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「たまにはご飯、手を抜いてもいいんですよ」に引っかかって、何に引っかかるのか考えてみた

朝、朝ごはんを食べながら、ぼーっと見ていると、テレビで母の日にちなみ、お母さんありがとう企画がスタートした。
美味しいお肉料理を作ってくれてありがとうという息子の話。
その話自体はほっこりする話。
司会の方が、「〇〇ちゃんのお母さんは、どうですか?」と他の親子にふると、「料理が得意な方じゃないので反省しました」と笑うそのお母さん。

フォローのつもりで、ゲストの方が
「手料理はもちろん愛情感じやすくて素晴らしいのですが、お母さんは他にもやることたくさんあるから、たまには手を抜いてもいいんですよ」と言っていた。

どっちのお母さんにも配慮した言葉なのだろうなと思う。
でもモヤモヤするのはなんだろう。

『手を抜く』という言葉がモヤモヤするのかなー?「愛情」という言葉かなー?

いや、数秒のコメントだ。きっとどちらも傷つけないように生放送でとっさにフォローするのは大変だろう。その気持ちは十分伝わってくるんです。批判じゃないんです。

これは、私が他の母達と接する上で、どういうスタンスでいたいか、という問題なのです。

子育て中のママが『手を抜く』ということは、そもそもどういうことなのか。いくつかのパターンに分けてみる。 
1、「今日は夕飯抜きにしよう」
2、「今日は夕飯クッキーにしよう」
3、「今日は夕飯納豆ご飯だけにしよう」4、「今日は夕飯冷凍餃子とご飯にしよう」5、「今日は外食(もしくはお弁当)にしよう」

細かく見ていくと、自分の基準が見えてきた。手抜きと呼ぶのは誰の基準なのか。そこに愛情はあるのか。

話は少し変わるが、子どものお弁当を見る機会がある。いろんなママがいろんなお弁当を持ってきてくれるし、お弁当作りが好きなんだなと言うママもいれば、頑張ったんだなというママもいる。ときにはパパもいる。
でも、愛情を感じないお弁当なんて存在しない。というくらい、愛情を感じる。買ってきたものさえ。
だって、我が子が好きなものをチョイスして、我が子が嬉しくなるようなピックや、お弁当箱、袋。小さめのおにぎりや、食べやすく切られたソーセージだけで、我が子を想像しながら、用意してくださったのがわかる。少しは野菜も食べてほしいと、健気に添えられたコーンなんてたまらない。
サンドイッチなら食べてくれるだろうと買ってきた袋にパパの愛が、詰まっている。

子育てにおける、手を抜くってなんだろう。料理をしないことじゃない。
我が子を思わないことかもしれない。
外食だって、我が子を思って、うどんを短く切ってあげたり、塩分の少ない食事にしてあげたり、少しでも野菜食べてくれるといいなと考えたり。それって、全然手を抜いてない。

手間暇かけた料理でも、辛すぎたら小さな子には食べさせられない。
我が子を思えば愛情は伝わる。

そんな基準で見ると、先程の1〜5の中でどれが手抜きなのか、見えてくる。
というより、シチュエーションでも、変わるよなぁと思う。

夕飯抜きなんて絶対に手抜き!と思っていたら、夕飯食べる前に寝ちゃって、今日はいいや夕飯抜きで、という日がうちにもあった。それは、優先順位を娘のことを思って変えただけだ。
お腹が空いたようと、泣く我が子に何も与えないのは問題だし、きっと母だけの問題じゃないから、誰かに頼ってほしい。

タンパク質とって欲しいなと思って乗せた納豆は、手を抜いてないんじゃないか。

私も、ごめんね、今日は手を抜いたというご飯の時も多々あるけど。

お肉料理が得意なお母さんも、コメントしたお母さんも、みんな頑張ってる。

選択肢が沢山ある中で、今の親子にベストな食事を考えること。それを手を抜いたとは、外野は誰も言えないのではないかと思った。

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