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エッセイ:空でいいんじゃねすかね


兄さん、じゃもう一つ聞きたいんですがね、人間は誰でも、他人を見て、誰は生きる資格があって、誰は資格がない、などとそれを決める権利を持ってるものでしょうか?

『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー


空しき問い

生きるとは経験の連続といえますが、経験とは、分かつことであるという。
分かつ。
つまり、他者と何かを分かつ。
カラマーゾフの兄弟を読む。株式投資をする。株価が暴落する。妻に叱られる。他者とはカラマーゾフの兄弟であり、株式投資であり、株価であり、妻でありますが、人は他者抜きには何も経験することができません。

様々な経験があって今の私が有り、他者が有るが故に私は有る。他者とは掛け替えのないものであります。
生きるとは掛け替えのない他者と共に有るということであり、生きていれば他者との関わりにおいて色々と経験するわけですが、個々の経験から意味は汲み取れども、生きることの意味は汲み取れぬ。何故生きるのかという問いは、だから空しい。

今ここに有るということは、経験を因とする果であって、生きることに、有ることに意味はない。価値もない。生きていることは、善でも悪でもありません。現象であります。
因による果であり、続く果にとっての因であります。
現象に意味はない。価値もない。現象は、善でも悪でもない。

善悪も価値も意味もみな、すべて言葉に依って仮に説かれたものであります。仮に説かれたものであるから意味がないのではない。仮に説かれたものには意味しかない。価値しかない。善といえば善となり、悪と呼べば悪となる。これらはみな時と場所に依って移ろうものであり、他者も移ろう、私も移ろう、有るものはみな移ろう。
何故なら現象はみな、海面に「波」を見い出すがごとく、言葉に依って仮に「有る」のだから。

先日、note で「(こんな自分でも)生きてていいですか」と結んだ記事を読みまして、何の考えもなしに「いいに決まってるじゃないすか」とコメントを差し上げてしまい、我ながらエラソーだったぞと恥じ入っております。
生きることに善いも悪いもなければ、生きる資格などというものもない、みな言葉です。他者も私も言葉に依って仮に有る。空でいいんじゃねすかね。生きているってことは現象で、本当は何にもない、みな波のように移ろいながら仮に有る。

生きること、経験することはみな仮のものだと互いに分かつことが出来れば、人はもっと人におおらかになれるはずです。株価の暴落ごときは大したことではない。
人生は多分、大袈裟なものではない。
空という名の移ろいである。