に映えるインターネットへと系譜を繋ぐ。

 そこで行われているのは「覗き」である。無論、覗かれてもいるのだが、覗き込む窓枠は宙吊りである。むこう側の自発的現れも、それによって同時に生起してくるこちら側も、これまで話してきたものとしては、無い。覗きは常に、その身体のほとんどを見られることのない位置へ隠しながら一方的に見ようとする。所有及び使用の絶え間ない領土争いである。必然的にその格たる自我は、むくむ。血圧の低い・循環の滞った・重力に抗えない・沈殿した心である。見ている自分から地続きの、自らの延長としての風景がそこにはない。自己を投企する広大無辺が、循環作用をともなうものとしてあるわけではない。

 インターネットは、どこまでも「個人」に紐づいてしまう。仮想空間上の、個人の所有地、アドレスである。空間、ということ自体がどこまでも仮想であるのに、その関係性の亡霊をインターネットは「これ」と指さしうる・見る・所有する・使用することのできる物にしてしまった。鷲田清一が「〈ひと〉の現象学」*²でいうように、「所有の〈主体〉としての自己自身もまたこのように〈所有〉のまなざしにさらされることで、主体としては崩壊していかざるをえなくなるのではないか」。「私」はそこで入我我入し得ない。重荷を下ろすことが促されるばかりか、そこでは、新たにどんどんと背負い込まされていくようでさえある。「〈存在〉を〈所有〉に定位して理解しようとする思考」は、「他者に対して身を閉ざすものである」。

 石神の絵画は、窓ではなく、借景であり、「私」の見えてくる鏡であることをどこまでもその成立の要件としている。そこに現れてくるものは、お仕着せられた所有格としての役割を脱がされた剥き身の「私」、これ以上脱ぎ去ることのできない「私」、それを成立させる極限的要件、つくり上げてきた意味を濾しきった純粋である。

 それは、いったいどういうことだろうか。それは同一性を担保する記憶媒体ということだろうか。そこで所有格としての役割はどれほど剥がれ得るのか。同一性とはなんだろうか。「私」とは「個人」だろうか。

 眺める、仰ぐ

 風景を見ることと、インターネットを見ることの違いの上で、絵画によって記憶媒体としての「私」が現れてくるといってみたところで、想い起されることがある。

 それは柳田国男らが「両墓制」と呼んでいたものだ。「先祖の話」*³に収められた五六「墓所は祭場」のなかで述べられている。

 それによると「日本人の墓所というのは、元は埋葬の地とは異なるのが普通であった」そうだ。一方は「棄て墓とさえいう土地があって、多くは山の奥や野の末、人の通らぬ海端などに送り、やがては不明になり、またそうなるのを好いとしているところもある」、また他の一方には「参り墓、祭り墓、もしくは内墓とも寺墓ともいうもの」があって、「参拝に都合の良い設備」をしている。「中古以前の常人の葬地は、その痕跡がはなはだ幽かなの」だともいう。そのあとでこう続く。

 ―両墓制の普及する前には、二種の単墓制があってこれと対立していた。その一つは葬送のみがあって碑を建てぬ場合。これにも木を栽えたり石を置いたりして、標示をしていたのかも知らぬが、それを記憶する者が大体無くなる頃には、自然にその場処も忘れられてしまうのである。(中略)、人は消滅を避くべからずとしたのみか、むしろ消滅によって霊魂の去来を自由にしたいと、願っていたからではないかと思う。

 ―石碑はもともと墳墓ではなかったのだが、両者を一つにする習わしが偶然に盛んになったために、古来の葬送が何か粗暴なもののように感じられ、孝子貞女の墓に対する考え方が、よっぽど支那などの風に近くなってき た。そうして死の聯想から出来るだけ早く離脱して、清い安らかな心で個人の霊に対したいというような、願いを抱くものが昔は多かったことまでが、もう段々と不可解な話になろうとしている。

