友情と呼ばれている何かについて考える

こんにちは、クミハチです。からっからの晴天で、空気中の水分含有量も少なく、風の加減も質感もすこぶる良いのですが、室内で、紅茶を濃く出して、いま書き始めています。

友情、というものについて今しばらくあらあらと考察してみます。この言葉には、愛や平和と同様、特別に清潔な額縁にでも入れておかないと収まりきらない神聖の風格さえ纏わりついていますけれど、僕は不幸にもあまり深く考えたことがない。けれども最近、どういう縁の作用か、「男の友情」というものへの憧憬が俄に活性化されて興奮さめやらぬ有様です。僕は「同性愛傾向」の極めて強い男です。「惚れる」という心的現象にも様々な色の諸相諸段階があってそう単純に括れないのですが、僕の物心ある記憶をひっくり返してみると、惚れた相手は決まって男です(幼少時はまた特別な心理的問題が関係してくるので別の機会に考えますか)。なかにはフェミニンで優しい男もいたし逞しく粗野な男もいた。男も女も種類色々だ。中学高校大学、僕は大小様々の「恋」を経験してきました。性指向のみに限ってカテゴライズするなら、一般に「ゲイ」と呼ばれますね。僕にとって他の「男」とは、「異性愛優位」(異性愛傾向の強い、ということ)の人びととは若干違った位置づけにあります。同性の「遊び仲間」でありながら、同時に、僕にとっての「恋愛可能性」も彼に備わっているのです。これがどういうことか、よくよくじっくり想像してみてほしい。当たり前のことだけど、ふつう男女の恋愛事情には、「性別」ゆえの障壁が立ちはだかっている。ほうっておいても、男子は男子と、女子は女子とおのずから集団形成するでしょう。『礼記』のいわゆる「男女七歳にして席を同じゅうせず」というあの意識が「社会慣習的」につくられていく。してみると、一方に恋愛感情が芽生えた時「わざわざ異性に声をかけるのは緊張するなあ」という心理的抵抗に抗う必要がうまれる。校内の「評判」や仲間内の「うわさ」リスクも気になるし、「もし振られて嫌われたら嫌だな恥ずかしいな」というプライド面でのいじらしい不安もある。この障壁の存在は、良くも悪くも、男女の恋愛過程に「分りやすい物語性」を提供・設定してきました。古典的紋切り型の事例では、下足箱に愛の手紙をいれるとか、ひとりでいるときに緊張した面持ちで声をかけるとか、そうした行為そのものが「男女の恋愛感情」を匂わす行為として誰もが一定の合意を与えている。その成立後も誰の目にも明らかで、部活の引いた後同性の仲間の元をルンルン気分で抜け出して異性と片寄せあったり手をつないだりして帰宅する様子は、間違いなく、世間公認の「色気付いた男女の仲」でありうるのである。そこに誤解が生じる余地は殆どないといっていい。たとえばその様子を目撃して「男と女の熱い友情」と解する事態はおよそ考えにくい。男と男ならほぼ無条件に「仲間同士のつるみ合い」なのに、男と女なら大概「カップル」になる。この認識の自動性は呆れるほど単純ですけれど逆らえないほど強い。ある女子が野球部のキャプテンに恋をしたとしても、黙って横恋慕に徹するだけでは、その男子との接触機会は永遠に訪れない。恋慕する側が何かしら勇を鼓したアクションを起こさない限り「男女の物語」にはいたらない。この性別集団間の障壁に由来する「分りやすさ」が「良くも悪くも」でありうるのは、恋する当人たちにとって大事件であるその恋愛プロセスの最中にさえ、一定の参照点、「ロールモデル」の蓄積があるからだ。異性愛優位の男女が「恋」に落ちたときの振る舞いや悩みや別れの予感を記録した「語り」に関しては、世の中に満ち満ちているでしょう。映画や小説、先輩の恋愛談義まで、男女の恋愛モデルにおいては未来永劫事欠く恐れは皆目ありません。その点で僕のような同性愛傾向(ところでなぜ僕は自分を「同性愛者」と呼ばないのか。理由は簡単です。「同性愛」は個人を個人たらしめる本質的規定ではありえないから)の者は、しばしば、男女の恋愛モデルの絶対性を疑わないような「人々」をいとわしく思います。

