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短編小説:定点観測(英語話せますか?から派生した物語)


この短編小説のようなものは、下記の定点観測から派生した物語でもあります。

さくらは怒っていた。誰でもない、自分に怒っていたのだ。何故あの時、すぐ彼女の質問に応えてあげなかったのか。外国人旅行者である彼女の質問に私は黙ったままでいたのか。

彼女は助けを求めていた。
「空港で彼が待っている。彼はスマホを持っていない。私が彼のスマホを持っている。だから空港に連絡して私が遅れる事を伝えて欲しい」
彼女はつたない英語でそう言った。私にではなく、私の隣にいた駅員に。
だけど彼はそれに応えなかった。決して難しい英語ではなかった。話し方が早い訳でもなかった。
しかも彼の方から「英語を話せますか?」と問いかけたのだ。
そこから導き出せる答えは一つ。

彼は英語が話せなかった。

では何故、彼は彼女に問いかけたのか?
私は彼女を助ける事が出来た。彼女は困っていた。でも助けなかった。あのタイミングで私が英語で応えたら彼のプライドを傷つける、という事が頭をよぎった。
でも、そうじゃない。私が答えなかったのはそれではない。
私は彼女に嫉妬していたんだ。

嫉妬。この感情。こんな気持ち。
もう忘れてしまっていた。こんな感情。恋心。
そんなものがまだ私の心の中に残っていたなんて。若い頃は、払っても拭ってもあとから湧き出てきたのに。無尽蔵にあると思っていたのに。たった一度の裏切りで、その情熱、感情を、随分長い間封印してきた。封印したことさえ忘れていて、一生、何も感じないまま死んでしまうんだろうと思っていた。感情、恋、心。

そう、昨日、私は運命の出会いをしたんだ。いつもの通勤電車の中で。
聞きなれない大きな音がして、振り返ると若い女が倒れていた。
初老の男がその女を抱きかかえていた。その手には悪意があった。
悪意というか、よこしまな手だった。
不必要にべたべたと触っていて、見ていて不愉快だった。
私をセクハラした上司を思い出した。そのせいで、私は長年勤めていた会社を退社したんだ。
ほどなくして駅員が駆け付けた。三十代後半の白髪まじりの男だった。
帽子を深くかぶり、鼻が真っすぐで唇が薄く、映画俳優みたいだった。
彼はそのいやらしい手から彼女を救い、リラックスさせ、落ち着かせ、必要最低限の事を聞き、的確に問題を処理し、前に進めた。私も彼に協力した。日本語を話せない彼女に対して、おそらく中国人だとふんでスマホで質問をした。
「飛行機の時間は何時ですか?」と。

彼女は11時と手振りで応えた。その時の時刻は7時。
「まだ時間はある」と彼は言った。

彼女が倒れた原因もわからず時間を優先させてこのまま電車に乗せるよりも、駅でいったん様子をみて医者に見せる。それだけの猶予は十分にある。そう考えたはずだ。
彼は私の目を見た。今にも引き込まれそうな、純粋で無垢な瞳だった。今まで私の周りに居たどんな男の目とも違っていた。
その彼が私に同意を求めていた。澄んだ瞳で。
私はうなずいた。そう。あなたの言う通りよ。それが良い。私も同意見よ。もしも彼がついてこいというのなら、どこへでもついて行っただろう。
そんな錯覚さえ覚えた瞬間だった。ではなぜ彼は、「英語が話せますか?」と聞いたんだろう。

もしかしたら私に期待していたんだろうか?自分は話せなくても、彼女なら、またはここに居る誰かが、英語を話せるかもしれない、と。
でも、そんな必要がどこにあるだろう?私が使ったスマホのアプリで意思の疎通は十分出来ると証明できたではないか。空港の時間は何時か?と聞いたではないか。
彼女は駅員である彼に助けを求めていた。自分の彼が自分を待っている。彼は彼女に嫉妬したのだろうか?だから何も言わなかったのだろうか。
その可能性はゼロではないが、冷静に考えるとゼロに近い。
何よりも彼は仕事中なのだ。五分前は全くの赤の他人で不測の事態の車両に乗り込んできたのだ。
出会ったばかりの彼女の彼氏に嫉妬などするわけがない。
だとしたら、考えられるのはひとつ。彼は自分が英語を話せないという事をすっかり忘れてしまったから、なのか。
だとしたらそれは何とも間抜けだけど、そういう抜け方は決して嫌いではない。むしろ好きだ。
いや、私は理由をつけたがっている。
彼に会う理由を。そう。正直に語ろう。正直になろう。素直になろう。
たとえもうすぐ四十の独身女で男の裏切られてばかりの痛い女だとしても
私は彼に、一目ぼれしたんだ。

そんな訳で私は今、駅の改札に居る。
私の前職はデパートの店員だった。男性化粧品担当だった。当然、客は男性だった。たまに、彼にプレゼントしたいという女の子もいたけど、ほとんどが男性客だった。そしてよく誘われた。誘えばついてくる、と思わられたのかもしれない。軽くみられたのだろう。居場所はわかっている。何度か通えば、食事くらいしてくれる。その時飲みに誘えば簡単についてくる。そして簡単に寝てくれると。噂になった。社内からの嫌がらせも受けた。そして退職して今の職についた。内勤で事務職で一応、SEだ。がんばれば、文系でもなれる。不思議だけど文系の方がなやすい職域だ。もっと上を目指すのなら、理系のマニアックな世界が必要なのだろうけど、企業の要望やその段取り、すり合わせ、細かい調整、スケジュール、段取りなどは、むしろ、コミュニケーション能力が問われ、私みたいな、どこにでもいる人間の方が向いている。

私は、彼の職場を知っている。駅。駅員。その駅がどこか知っている。今、目の前にいる。
(あの頃の私の立場が逆転したわけだ)
改札の向こうに事務所の中が透明なガラス越しに見える。制服をきた男たちが何人かいる。でも彼は居なかった。夕方の六時。今朝、彼は勤務していたのだから、シフトを交代したのかもしれない。もうここにはいない。明日来てみよう。
ああ、これじゃまるでストーカーだ。私が忌み嫌っていた。でも、そのうちの一人に私はついていき、身も心も奪われてしまった。ああ、思い出したくもない。あの男と同じことをしている。
でも明日、私はここにいるだろう。運命を片手に。

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