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【古代中世言語をやっている人ゆえのつぶやき】選挙が近いですが、よく「理想化」される古代ギリシアの民主制は決して甘いもんじゃない

参議院選挙が近いですが(※本記事執筆時点は2019年7月)、こういう時期になると、古代ギリシア語学習者としては、「古代の民主主義」というものについてどうしてもヒトコト垂れたくなってきます。というのも、

「古代ギリシアはなんでも投票で決める直接民主制だった、あれが人類の理想だ、それに比べて現代の民主主義は腐敗している」

みたいな発想が出やすいからなのですが。

古代ギリシア語学習者としてヒトコト。とんでもない、古代ギリシアの民主制はそんな呑気なもんではありません。

さらにいえば、直接民主制よりも間接民主制の方がはるかにいいと思います。その理由を古代ギリシアの直接民主制の実態の説明からお話しますね、

そもそも古代ギリシアにおいては「戦争」というものが生活の上で大きなファクターを占めており、「選挙権がある人=戦争の時は兵士として出動する人」という前提がシステムの基盤にあるわけです。

古代ギリシアで政治参加を許されていた成人男性というのは、戦争となると自費で「ぶきぼうぐ」を用意して参戦する人たちなのですね。ハイ、自費なんです!この辺は、いざ招集がかかったら「自慢の家宝の鎧」なんぞをつけて意気揚々と集まる鎌倉武士なんかの発想と似てるかもしれません。

だからといって彼らが好戦的だったかといえばそうでもなく、戦争の危機が迫ると反戦の議論も熱く沸き起こり、まさに直接民主制は投票ギリギリまで盛り上がったようです。

ただ当時の人たちの反戦議論というのは「この戦争は意味があるのか?」とか「たとえ勝っても儲けが少ない戦いなんじゃないか?」とかいった「損得勘定」での反戦であって、現代の反戦意識とは視点が違いますが。

「そりゃ、戦争というのは一大事業だし、みんながやると決めたんなら、オレも武器防具を持って参加するよ、でもこちとらは命を賭けるわけだから、やるべき戦争がやらなくてもいい戦争かを決める場には、オレも参加させてもらって、意見は言わせてくれよな」という意味合いでの民主制。基本的な戦争方針については合議制をとる、という「戦士の会議」の発想です。これがあるから、対ペルシア戦争の時のように、「首都にまで敵が攻め込んでくる直前の一大危機」と納得感がある防衛戦争の時は、ギリシア軍はめちゃくちゃ強かった

現代日本では少なくとも「隣国との戦争をやるかやらないか選挙で決めよう、ちやみにやると決まった場合は成人男性は全員出動だからね」というような究極の選択にはなりません。今のところは、ですが。憲法改正やホルムズ海峡問題が絡んでいる以上、最近の日本の選挙と戦争の関係はだんだんリアルになってきています。

ともかく、古代ギリシア好きの私としては何が言いたいかというと、「古代ギリシアのように選挙権のある人は戦争にも行く義務を負うべきだ」などという暴論を言いたいわけではなく、「兵士になれない老人や障がい者や、女性や同性愛者も議員になれる現代日本の間接民主制のほうが、民主主義として進んでいるに決まってる」というお話でした。

古代ギリシアでは「わたしは戦争にはいけない妊婦ですが、これから子を持つ母親の意見を反映させるべく、ぜひ政治に参加したいのですが」などといったら「バカヤロウ、投票できるのは戦える男だけだ、帰れ!」と言われたでしょうし。

さらにマジメな考察をすれば、「投票したいような優れた候補者がいない」などという人もいますが、「女性・老人・若い世代・障がい者・同性愛者などなど、とにかくいろんな立場の人を議会に送り込みたい」という視点で投票先を探すのも、判断の一手なのではないかな、というお話でした。

偏った階層の人たちにすべてを任せず、社会のできるだけいろんな立場の代表者を揃えておく、というのが間接民主制の理想で、結果としては直接民主制より良い判断ができるはず、と。これもあくまで理想にすぎないのかもしれませんが。ともあれこういう選挙の時期に古代ギリシアと現代日本を比較してまじめに考察してみるのもよいかな、という試みでした。

子供の時の私を夜な夜な悩ませてくれた、、、しかし、今は大事な「自分の精神世界の仲間達」となった、夢日記の登場キャラクター達と一緒に、日々、文章の腕、イラストの腕を磨いていきます!ちょっと特異な気質を持ってるらしい私の人生経験が、誰かの人生の励みや参考になれば嬉しいです!