 祖先は、死後野山にかえる。その里の周囲の山々にいるものだった、そして祖先は盆と正月におりてくる、とも柳田は伝える。当時の人々は、日常のさなかで折々、山を仰ぎ見る。頂を眺める。山岳に対する信仰は、田畑の実りを祈るとともに、それを潤す水源としての山脈を神聖なものとしたことからうまれた。何よりそこに「私」という出来事の同一性を支える歴史的記憶の気配があったのだ。

第二の特徴

 人形

 第二の特徴には立体がある。平面作品と対になって立体作品が設置されている。そこには人の形をした金属塊が突き立っている。この人形の存在が際立っている。

 「人形考」*⁴のなかで安藤君平は「人形は魂を持たない存在であるがゆえに、容易に魂を受け入れることが出来る存在なのである。それゆえ、我々は人形に密かな恐れを抱く」という。また、「からくり人形は、その内蔵された機巧によって動きを獲得している。動きこそが、人形を人間に近づける手段である。姿が人間に等しい人形は、動きを獲得することによってより人間に近づく。それは、すなわちより完璧な神の依り代となることを意味する」。

 山口昌男は「病の宇宙誌」*⁵のなかで、そのカラクリ人形についてこんなことを言っている。カラクリというのには二つあって、機械人形であるところの「機械的カラクリ」、それと「仕掛け」としてのカラクリである。後者は「急な変化をもたらす要素」と考えられ、「文化全体が仕掛けを基盤にして作られている」といえるという。儀礼とは、「人間がある状態から他の状態に移行する、その移行を促進するものである」といい、仮面は「つけることによって人間が急激に別の存在になる」ことを助け、水車に代表される滑車などでは「人間の力を越えたいろいろな現象をひきおこすことができる」し、それを使った様々によって芝居・劇場は「場面がいろいろと変化」しては「普通の生活の目によってはできないはずのことが飛躍」を引き起こすことになる。

 カラクリ人形の舞台は必ずしも人間の方に向いたものではなく、神殿の方に向かっていて、「神に見せる技術であった」ともいう。それは、神を「人間が受け止める手段、そのための精巧な仕掛け、カラクリであった」のだ。更には、カラクリとは技術の根源にあるもので、ギリシャ語で技術を意味するテクネーとは、「神の協力によって人を騙すもの」であり、「人間の意識をふつうの生活から離れたところに持っていく。神により近いところに持っていく」ことであるという。

 では「神」とはいったい何だろうか。

 中西夏之は前述の「人形考」*⁴で、「3」が(2+1)としてある最初の数、根源的な数だとした後で、「3」における「1」、つまり「排除された1」が「神」だとするなら、「その存在に対しての想像が、一方の「2」、「人間」による「人形創作」に結び付くのではないか。この場合「1」が「神」であるにしても、「自分」的要素が強いので、神への考察の前に、まず自分が自分をどのように認識しているのか」を知る必要があり、そのために「自分の人間としてのフォルムを模索する」だろうという。
 また、人形は「見る人形」と「触る人形」があることにも中西は着目する。

 ―「人形」と「絵画」の違い、「接触」できるかどうか。

 「触れる」ことには「触れる瞬間」と「触れたものから離れる瞬間」があり、絵は「その両方をあつかう。画像は接触して離れた行為の痕跡」であるという。

 ―絵画は実体を虚に移したものですから、触ることはできません。

 そして、「人形」を作る行為は、「生身をもう一度点検する」という意味があることを指摘する。
 石神の制作した人形は、「虚」の前に据えられた「実」だが、絵画に移された「虚」と対になる「実体」はおそらくこの人形ではない。

 オシラサマ

 この人形はアルミの彫刻であり、平面を巻かれた立体である。光の反射体であり、表面は層を成した下部に支えられていて、その実体のなさと存在感が実に「人形」らしい。この、光を反射する平面に巻きつかれながら・巻きつかれたものとして直立して輝く人の形。風景の凝集。周囲を映し出すことで成立している個体の前に立つと、私にはどうしても想起されるものがある。オシラサマである。

