見出し画像

ACT.67『最果ての時間』

予想外

 日本最北の場所、稚内に到達した。
 稚内から、もう少し先に向かってバスに乗車して行こうと思う。向かうは日本の最北端、宗谷岬だ。この宗谷岬から先は、ロシア…樺太が続く事になる。名実共にして、日本最北の場所に向かう事になるのである。
 事前調べでは、稚内駅から宗谷岬に向かう為にはバスに乗車せねばならないのだという。バスターミナルの待合室にあるカウンターで、宗谷岬への行き方を聞いた。
「すいません。宗谷岬に行きたいんですけど…」
「宗谷岬ですね。バスこの時間ですので、もうしばらくお待ちください。」
「あと、福祉割引使えますか?」
「福祉割引大丈夫ですよ。」
「ありがとうございます、13時20分ですね?」
 とそうして購入した切符、また簡易な時刻表を手渡されたのが冒頭の写真になる。
 往復のバス乗車券に、『日本最北端宗谷岬への到達証』と記念のお札(?)がセットされている。いよいよ、日本最果ての場所に向かう気持ちが高鳴ってきた。
 そして、稚内に到達した時に少し予想外だった事がある。
 外国人観光客が非常に多いのだ。
「まさかこんな場所にまで来るんだな…」
という、コロナ禍の開けたインバウンドの高まりを実際に自分の目で確かめたような気持ちになる。言葉は中国系、欧州系と様々飛び交っており、多国籍の人々が集っていたのだが自分の中では韓国・中国をはじめとするアジア系の言葉を非常に多く聞いた感触だ。
 そして、外国人観光客も同じくしてバスターミナルの窓口に並んでいる。ターミナルで切符販売の係員とやり取りを重ね、自分と同じくして宗谷岬に向かうバスの特製乗車券を購入していた。
 ICカードを装着して走らない土地柄、こうしてまとめてしまった方が何かと便利になるのかもしれない。そして最北端の到達証を混ぜる事も切符では可能だ。面白い商売だと思う。

最北で残した事

 最北の鉄道駅、稚内に到達し自分の中ではまだまだやり残す事があった。
 稚内に下車すると、平成20年代に駅のリニューアルをした影響として土産物、飲食展開をされた証拠として若干、道の駅のような様相になっている。
「ん〜、自分が札幌で買った土産じゃ何か足りひんような気がするな。よし、買っていくか!」
…と突如、レシート目当てでもないのに関わらず札幌で購入した土産と同じミルククッキーを同じ数で購入。最初から札幌で大きな分を購入していれば、こうして後から買い足す事はなかったと絶対に思うのだが何故かここでこの思いに駆られた。音威子府、豊富と購入する機会はなく、ここで購入に至った形となる。
 そして、昼食も列車の影響で食事出来ていなかったのでココでお菓子を追加して胃を誤魔化す。更に、自分が地元・京都にて世話になっているクリニックさんへのお土産もココで購入した。
 こうして幾つかの荷物を増やす事になった。稚内での土産物屋での購入金額、1,580円近く。自分の中では
「人に渡すから」
と割り切っての行動だったが、クッキーの追加購入に関しては完全に必要なかったかもしれない。
 仕事先に向けての購入だったのだが、土産物を買う時にはずっと北海道に向かう宣言をしてから言われた
「白い恋人、買ってきてな〜」
の言葉がチラついた。しかし、
「白い恋人はどうせ物産展で買えるし、いいやんか…」
と内心は気持ちが逆であり、購入は控えた形となる。
 しかし、こうして思念して必死に選択したミルククッキーだったが、昨年(令和5年秋)に京都高島屋開催の北海道物産展で札幌・稚内で購入したものが来阪しているのを見た時には
「俺の努力を返せよ…(笑泣)」
と少し後悔の気持ちにさせられたのである。もう少し、限定性のあるものにすれば良かったろうか。
 そういや自分への土産は、白老のムックリとアイヌ系の謎なモノ以外、あまり購入していなかった。JR北海道のグッズもあまり惹かれる事はなかった上、そこまで大きく気持ちが動いた事はなかった。

※白老町に立ち寄った際、アイヌに関する土産物を幾つか購入した。大体は自分向け…だったが、絵葉書をこの時購入していたのであった。(唐突な白老)

