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#129 ヒメちゃんの黄色いランドセル

新学年になって、note の街でもランドセルにまつわる記事を何本か読みました。最近はランドセルもカラフルで見ているだけで楽しくなります。僕が小学生の頃(平成ではなく昭和だ!)は、ランドセルと言えば赤と黒に決まっていたので……と言いたいところですが、実はそうではなかった話をしようと思います。43年前のことになります。



黄色いランドセルの女の子

小学校に入学して、ヒメちゃんと同じクラスになった。ヒメちゃんはアニメのキャラクターにたとえるならキャンディ・キャンディみたいな顔立ちをしていた。そして、ヒメちゃんのランドセルは鮮やかな黄色だった。当時、クラスで赤と黒以外の色のランドセルを持っているのはヒメちゃんだけで、彼女は「色が違う」ということでいじめられることになった。

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目を背けたくなるいじめ

小学校1年生の頃は授業が終わったらすぐに帰るので、多くのクラスメイトと同時に通学路を歩いて帰路についた。ヒメちゃんは僕の自宅とは途中まで同じ道で、ヒメちゃんがいるかどうかはすぐに分かった。というのもヒメちゃんはいつもランドセルの色のことでいじめられていたからだ。それは、目を背けたくなるようないじめられ方だった。

まずは黄色のランドセルをからかわれて、帰り道では早々に男子にランドセルを取られてしまう。ヒメちゃんは「返して!」と追いかけるが、男子は次から次へとランドセルを投げてパスするので、走って追いかけてもランドセルを取り返すことはできない。
 じきに、ランドセルを投げてパスするのに飽きた男子は、ランドセルを地面に投げつけたり踏んだりし始める。踏むといっても、上から足をのせる程度ではなく、ランドセルの上を何人もの男子が次々と歩いていくのだ。もちろん靴のままなので、ランドセルには靴の跡がたくさんついてしまう。

大体この辺りで、ヒメちゃんが泣き始めた。泣きながら「返して!」と男子を追いかけるが、ランドセルはまたパスされ、地面に投げられ、踏みつけられる。大切なランドセルがめちゃくちゃにされるのを見ながら、ヒメちゃんは泣くを通り越して泣き叫んでいた。
 それでも気が済まない男子は、ついにランドセルの上に両足で乗って飛び跳ね始める。いくらランドセルは丈夫だといってもさすがにぺちゃんこで、中に入っていた教科書や筆箱も無事ではなかっただろう。

いじめるのに飽きて男子が行ってしまうころには、ランドセルは無惨な形に潰れていて、ヒメちゃんは泣きながら土をはらっていた。いじめていた方の男子は、4〜5人ではなかったかと思う。僕の覚えている限り、そんないじめが頻繁に繰り返された。下校途中、ヒメちゃんが泣き叫ぶ声が聞こえると、その場に近づくのが嫌だった。彼女はどんな思いで毎日を過ごしていたのだろう。

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何もしなかった僕

僕は大抵の場合、何もできずに少し離れたところから、ヒメちゃんのランドセルがめちゃくちゃにされるのを見ていた。止めに入る勇気がなかった。そのくせ、無視してその場を立ち去ることもしなかった。
 何度か、男子たちが行ってしまってからヒメちゃんに「だいじょうぶ?」と声をかけたことがあったように思う。彼女は泣きはらした顔で僕の方を見て、時には何も言わず、時には「見ないで、あっち行って!」と言った。

とにかく、僕はヒメちゃんを守ることができなかった。ひょっとすると、いじめている男子の横で黙って見ている別の男子がいたことは、ヒメちゃんにとっては余計に嫌なことだったかもしれない。今さらで遅いのだが、あの時はごめんなさいと伝えたい。もっと、勇気を持っていたかった。

何もしなかった大人

いじめの件は、学級会の議題にもなったように思う。彼女はたしか、「これはおばあちゃんが買ってくれた大切なランドセルだから、もう投げたり踏んだりしないでほしい」と言った。しかし先生が、「いじめはいけません、やめなさい」とはっきり言うことはなく(その男子たちには個別に言ったかもしれないが)、「子どもたちのいじめは子どもたちで解決」的な姿勢で、彼女は守られていなかった。

