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はじまりの日

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iriさんの楽曲「はじまりの日」をモチーフにした短篇小説です。 海辺の街でともに過ごしてきた菜月と匠。間もなく旅立ちの春を迎え、街を去っていく匠を菜月は見送ります。二人の間に絶え… もっと読む
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はじまりの日(最終話)

はじまりの日(最終話)

 翌朝は六時半に目を覚ますと、朝食の準備をした。
 ちょうど食卓に全ての皿が並んだ頃、ギンガムチェックのシャツに黒いスキニージーンズをはいた匠が部屋から出てきた。片手には黒いジャケットを携えている。
「おはよう、なっちゃん」
「おはよう、タク」
「おっ、アジじゃん、うまそー」
「沖縄でもちゃんと朝ごはん食べるんだよ。三食しっかりとね」
「米送って」
「生憎、農家じゃないんでね」
 軽口を叩きながら

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はじまりの日(12)

はじまりの日(12)

 あの夜と同じような月が空に浮かんでいる。
 そして、今初めて、菜月は、幼い匠と過ごした時間がずいぶんと前のことのように感じた。
「最近やけに昔のことばっかり思い出すんだ。俺となっちゃんが一緒に暮らし始めた頃のこと。なっちゃんはいつも俺が満足するまで付き合ってくれた」
「『ママのおむかえ』のこと?」
「そう。もうお終いにしようとか、ママは一生帰ってこないとか、そういうことを言わずに、俺の気持ちが満

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はじまりの日(11)

はじまりの日(11)

「え?」
「お迎えいきたい」
言うが速いか、玄関走って向かった。
「ちょっと、タク、待って」
「はやく、なっちゃん」
「どこまでお迎え行くの?」
「うみ!」
 匠は青いビーチサンダルを履くと、引き戸を思い切り右に引いた。
 夏の湿った風が潮の香りを運び、玄関から家屋に舞い込んできた。
 海まで手を繋いで歩いていくと、匠は砂浜を駆け、波打ち際で足を海水に浸しながら
「ママーっ」
と、叫んだ。
 菜月

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はじまりの日(10)

はじまりの日(10)

春の夜風が菜月の切りそろえた前髪を揺らした。
「なっちゃん、覚えてる?」
「なにを?」
隣を歩く匠はパーカーのフードを被り、スウェットのポケットに両手を突っ込んで歩いている。
「俺が子供頃、あの家のどこが一番好きだったか」
「覚えてるよ、玄関」
匠は声を出さずに口元だけで照れくさそうに笑った。

 仕事の帰り道に匠を保育園へ迎えに行き、家に駆け込むと、匠を着替えさせ、自分も同時に着替え、風呂を沸か

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はじまりの日(9)

はじまりの日(9)

「なっちゃんのご両親も同意してくださったの?本当に、なっちゃんはそれで後悔しない?」
ベッドに背を預けて座る佳寿美は困ったような、驚いたような顔を菜月に向けている。
「はい、両親にはなんとか理解してもらえました。時間がかかりましたけど。紗都美のことはうちの両親もよく知っていますし、結婚する気配のない娘ですから、孫のような匠くんのことは本当に可愛いと言ってました」
「でも匠は愛由美の子よ。紗都美の子

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はじまりの日(8)

はじまりの日(8)

重い頭で目覚めた翌日は、匠を連れて佳寿美のもとを訪れた。
病室を覗くと、ただでさえ動くことが困難になった身体の佳寿美が、まるで死の淵をなぞるかのような目をして横になっていた。一瞬菜月は及び腰になったが、腹にぐっと力を入れて声を掛けた。
すると、佳寿美は最後の力を振り絞るように目に力を宿し、菜月が持ちかけた娘二人の葬儀の相談へ気丈に応じてくれた。
菜月が他人だったことが幸いしたのかもしれなかった。

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はじまりの日(7)

はじまりの日(7)

