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「適当」なんて無い。

これは絶対、なのだけど、「クラスのお調子者」というのは、「適当な答えを書きなさい。」を、「テキトーな答えを書けばいいんですか。」と訳したくって仕方の無い生き物であるね。

だから決まって、テスト監督の先生は、「適当と言うのは、」と、なんとも無駄な前置きをするのだ。

そういうちゃんちゃら可笑しい学生生活を、私も経てきた。
もう大学4年の「この時期」である。友達は皆、必死の就活をやり終えていたり、教採、公務員試験に備えている。漏れなく、人生の岐路に、立っている。

こういう、大変な時期における、選択というのは、まぁ「適当」でありたいな、と、思うのが自然である。

何個か得た「内定」の中から、適当なものを、
就活が奮わなかったから、以下の選択肢(ex,留学、公務員)から適当なものを選びなさい、と、試されている。

ただ、そういう、適当というのが、果たして本当に「適当」であったかどうかなんていうのは、一体、いつ分かるのだろうか。

私には、いつまで経っても、分からないと思うのだ。

「いや、一向に分からない」と、そういう風に、決まっているのだ。

「ぼくにとっての適当」も、「アナタからみたらテキトー」であっても、おかしなことではない。

案外、「決定する」なんていう一大行事は「ぼく」がやるのに、「評価する」なんていうのは、誰振りかまわないので、アトにもサキにも、「まぁ、君は本当にテキトーであるね。」なんて言われるかも、分からない。

たとえば、身勝手に、ありとあらゆるバイトを辞めて、書生まで辞めて、「パンの修行に行くよ、就活もしないで。」って言ってた私も、数週間で、あまりの貧困に「バイトを始めたよ。」なんて言うのだから、傍目には、「コレは大変テキトーでありますなあ。」と、呆れられても致し方ありません。

けれども、私からしたら、「バイトはしない」という、今風なプライドは捨てて、明らかにバイタリティ的に過酷になる実生活を、選び取っているわけなのだ。
傍目に見る「なにを優柔不断な。」という評価など、知ったことではないのだよ。

生活というのは、「今ここに、自分の脚で立つ。」という、覚悟と勇気で成り立っている。

アトにもサキにも、適当かどうかは、全く、一切、分からない。

で、あるなら、今のジブン、見っとも無いジブンというものを、
一生懸命、生きてみたらイイ、と、私は思うが。

やはり、傍目に見て、「適当」でなければイケナイ、のだろうか。

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