 稚内で購入したモノ…といえば、もう1つある。
 クリニックに送ろうとしていた、ハガキである。
 画像が少し転じて、旅の前半で訪問した白老町。この白老町で、湖畔に向かってムックリを弾く女性…のハガキを買ったのである。
 その際、
「このハガキを何処かのタイミングでクリニックに送りたい」
と考えていたのだ。
 結局、ハガキは稚内まで持ってきてしまった。この時、自分にある考えが浮かんだのである。
「宗谷岬で投函すれば、何かしらの記念消印が付いて京都に向かうかもしれない。よし、宗谷岬で投函しよう!」
…非常に下らないアイデアになるのだが、当時の自分はこうした事をする為にお金を使っていた。
「こんなのにお金使って…」
と他人に言われるのは、自分を何か前進させられる為のモチベーションのようなモノだった。ハッキリ書いてしまえば、『ドM』みたいな…。
 と、最初は観光案内所の方で
「この辺りに郵便局ってあります?」
と質問。しかし、
「郵便局はこの駅近くにないですね…」
と言われ、駅構内にある施設に目を向けた。北海道で自分の旅ライフを支えてくれた、セイコーマートの存在だ。偶々、稚内駅構内の施設にセイコーマートが入居していたのである。
「コンビニなら、切手はあるやろか…でも稚内やしなぁ」
と思念したが、取り敢えず向かってみる。

※稚内駅前のセイコーマートを利用。土地柄な話になってくる…のかもしれないが、この稚内駅前のセイコーマートが自分の利用したコンビニの最北端となった。
(写真は想像図であり、このセイコーマートは小樽で撮影)

がんばれ発達くん

 稚内駅構内に入居しているセイコーマートに向かった。
 切手はレジで購入せねばならないのは何となく察していたので。そのままレジに直行で向かう。
「すいません、ハガキ出すように切手欲しいんですけど…」
「何円にしましょうか」
この時、現状では62円(多分そうだった)を出せば、そのまま海を越えても日本全国に配達されるのだったが、自分は何を思ったのか
「ん〜、取り敢えず84円2枚で良いですか?」
と少し考えてから考えを出した。
 と、レジ後方に列が形成されていたので、その圧力に自分は屈してしまうしかなかった。
「あぁ、もうごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」
自分の所為で、列を滞留させてしまい物を買う邪魔をしてしまう。発達に翻弄されつつ、慣れない事に挑んだ。
「では84円と10円ですね」
最終的には100円になるように調整し、100円切手で最果ての街にいる事を報告する為に金額を費やした。絶対にこの郵便、金額過多だと知ったのは後になってからだった。
 100円購入で、6円の釣り銭を貰う。自分の意を決したコンビニでの切手購入が終了すると、滞留していた列は動き出した。
 きっと通常の労力なら、
「あぁもう面倒な」
で終了するのだが、自分の頑とした気持ちが、慣れない行動に弾みを付けた。
 そして、そのまま葉書にメッセージをしたためる。
 しかし場所に困った中だったので、燦々と太陽が照る中。案内されたバス停の列に並び、必死というのか無理矢理な姿勢で文字を書き綴った。
 辛うじて文字を書き残せた。あとは投函するだけだ。
 あとは宗谷岬でポストを発見して投函するだけなのだが、そもそもあるのかすら気持ちは不安だった。
「このまま忘れんようにせんとなぁ…」
そんな事に思いを巡らせていると、バスがやってきた。いよいよ、日本の先端に向かう時だ。