匠を抱え、電話で告げられた警察署へ向かった。
誰にどうやって声をかけたら良いのかもわからずに、通りかかった婦警に電話で聞いた内容を伝えたが、口から出る言葉の数々はまるでうわ言のように現実味がなかった。
受付を通り過ぎた人気のない廊下の先にある、黒いソファで待つように言われ、菜月と匠は黙って言われた通りにした。
匠はただ黙って宙を見ていた。ぐずったり、泣いたりしなかった匠の態度をこの時はそれが当然だ

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はじまりの日(6)

はじまりの日(6)

 菜月がそうめんと天ぷらを台所に引き上げている間に、紗都美と愛由美は出かける身支度を整えた。これから姉妹は愛由美の青い軽自動車で母親を見舞う予定になっていた。
「匠、ねぇ、起きてって、匠!」
ダイニングテーブルに面したソファの背もたれから覗き込むと、愛由美がすっかり床で眠りこけてしまった息子を揺すり起こしているところだった。
匠は窓から射す午後の陽光を浴びながら優雅な寝息を立てていた。
「寝ちゃっ

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はじまりの日(5)

はじまりの日(5)

食卓を片付け、菜月は台所でティーカップに紅茶を注ぐ準備を始めた。
「タク、ケーキ取ってきてよ」
「あ、ねぇ、ケーキの前にさ、散歩しない?」
「散歩?こんな時間に?」
壁の時計の針が直角になろうとしていた。今夜はとてもゆっくりと食事をしていたようだ。
「いいじゃん、海行こうよ」
そう言って匠はソファの横をすり抜けて庭に続く窓をガラガラと開けた。
「風もそんなにないし、海日和な夜だよ。お、月も出てる」

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はじまりの日(4)

はじまりの日(4)

 週末、愛由美(あゆみ)は静岡ナンバーの青い軽自動車で息子とともに、姉とその友人が共同生活を送るこの古い平屋にやってきた。
「はじめまして。愛由美です。姉がいつもお世話になっています」
「こちらこそ。瀬戸菜月(せとなつき)です。いらっしゃい」
玄関先に現れた愛由美は小柄な紗都美(さとみ)よりさらに一回り小さく、ショートボブに切り揃えた柔らかい茶髪が話したり笑ったりするたびに音もなくさらりと揺れた。

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はじまりの日(3)

はじまりの日(3)

 大学の卒業式で久しぶりに再会した佳寿美(かすみ)は、少し痩せた印象があったが、今振り返ると、あの時はまだまだ生気に溢れた元気な姿だったのだと実感する。
 職場の宿屋で倒れて緊急入院となったあとは、緩やかではあるが、佳寿美を形作っていたピースが一つずつ、剥がされて灰になっていき、それらはもう、失われるばかりで再生することはないのだと見せつけられる日々が続いていった。
 紗都美(さとみ)が仕事の後に

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はじまりの日(2)

はじまりの日(2)

 菜月が匠を引き取ったのは、自分が三十歳、匠が三歳の時だった。
 当時、菜月はこの平屋に紗都美(さとみ)というルームメイトと一緒に住んでいた。
 紗都美とは大学時代の友人で、学生時代から女子寮のルームメイトだった。
 卒業と同時に寮を出るのを機にこの家を見つけ、二人での暮らしを新たに始めたのだ。
 電車通勤の菜月は駅から近い立地を望み、バイク通勤の紗都美は静かな一軒家ならどこでもいいという条件にこ

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はじまりの日

はじまりの日

ーはじめにー

この作品は、iriさんの「はじまりの日」(VICTORENTERTAINMENT)という曲をモチーフに創作した短編です。素人作品なので稚拙ではございますが、よろしければ読んでいただきまして、iriさんの「はじまりの日」もぜひ、聴いていただければ嬉しいです。とても素敵な楽曲です。(金島魚月)

 京急線が終着駅に着き、電車からホームにトンと降りると、風向きのせいか、春のやや強い風の中

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