 オシラサマは関東~東北地方で信仰を集める神で、桑の木を削って馬と女の顔を描き、その上に布を通すか被せるかして、オセンダクと呼ばれる衣装にした像である。この布という平面を重ねられている点において、私には想起されたのであるが、この布の重なりは実に長く、江戸や明治のものさえあり、550年ほどは遡れるという。古いオシラサマの膨らみが想像できるだろうか。その変遷を見ると、布を通して当時の流通の様子さえうかがえるという。

画像6

画像はいちのせき市民活動センターHPから

 柳田国男が聞き書きした「遠野物語」*⁶の六九番目の話に由来がみえる。

 ―昔ある処に貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば、厩舎に行きて寝ね、ついに馬と夫婦になれり。ある夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木に吊り下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこのことを知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父はこれを悪みて斧をもって後ろより馬の首を切り落とせしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に連れ去れり。オシラサマというはこの時より成りたるかみなり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。

 また、十四の注釈に「オシラサマは双神なり」とある。上記の故に二つで一つなのである。

 馬は神の使いである。娘は巫女であり、且つ、山の水源、豊穣の根源たる水に紐づけられる存在でもある。また桑は蚕の餌であり、蚕は休眠と脱皮を繰り返して成熟し、繭に籠り成虫となる。その生態から再生信仰にもつながり、繭から採れる絹の白さが、白=シラとしてシラヤマ信仰につながったのだともいわれる。下記に見るように占いに連なる要素もあり、その神格が吉凶を知らせることにあるのだから、オシラサマはお知らせ神で、シラ=知らせであるという説もある。諸説あるものの、オシラサマとは生み出すことの神であることには違いなく、馬や養蚕、農耕の神であるにとどまらない。白山(シラヤマ/ハクサン)信仰とのつながりも盛んに論じられていて、山岳信仰との関係は相当に深いものであるようだ。

 オシラサマの祀り方は、前田速夫の「白の民俗学へ」*⁷を見てみよう。

 ―祭日は「ご命日」と呼ばれ、旧暦の一月、三月、九月の十六日。正月ごとに新しい衣装を重ねて着せ、春秋二回の「ご命日」にはイタコを頼み祭祀する。当日はイタコが到着すると、当番がフレて歩き、部落の家に知らせる。イタコはまず祭壇に祀られているオシラサマに向かって座り、神寄せの経文を読み、九字を切る。次にオシラサマを両手に持ってオシラ祭文を語りながら宙に舞わせるが、これをオシラ遊びという。終わると村占い、各家ごとの占いが行われる。

 オシラサマは大同と呼ばれるその家の本家に祀られている。イタコを呼んでオシラ遊びをすることは、一族が一堂に会する機会でもあり、結束を強化するための役割があった。イタコによってオシラサマからのメッセージを伝え、当人同士では解決しにくい問題を収める役割もあった。まさしくそれはカラクリの作用である。また、オシラサマは普段は拝む神として「見る」人形であり、祭日には遊ばせるほど「触る人形」である。そしてイタコの遊ばせる動きが加わることで、神の依り代としての精度が高まる、といってよいだろう。それは人形が完璧な依り代として人間に近づくのと同時に、人間が神の依り代として人形に近づく瞬間でもある。「人形」は自己と他者の極めて中間的な存在なのだ。

 仕掛けのはたらき

 「光景の背後」において、立体作品としての人形は、「見る」人形であるが、展示空間という家屋内を歩き回る鑑賞者としてのあなたによって、「動き」が与えられていく。あなたの動きによって、「人形」はより一層依り代として輝き始めはしないか。そこに映りこんでいくあなたは、オシラサマを遊ばせるイタコがそうであるのと同じように、「人形」に近づいていきはしないか。「虚」としての絵画と対になっている「実体」とは、あなたのことに他ならないのではないか。「見る」人形に対応するかのように、あなたこそが鑑賞によって「触る」ことの出来る人形であることが示唆されていくのではないか。それは自己の他者性を顕わにすることであり、「私」が「他者にとっての他者」であることの強調でもある。絵画の奥で動く他人の気配は、あなたという生命の反響でさえある。