遂に見る光

 切手を買い、必死になりながらハガキに文字を列の隙間で記していると、バスが入ってきた。
「えぇ、もう来てしまったのか…」
急いで記した葉書。そしてしっかりとそれらを握りしめて、バスに乗車する。
 並んでいた外国人観光客。そして多くの人の中に混ざって、いよいよ目指すは宗谷岬だ。まさかこんなにアタフタして最果ての場所に向かうなんて考えもしなかったのだが。
 バスには多くの観光客が満載の状態…になり、地元。京都で体感する観光ラッシュを彷彿とさすほどに乗客の多く詰まった状態となった。車内には立ち客もいる。
 自分はバスの最後方、最も最後尾の長椅子に座った。それでも限界ギリギリの状態である。公共交通機関を利用して、昼過ぎに宗谷岬に向かう為にはこの手段しかないので、多くの乗客が集うのだ。
 乗客が満載になり、発車時間だ。路線バスは出発する。
 車内は古めかしい都市圏のバスと相応に変わらない車両だった。広告にも相当な年季が入っている。運賃関係に関しては少し手が入っていたりするのだが、自分が車内広告で驚いたのが北海道の土地柄、ファイターズ選手による啓発の広告が入っていた…のは良いのだが、その啓発に起用されている選手が、なんと懐かしのレアードだったのだ。
「おいおい、日ハムのレアードってまた懐かしいよなぁ…」
と、レアードといえば、自分の中では千葉ロッテなのだが北海道で活躍したのはいつ頃までなのだろう。
 もしかすると、現在話題になり。そしてファイターズ直近の強かった時期である栗山監督による、『大谷・中田・近藤』の時代の人なのかもしれない。
「ファイターズの昔がこうして町に残っているの凄いな…」
と脳を空にするような、少し笑いそうになりながら宗谷岬への道に揺られる。
 車窓から見える景色は、太陽の生き生きした陽射し。そして空間の澄み渡るスカッとした空模様も相俟って、開けた道が綺麗に広がっていた。
 途中、樺太が近い事情で海沿いも走行しているのを車窓で見た。薄晴れだった状況は、確実に好天に向かっている。
 しかし、宗谷岬に至るまでのバス車中。下車した客は途中だと殆ど居なかった。バスの乗客は、全員がツアー客のように同一行動を取り、宗谷岬まで乗車しているのである。
「幾つもバス停があっても、こりゃ全開で走れるな…」
走れど走れど、乗客も居なければ降車を申告する客もいないので、走りは軽快に全開な状態を保っている。
 京都の中途半端な爆走状態に慣れていると、稚内のバスの走りは気持ちが良すぎるのだった。
「スカッとした直線主体な車窓も、また気持ち良いんだよなぁ…」
唯一苦言があるのなら、車内が激混みな事かもしれない。それは仕方ないのだが。

 稚内駅からバスに乗車して、一定の時間が過ぎた。少しづつ、海沿いの車窓になり周辺を歩く人も増えてくる。
「次は、宗谷岬、宗谷岬です。」
車内放送が、到着を告げる。
 遂に旭川から宗谷本線を完全乗車し、バスに乗換え。日本の先端、宗谷岬に到達した。
 鉄道中心で旅をしていた今回であり、JR北海道を必死に乗車する事を中心にしていた旅路であったが、この宗谷岬に関しては絶対に訪問しておきたかった。
 事前調べで知っていても、やはりバスを経由しなければ到達できない事には軽く驚いたものだった。まさか本数の少ないバスを手繰るようにして行かなければならないとは。
 バスの降車列は後半だったので車内を見渡す事が出来たのだが、自分達のように宗谷岬への観光客が多く降車してしまうと、車内はもぬけの殻になってしまった。このまま天北方面まで走っていくようだ。
 そして、少年のようにして自分は宗谷岬のシンボル…であるあの場所に向かって走っていた。

宗谷岬

 宗谷岬は、ここでも書いているように。そして周知のようにして、日本最北端にある岬である。そしてこの部分が日本の端…のような場所であり、北海道をデフォルメしても真っ先に目立つ場所だ。
 天気は完全…ではないものの、夏らしい気候で壮大な写真(掲載分)を撮影する事ができた。
 宗谷岬に到着した…というだけで、何かもうこのまま京都に帰っても良いような達成感が支配したのだった。
 外国人観光客や、バスで同乗した観光客に混ざって写真を撮影した。ここまで来ると、もう何か目頭に込み上げるようなものを覚えそうである。
 宗谷岬に到達し、観光客と話をした。道中、音威子府で居合わせた老人の女性とも話をした事だったのだが、
「この天候じゃロシア見えませんよね?」
「コレじゃ無理よ。ロシアは…年に片手で数えるくらいの回数じゃない?」
 以前、何かのツールだったかで台湾に旅行した時の旅行記で、台湾から海を見渡せば、日本の沖縄領に相当する場所まで見えると話を聞いた。その話が、大きく自分を動かしたのかもしれない。
 また、かつてはニュースで北方領土問題が定義された時、根室の方の岬からカメラを徐々に拡大していくと、北方領土が見えた…というのを幼きながらに見た記憶があり、この2つの記憶が作用しているのであった。
 しかし、鉄道の撮影経験がある自分でも、こうした天気の事に関しては
『ガス晴れ』
と用語で中途半端な雲の状態を示しているように、この天候では遠くを見渡すなんて絶対に無理だと観光客との話を終えた段階で思ったのである。

