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ローカルに絵を描く。

「僕、地元の空気が好きかも」。そんな仮説が、ここ数ヶ月のうちに明確なものになるにつれ、それと反比例するように、東京へ行く機会はめっきり減った。

十分に、充分な山梨という、「日本のどこ」かもままならない「余白」を楽しんでいる。

ローカル大好きな私は、何を持って「ローカルが好き」と言っているのか考えなくてはならない。それは、多分、人の心もローカル同様に、「余白」があってこそ輝くものだと思うから。各人の「余白」、心のよりどころは一体、何がどのように作るかと言うのは、多種多様、人の数だけある。

都会の高層ビルが乱立する景色に、私という人は、窮屈さを感じる。

山が見たい。

ビルの空きスペースに何か感じることは無くても、シャッター街の一角でマルシェしたい。コーヒースタンドもいいな。

「何も無い景色」で彩られたローカルで生活することは、どこか、真っ白なキャンパスに水彩絵の具のオフホワイトとか、ほぼ水みたいな水色で絵を描くこと似ている。

曖昧な輪郭を幾重も幾重も塗り重ねて、ぼわっ、ふわっな絵、機微が出来上がる。1人で描く絵も、仲間と描く絵も、美しさも、汚れも混濁した「その地域の人たちが描いた絵」を創る。

ローカルの生活は、そんな感じがする。なんとなくだけど。

景色のなかには他の誰かがいて、そこに私もいる。

都会ほど匿名性が無いローカルは、良くも悪くも、「個人」が生きやすい。

ローカルという景色をさながらキャンパスだとするなら、水彩絵の具のように私たちは淡く、人やモノコトとの関係性で創る、何色とも言えない色で、絵を描き上げる。

淡くてぼんやりしていて、誰のためとも分からない絵が蓄積されていくと、時に束となって、人々から「あれ?凄くない?」とピックアップされたりなんだり。

ローカルでの時の流れは、ゆっくりしている。

時代と文明の潮流から、いつ振りほどかれてもおかしくないほどにゆったりしている。

書き換えられ続ける都会の時間軸と違って、ローカルの時間軸は蓄積される。

時代の流れをせき止める障害物として、蓄積された「伝統風」もあるけど、歴史と今を紡いで創る、それが、ローカルに人とモノコトで絵を描くってことなのだと思う。

人の内面性が急速に変わらないことと、ローカルがローカルであることは同様なのかもしれない。

焦ることを強要しかねない世界で、ローカルに生きる私たちは、悠長に水彩絵の具でキャンパスを埋め尽くそうと絵を描こうとしているのだ。

あーじゃない、こーじゃないと、絵の具を継ぎ足しては混ぜて重ねて、淡い美しさと、ほのかな汚れの間の色を醸す。

ローカルというキャンパスに生きる私は、今も「さて、この余白、どうしてみよっか。」とニヤニヤしている。

1人でも、皆とでも、淡さで描いた余白の景色を愛でる愉悦が、私の創作の根源であって、望む日々の在り方なのかもしれない。

心に宿る「余白」に、日々の創作を通して少しずつ絵を描いていく。

そうして出来た一枚絵が、今を映しているなら「美しさ」「汚れ」そのどちらでも、私は、愛して次の一枚を描き上げるだろう。

山梨で、ローカルで、カッコよく生きる大人の背中を追うように日々、醸す。

今、心の余白に描いている絵は、パン屋になった私と5月の芝生の絵かな。

「空き家で作ったパンの空き地マルシェがしたいなぁ。」なんて。



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