第三の特徴

 人形の家

 最後に挙げるべき特徴は、展示会場の奥にある細い階段から二階へ上がることが出来る点だ。あなたはそこから今まで過ごした家を展望することが出来る。その鳥瞰図的風景は、絵巻物に見るような透けた家屋のようであり、組まれた足場をよじ登って見る建築途中の家のようでもある。しかし、その眺めの特徴は「人形の家」の要素に満ちている。

 多木浩二は「眼の隠喩 視線の現象学」*⁸のなかで、「人形の家」には「重要な二つの主題」があるという。

 ―ひとつは人間の存在、思考や感情及びそれらの発達にとって「家」が特別な意味を持っていることである。もうひとつは一般に大きなものを小さくする表現技法が、人間の思考や想像力に深い関係を持っていたことである。大きなものを小さくする操作は大宇宙と小宇宙、宇宙が家や人体と照合される場合に見られる。それらは形態的な照合というより抽象的な観念のレヴェルでの照合である。(中略)、現実(家)をもうひとつの現実(模型)のなかで非現実化(意味化)することが、「物」どうしの関係を通じて明らかにされる。

 そして、「このような縮尺の意味」についての二つの解釈をレヴィ=ストロースとバシュラールに寄せて、前者では「縮尺された世界に、認識論的な関係を見」、後者では「夢見ることの自由と欲望の象徴的充足」として読み取れるという。どちらにおいても「われわれはつねに何らかの意味での世界の解釈のなかに生きている」ことが重要であるとし、つづいて、「ミニアチュールとはまずひとつの生けるまなざし、世界を隠喩化する視線あるいはその痕跡を意味する。この隠喩を生み出す視線こそ、人間という存在を世界に繰り広げ、世界を人間の中に現象させる最初のきっかけである」としている。

 二階からの眺めは、今まで過ごしていた場所そのものを、その体験ごと、ミニアチュール化してみせはしないか。そこにこそ「生けるまなざし、世界を隠喩化する視線」が生まれはしないか。その視線によって、模型化された絵画(家屋)の透視的立体構造群は、改めて「平面化」される。さらにはそこへもう一度、おりていくことが出来る。

 人形の家は「建物の内側を外から眺める」ことのできる特殊な経験を生む。それは現実の家においての知覚経験を基礎とするけれども、実際にそのなかへ入ることが出来るという点は現実の家の特徴である。ここで仕掛けられた家=透視的立体構造群は、「外から触れることも可能な奥行きのある立体であると同時に、内側に入って私たちがその一部になるような空間を含んでいる」のだ。

 気配の自己性

 石神はこの展示において、執拗なまでに「私」とは何か、という問いを鑑賞者に浴びせ続けている。第一の特徴である枠組みによって構成・配置された絵画は、絵画が一方的に「見られる」(あるいは覗かれるような)存在ではないことを示し、第二の特徴である絵画と一対に設置された立体作品・人形によって、あなた自身の他者性を突きつけ、互いに「見えている」存在としての自覚を促す。更には第三の特徴である二階からの眺めによって、前二つの体験自体を、振り返りうる対象として提示し、そのなかへ改めて帰りゆかせる。そこでは、かつて居た場所として、当初は絵画の奥でしか蠢いていなかった存在の気配が、上階にまで感じられてくることになる。その気配はしかし、まざまざとあなた自身の痕跡であることが、今度は自覚されざるを得ない。さっきまで見ていた自らの視線に晒されている、ということがその気配を生んでいるのに他ならないのだ。まるで展示会場自体が、祖霊のすまう山岳を仰ぎ見て信仰する農耕民の追体験装置かと思われてくるほどである。

 同時にその作用のもたらすものは、まるで離人症状でさえあるかのようである*⁹。知覚し行動する「存在者としての私」とそれを傍観する「眼差しとしての私」が展示空間を通して切り離されては接続されなおしていく。石神は以前、「透明な目になりたい」とぼやくことがあった。それは「眼差しとしての存在」を「私」としたい欲望であったのではないか。

 そこで仮想される解離状態は、透明な目として見ること、あるいは見えているという状態のその作用だけが抽出されているということだろう。全方位からの光の集約点としての意識そのもの、xに向かうという性質が働くうちに、わたしの意識そのものがxに代入されていく感覚である。