大人は無責任だった、と思う。当時はまだ「いじめられる側にも理由がある」という価値感が幅を利かせていた。ヒメちゃんの件はどう考えても、彼女は1ミリも悪くない。たまたま彼女以外は全員赤か黒だったというだけで、ランドセルの色に関して特に規則はなかったので、いじめた男子が100%悪い。それでも、「いじめられる方も悪い」という発想は、おそらく今もこっそり生きのびているのだろう。

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その後のヒメちゃん

ここから後は記憶が定かではない。一つはっきりしているのは、僕の通っていた小学校では、小学5年生頃になるとランドセルを卒業して、普通のカバンで学校に行くことが流行っていた。彼女もその頃にランドセルを卒業したと思う。
 ヒメちゃんは、卒業アルバムにいい笑顔で写っていたのを覚えている。僕はその後私立中学へ進んだので、中学校で彼女がどんな感じだったかは知らない。明るく元気な人だったので、きっと人気者になったに違いない。

そしてあの4〜5人の男子たちは、きっとあの頃のことはおそらくきれいに忘れているだろう。自分の娘や孫が同じ目にあったら、きっと怒るに違いない。でも彼らのしたことはヒメちゃんの記憶にはしっかり残っているはずだし、僕の記憶にも残っている。きっと何かしらの因果応報があるに違いない。


何がこのいじめを生んだのか?

最近はランドセルも赤と黒だけではなく、青や緑、茶色にパープル、白やグレーと本当にバリエーションに富んでいる。本当に「ランドセルの色によるいじめ」はなくなったのだろうか?気になって調べてみると結構な数の記事が出てきた。子育て系の記事を1つと、ランドセルメーカーの記事を2つ紹介する。

ここからは私見を述べたい。上の記事を読んで、「やっぱり、だからいじめはなくならないのか」と気付いた。というのも、どのサイトもランドセルの色に関して、子どもの意見を尊重しつつ、周りから浮いていじめられないためのコツを伝えているからだ。育児記事やメーカーサイトはそうならざるを得ないのはもちろん分かるが、その一歩奥にある価値観をよく考えてみたい。
 note でも、お子さんが最終的に赤や黒のランドセルを買うことに納得して、親が「ほっとした」というような記事を何本か読んで、少し悲しくなった。逆に、「うちの子は少し変わったランドセルを選びました!」という話を友人から聞いた時は、「さすが〇〇さん、そうじゃなくっちゃ✨」と心から嬉しかった。

もちろん、「ひとりの子ども」だけの観点では、いじめられない方がいいに決まっている。しかし、いじめられないために「無難な赤や黒を選ぶ」という発想は、結局は「大勢に従っていれば安全」という価値感と行動パターンを生み、間接的ではあるが、少数派に対するいじめを生む土壌を作り出しているのだと思う。誰しも自分や我が子がいじめられるのは嫌だ。かといって大勢に従う方がいいという発想になってしまうと、結局は赤と黒以外を選んだ子どもを追い込んでしまう。

今僕がいるドイツの大学の研究室では、国籍を理由とした差別はない。理由ははっきりしていて、大勢を占める国籍が存在しないからだ。一番多いドイツ人でも2割以下だ。全体がごちゃ混ぜインターナショナルなので、国籍を理由に差別するという発想そのものが生まれない。
 ランドセルの色も同じで、みんなが好きな色を選んで、パープルやらエメラルドグリーンやら白やらが赤と黒と一緒にごちゃ混ぜになっていれば、ランドセルの色に注目することもなくなるだろう。僕はそんな時代がいい。

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あの黄色いランドセルは今

ヒメちゃんも今は小学生ではなく同い年なので50歳、社会人のお子さんがいてもおかしくない年だ。そして何となく、ヒメちゃんはあの黄色いランドセルを、今も大切に持っているのではないかと思う。ひょっとしたら、お子さんにも、「今はもう大丈夫な時代だからね」と黄色いランドセルを買ってあげたかもしれない。

それでも、実家に帰省して小学校近くの道を歩くたび、泣き叫んでいたヒメちゃんの姿を思い出す。あんな風に人の気持ちを傷つけることは決して許されない。僕は「大勢に従っていれば安全」とは考えず、人と同じでも違っていても、自分が信じる道を選び続けたい。ランドセルの色も、学歴もキャリアも、ライフスタイルも、大勢が存在しない「ごちゃ混ぜ」が一番やさしいと思う。

今日もお読みくださって、ありがとうございました🌈
(2024年4月19日)

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