 石碑を少しだけ拡大し、海と共に記録する。
 この雲の湧き方では見渡すのは不可能だ。
 宗谷岬…といえば、自分の中で絶対に忘れられないものがある。
 今は懐かしのテレビ番組なのだが、フジテレビ系列でかつて放送された企画、トリビアの種…より、
『タクシーでお台場から宗谷岬まで行った時、一体いくらかかるのか?』
という企画である。
 この企画、友人と視聴したのだが初手から爆笑で、タクシー会社にアポを一切取らず、何台もお台場のフジテレビ前でタクシーを待機し、何台も何台も
「稚内までお願いします」
と行き先を告げるのだ。しかし尽く、
「稚内なら他の交通手段の方が」
「稚内は無理ですね…」
など、断りの挨拶ばかりで前に進んでいかない。
 しかし、10何台か待ち続けた末にタクシーを確保し、企画が進行。実際に宗谷岬までフェリー経由で進行していくのだが…続き、そして結果に関してはネットの海で。また実際に結果を自分で調査して知ってほしい。
 現代ではご時世上難しいコーナー。そして体当たりにしてはn番煎じ…と企画力では少々劣ったものの、迫力は健在なので是非とも調べていただきたい。オチに関しては記さず、話を先に進行させていく。

 多くの人がこの場所で記念の撮影をしている。この場所での記念撮影は、国籍も関係なくグローバルな儀式だ。外国人観光客も、賑やかな顔を見せ到達の喜びに浸っている。
 自分も記念写真を依頼撮影。
 …で撮影できたのがこの写真だ。依頼では前の写真。そして後方の写真と2つ依頼したのだが、後方で撮影したこの写真のみ保管した。
 前方、前を向いて撮影した写真に関しては母親にLINEで送信したところ、目を瞑っていたのでこちらに変更。最北の場所でも、日差しは煌々と照らしているのだった。自分の中ではこの掲載画像も気に入っているのだがどうにも血管が…(腕の)
 宗谷岬といえば、記念撮影したこの碑である。この碑は、一体何をモデルにしているかご存知だろうか。
 この宗谷岬の碑は、北極星の一部を模った三角錐なのである。
 宗谷岬にこうした石碑が建立されたのは昭和36年が始まりだ。しかし、観光需要の高まり。石碑を見えやすくする為に、昭和63年。20メートル沖合方面に移設された。かつてはこの宗谷岬の石碑も、宗谷岬の緯度に因んで4.53メートルの高さだったのだが、現在の形状はその4.53メートルよりも一回り大きな設計になり変更された。現在の宗谷岬の記念石碑は、2代目なのである。

 宗谷岬の周辺を軽く記した石碑も存在する。
 距離に関しては然程遠くないのだが、もういよいよこの海を隔てた先の陸は、ロシアの領土になってくるのである。
 沖縄の分岐している島からの台湾や、対馬からの韓国…のように、『すぐ近くにして異国を感じる』事はなかったので新鮮な体験だった。本当にこの場所まで到達出来た事が、まず何より旅人して。若者として。そして人生の一部として非常に大きな体験になった。
 そして、この近くに間宮林蔵の記念銅像があったのだが完全に触れるのを忘れており、後に大きな後悔を背負ってしまうのである。
 間宮海峡の名称はこの人物から授かられたと言っても過言ではないのに、なんという失態なのか…
 その横に、また石碑があった。今度は少し変わった石碑のようだ。

最果ての名曲

 宗谷岬に到達し、北極星をイメージした『日本最北端の地』の記念碑を見た後、周辺を周回するとこうした石碑を発見する。
 石碑には五線譜。そして歌詞と音符が記されており、どうやら『歌碑』のようである。海を背景にして、この歌碑も綺麗に光り輝いている。

 この歌碑に記されし楽曲は、『宗谷岬』と書かれていた。
 歌は昭和の一時代を築いた名フォークデュオ。ダ・カーポの歌だ。
「お、歌碑があるんやな…」
最初はそんな感覚で歌碑を眺めていた。
 しかし、右横にある謎のスイッチが気になる。銀色のマシンに据えられた2つの黒いポッチだ。
「取り敢えず、押してみよう…」
 歌碑の横にあるこのスイッチを押すと、美しい旋律に彩られた楽曲が流れてくる。
「津軽海峡にもこんなんなかったか?ネットでしか知らんけどさぁ…」
ほぉ。コレが宗谷岬という楽曲なのか。
 自分の後に、この歌碑に据えられたスイッチを操作した中年夫婦は、
「ダ・カーポ。懐かしいねぇ〜」
と昔を少し振り返るような口調で言葉を残し歌碑を眺め、スイッチを押していた。
 京都に戻り、この宗谷岬…という楽曲に関して調べてみたところ、宗谷岬という楽曲は昭和51年と57年に2回。NHK『みんなのうた』でオンエアされていたようである。