そうです。「男に惚れた男」「女に惚れた女」の恋愛モデルの実情はまったく寥寥たるものなのです。この頃では「性的少数者」の名のもとに、こうした人々が多少認知されてはいるものの、いまだ「奇異・変態」の存在たるを免れている風には思えません。僕自身、二十歳までの過去をふりかえってみるに、「男に対する男の恋愛」を「恋する演者として自覚的に」生きたことはない。もっとも、LGBTとか性的マイノリティーなどという一組の社会的・学問的概念と接触するのは、二十歳前後のずっと後なので、それ以前の僕にとって「恋愛感情」とは、輪郭淡い心の昂ぶりでしかなかった。「男の友情=ハイレベルのエロス的一体関係」という連想図式は、いまでも凄く固い。この段にいたると、「友情」と「恋愛」の区切りが曖昧になって段々分からなくなる。ことによると「友情」とは「恋愛」のバリエーション、より一層洗練された派生状況なのではないか、というふうにも穿ってみたくなる。男たちの親密な結束(ホモソーシャル)にはしばしばエロスの香りがするとフェミニズム界隈では定説の如くささやかれているけれど、いま僕が把握しようとしている「男の友情」はその親密さが一対一の閉じた「友情関係」に移行しただけのことなのかもしれない。ともすれば「男の友情」関係を破壊しかねない「女」という外来の第三項は、その圏域からは慎重かつ徹底的に排除され、そのためにますます関係は再強化される。「男の友情」のホモセクシャルな特性を、「女」の追放・不在という着眼で見つめると、様々の新知見が得られる気がする。まず「男」は、いやそうでなくて「僕」は、おそらく、むかしから、「女」をどこか蔑視してきたし、今もそれは変らない。この「蔑視」は極さりげない様相、自覚さえ難しい微かでおぼろげな感覚なのだけど、女という性を「浅ましくて何かが足りない」と捉えている節がある。もちろん僕は個人的には「気立ての良い女性」を大勢知っている。どちらかといえば「男」のほうがタチの悪い奴が沢山いると思っている。しかも病気や諸事情の関係で、幼いころより僕は女性から一段と良い扱いを受けて来た自覚が強くある(友人も少なくなかった)。女性への「個人的憎しみ」など思いつこうにも思いつかない。それでも観念のレベルで僕は、女性に対し、「性的魅力」を「殆ど」感じない。この場合の「感じない」とは、単純なところ、情の昂ぶりと下半身の反応が起らない、という二事に尽きる。漫画表現でたとえるなら「眼がハートになる」ような我をも忘れる甘美の情緒的反応は、女性に対しては起らなかった。ただ、美醜を含め異性の性的魅力の客観的評価はできるもので、たとえばある女性をみて「これはニキビ面した高校男子どもが騒ぎそうな女だな」とか「この美人コンテストは彼女が優勝するだろう」なんてことは分かる。絵に興味がなくともその筆使いの巧拙くらいは大体誰でも分かるでしょう。僕自身が魅了される当事者でなくても「世間一般」の好悪はなんとなく想像がつく。ホモセクシャル傾向の強い男は、概して、無自覚の「女嫌い」であるふうに思う。彼をそのようにした要因分析は学問の領域だと思うのでうかつに手をだしかねるけれど、僕の直観では、「女嫌い」の核はあらゆる男のなかに潜在していて、その核との「折り合いのつけかた」こそが彼らの今後の「対女性意識」(女性に対する心的現象)を決定づけるのだと思う。ここで、同じ論理を「女性」に単純適応させて、すべての女は「男嫌い」の核を内在させていて云々とやるつもりは僕にはない。ただ男女集団ともにホモセクシャル(同性愛志向者)を一定数含んでいる事実は無視できず、そのことを直視・分析しようとする際、「異性嫌い」(ないして異性恐怖)という観点が殊の外重要になってくるのではないか、と僕は自分の個人史を振り返りつつ心密かに睨んでいるのである。素人考えの蛮勇ついでにもう一歩展開してみるなら、この「異性嫌い」を内面化してしまう背景には、紛うかたなき「社会作用」があって、この社会作用は、男女おのおのに「異性の恐ろしさ」をあの手この手で教育する。いたいけの少女には「男は狼なのよ」と諭し、純朴なる少年には「女は魔物だ、騙されるな」と大人たちは説く。異性との接触に過敏であった原始コミュニティの性倫理は、のちのち経年変化しながらも、いまの僕たちの「対・異性意識」の根底に根を張って生きている。僕たちに内在する女嫌い男嫌い、ひいては人間の性心理の深い部分を規定している「異性嫌い」の後景にはたぶんに長い禁忌史があって、それゆえ、この代々脈々に引き継がれて来たこの性向を一代の個人的努力で覆すのは容易ではない。個人の「性意識」は個人の生得でなく、社会システム全般による教育作用の産物なのだ。

「男の友情」に思いを巡らせるとき、僕にはどうしても官能的な気分が優ってしまい、一般的な含意には恐らくはないだろう「肉体の交わり」が「友情」と二重写しになる。汗まみれの裸でハグして互いに命を賭け合う覚悟で信頼を築かねば「本物の男の友情」はありえないという、極端の条件が前提になっていて、世間一般の「友情」との齟齬に僕はいつも虚しい思いをする。だいたい僕のそうした友情基準を強いると並みの相手は逃げ出すに決まっている。

そんなわけで、僕の「男の友情」観はすこぶる「水準」が高い。当然僕はそうした友情を過去経験したことがないし、いまもしていない。これからも無いかもしれない。一貫してこの友情は理想なのだ。理想ゆえますますそれは燦然たる輝きを放ち続ける。とはいえ、諦めるのも惜しい。真実「お前のためなら死ねる」と心底より言えるような関係を、男と結びたい。

けれども、僕自身、この友情に深くて重い憧憬を抱きつつも、いざその種の友情が試される段になるとふと尻込みしてしまう予感もある。いや確信がある。『走れメロス』は、太宰の理想ではあっても、実人生の生の経験ではなかった。観念というものが古今東西に美しくあるのは、それが経験されることが余程困難であるからだろう。この友情の重さ、真剣の間柄に、軽薄な気分屋の僕は耐えられるのか。あるいは軽薄な気分屋をさえ「命を賭ける男」にできるくらい「男の友情」は物凄いものなのか。そもそも僕は世間一般に言われている「友情」のことさえよく知っていないのかもしれない。普通の意味での「友情」とは何だろう。その含意をさぐってみないことには、より高度の友情は分からない。

とどのつまり僕は「友情」について何もわかっていない。だめだこりゃ。



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