結び

 人称の互換性

 なぜこれほどまでに、「私」という存在方法について繰り返し問うのか。なぜ「私」が「他者の他者」であり、「他者」によって規定される「人称」に過ぎないことを、自覚させようと促すのか。なぜ「私」なるものの「所有」をことさらに剥いでいこうとするのか。そこには「わたし」と「あなた」の人称の互換性の行きつくところとして「死」の問題が切実に聳えているからだというよりほかにない。

 死の経験

 鷲田は「所有」からくる「債務関係が死者とのあいだで成立しなくなったとき、死者がその人称性を失」うと論じたあとで、経験としての他人の死について触れる。*²

―深い関係にある人の死は、「失う」という経験、(他者の、ひいては自己の)喪失の経験としてまぎれもない出来事となる――
(中略)わたしたちは、(じぶんが)死ぬことよりも、(だれかに)死なれることが、じつは〈死〉というものの経験の原型だと言いたくなる。

 「死の経験」の原型が他人の死として起こるのならば、マルセル・デュシャンの碑文「死ぬのはいつも他人」をみるとき、それは「いいかえると、「自己の死」には、「他者の不在」という概念を自己のなかに反照させた疑似二人称的な死であるということが含意されている」といってみることが出来るだろう。また、「わたし」という人称自体が自他可逆性を前提として成立するものであることに触れて、鷲田はこうもいう。

 ―そこに自他の可逆的な人称関係は含意されてるわけだから、この〈わたし〉の特異性は存在としてはすでに媒介されたものだということになる。わたしがじぶんの死について語るときには、それはすでに「わたし」と「あなた」の可逆性に媒介された言説のレベルで言われているのであるから、そのときにはもう、「わたしの死」の単独性や特異性は概念として成り立っているにすぎないことになる。それは、純然たる一人称を超えるものを含んでしまっている。この意味で、「わたしの死」について語る言説は、「死なれる」という二人称の死から派生したある非人称的な語りなのである。

 また、多木のいうように、空間というものが「あらかじめ存在して、そこへ人間や物が位置づく枠組みなどではなく、それぞれの時代の人間の経験そのもののもつ秩序、さらにいうならば、この空間こそ認識の様態にほかならない」とするならば、「光景の背後」が提出する現代の認識の様態とはどんなものであるだろうか。

 トラウマの時代

 津田真人が「ポリヴェーガル理論を読む」*¹⁰の「はじめに」で概括して見せている通り、1995年の阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件以降、決定的に、私たちの生きる時代は「ストレスの時代」から「トラウマの時代」へと大きく変容している。それは単に「安全である」ということが脅かされていることであるばかりか、命を営んでいくことへの疑義、存在することへの「信頼」の喪失をもたらしているのではないか。人間を「個人」に追い込むシステムが日に日に強化されていくような社会制度のなかで、自分ひとりではどうにもならないことは否応なしに襲い掛かり続ける。人智を越えた理不尽に対応する人間の力は、ヒトの存在の基盤自体が、他者(=環境)との相互関係によって成り立つものであり、本来その主体性なるものは、ヒトとヒトのあいだに仮託されていることによって培われていた。

 ところが、もはや「個人の力学によって、バラバラに細分化された互いの自己―他者関係さえ、コントロール不能な脅威として、無力感を」生むようになっている。

 予測不能、コントロール不能、対処不能な圧倒的な威力に対する、無力感と不安。津田は、それにたいして、「交感神経系の「闘うか逃げるか」を防衛機制の主軸とする時代から、背側迷走神経複合体の「凍りつき」を防衛機制の主軸とする時代への大変動の移行過程」にあるのではないかといってみせる。「凍りつき」とはトラウマに対する防衛機制としての「離人症状」を指すことに他ならない。肉体に合致した「私」という意識が、「眼差し」として遊離することである。

 ポリヴェーガル理論の提唱者ステファン・W・ポージェスは「ポリヴェーガル理論入門」*¹¹のなかでこう言っている。

―私たちが住む世界は認知機能にばかり焦点を当て、認知と身体的体験との統合が成されていません。そのために解離が引き起こされ、それが人々の生活のかなりの割合を占めているのです。