 宗谷岬について歌われた楽曲、宗谷岬。
 アーティストは先述のようにダ・カーポだが、この歌には『長く厳しい風雪に閉ざされ、厳しい環境から解き放たれた最北に訪れた春への歓び』が込められている。
 作詞した吉田弘は巧く日本語を使い、情景を楽曲の中に閉じ込めている。この宗谷岬という楽曲。当初は北海道内だけでの浸透であり、楽曲自体に大きな知名度はなかった。ダ・カーポ以外にも千葉紘子のカバーがあるが、それでも知名度は道内だけに留まったのである。
 作曲、船村徹は宗谷岬への特別な思いを持っており、何度か更に訪問を重ねてこの楽曲制作へのイメージを固めていった。そして作詞の吉田弘に詞を吹き込んでもらい、楽曲が完成したのである。ちなみに宗谷岬…の作詞に携わった吉田弘はこの宗谷岬のある稚内市を拠点に置いて活動していた。
 宗谷岬の楽曲が誕生したのは、昭和49年の事であった。

 歌にありがちな嘘は排除し、地元で語り継がれる歌にしていこう…と、作詞の吉田は考えた。そして宗谷岬の楽曲は、明るく伸びやかな曲調になったのだ。
 そして、昭和49年に誕生した宗谷岬であった…が、この楽曲に転機が訪れたのであった。
 NHK旭川放送局の取材である。NHK旭川放送局の取材はこの時、宗谷地区の周辺取材をしていた。昭和51年の事である。この取材で、NHK旭川放送局は楽曲…宗谷岬に出会った。この楽曲の転換点だ。
 思いがけない?土産となった地元浸透の楽曲を知り、持ち帰ったNHK旭川放送局。NHK旭川放送局は、この歌をNHKで放送する事にした。現在でも我々が視聴している番組、『みんなのうた』に採用して流す事にしたのだ。
 すると、この『みんなのうた』で全国進出を果たした楽曲…宗谷岬がそれまでの道内止まりだった知名度を一気に破ったのである。
 NHKによって、全国進出を果たしたのだ。
 この全国放送が、宗谷岬の楽曲…だけではなく、歌の題材になった宗谷岬自体の知名度も向上させる事になった。それまで単なる『日本最北の場所』だった宗谷岬が観光地になり、一気に多くの人々を呼ぶ場所に成ったのである。
 そして、この写真に映り込むようにして、記念写真の撮影や旅の聖地になり今日の観光地としてのブランドを世に残す事になり、宗谷岬は一躍名だたる場所へと成長した。

 楽曲の歌詞には『ピリカ』というアイヌ語の言葉が挿入されている。歌では3番
『波もピリカの〜』
となる部分だ。
 この『ピリカ』はアイヌ語で『美しい』を意味する言葉である。(名詞との説もあるが本当は)北海道の情景、そして美しい日本語の響きと楽曲の麗しさを引き立てる歌詞だ。
 写真は、宗谷岬の楽曲解説に歌碑の横に置かれた看板である。当日の訪問時の気候に合わせて…ではないが、美しい海に映える写真が撮影できた。
 ちなみに楽曲、宗谷岬のアーティストであるダ・カーポは現在でも活動を継続し、榊原まさとし&広子夫婦…に加え、娘の麻里子氏を加えて3人体制となり、現在も新曲を制作し発表している。家族体制となるのは、数年ぶり近い…との事だ。

 もう少し、この北極星の稜線を表した最北の地を見て回った後に、稚内駅にバスで戻ろうと思う。
 豊富時点では曇っていた天気も、雲が表層を埋めているとはいえ完全な晴れになろうとしていた。
 写真は宗谷岬歌碑と自分の写真。コレに関しては完全にタイマー設定の自撮りであり、撮影には少しの小細工をした。
 撮影後、端末の写真を眺めるとしっかり、日本の最北端に位置情報が刺さっていた。
「ホンマにこんな場所まで来てしまったんやな…」
あとどれだけ、この余韻に浸っておこうか。

この記事が参加している募集

夏の思い出

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?