 柳田が、忌むべき色であった白が台所にまで「氾濫」していることを指摘していた時代から、現在ではもはや、日常的に誰もが解離的状態のまま過ごしているのではないか、ということが、ここでは指摘されているといえる。

 新しき墓

 それでは、石神の作品群を体験することは、その解離状態を促進させてしまうのだろうか。より病的といえるところまで移行させるためのカラクリなのだろうか。否である。

 「光景の背後」はヒトとヒトのあいだに仮託されているできごととしての「主体性」の回復を目的に据えられた展示である。それは「私」であることが他者との互換性に支えられた出来事であることの確認であり、「安全である」ことが何によって担保され得るかの証明であり、存在に対する「信頼」の回復である。その為に必要な場所として「家」がことさらに提出されているのである。さらには、その家さえもが、空間=認識の様態としての秩序に過ぎないことがささやかれる。そして信仰の形式との相似的構造から、死者にとっての家=墓でもあることが示唆される。

 展示空間は、さながら参拝に適した設備によって整理された、生死の境界を・虚―実の移行を・その痕跡を、秩序立てられた墓である。そして、「両墓制」になぞらえるならもう一つの墓とは、私たちのあいだに遍在する気配として、環境そのものとして立ち現れている。そのなかにあって、自己―他者関係は、互いが互いを育む「家」であり、互いに支え合う第三の「墓」である。「私」であるということが、すべからく「あなたたち」である。私はあなたの新しき墓である。あなたは私の新しき墓である。

 畢竟、石神にとっての絵画とは、人間存在としての垂直を育てる平面であるのだ。私たちはかつての全てに支えられ、育てられ続けていく。

 最後に、こんな言葉が想起され、且つ、鳴り響いてやまない。

 ―生きつづけようと願い、生きつづけることが出来ない者たちへ
  そのためなおそう願い続けているものたちへ
  あるいは人間を越えていくものたちへ

荒川修作+マドリン・ギンズ「建築する身体」*¹²

                           文責 川㟢雄司

画像3

会場ギャラリー efag.css 2020年 7月

画像5

バックヤードから展示スペースへ入る画家 2020年 7月

参考文献

*1 神代雄一郎
      「間(ま)・日本建築の意匠」
       SD選書235,鹿島出版会,1999年
*2 鷲田清一「<ひと>の現象学」
       ちくま学芸文庫,2020年
*3 柳田国男「先祖の話」
        角川ソフィア文庫,2013年
     (底本は筑摩書房1946年)
*4 安藤君平、中西夏之、他
     「人形考 夜長姫業書Ⅱ」
       パロル舎,1997年
*5 山口昌男「病の宇宙誌」
        人間と歴史社,1990年
*6 柳田国男「遠野物語」
        集英社文庫,1991年
      (底本は「定本柳田国男集」
         筑摩書房,1962年)
*7 前田速夫
      「白の民俗学へ 
      白山信仰の謎を追って<増補新版>」
      河出書房新社,2019年
     (初版は2006年)
*8 多木浩二
       「眼の隠喩 視線の現象学」
       青土社,1982年
*9 柴山雅俊
       『解離性障害
   ―「うしろに誰かいる」の精神病理』
        ちくま新書,2017年
*10 津田真人
     『「ポリヴェーガル理論」を読む 
       からだ・こころ・社会』
     星和書店,2019年
*11 ステファン・W・ポージェス
   『ポリヴェーガル理論入門 
          心身に革命を起こす
         「安全」と「絆」』
   花丘ちぐさ訳,春秋社,2018年
 (原著は Stephen W・Porges,PhD.
The Pocket Guide to the Polyvagal Theory :  The Transformative Power of Feeling Safe 2018)
*12 荒川修作+マドリン・ギンズ
  「建築する身体 
       人間を越えていくために」
       河本英夫訳,春秋社,2004年
(原著は Arakawa+Madeline Gins Architectural Body, the University of Alabama Press 2002)

石神雄介HP, Instagram, Twitter


「生きろ。そなたは美しい」