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鬼と桜と

 一
 
 四谷の飛一
 といえば、このあたりで剣を学ぶ者ならまず知っている。
 輓近、四谷まわりで噂のたねになっている道場破りは、大方この男の仕業である。
彼に破られた門弟たちはみな、口を揃えてこう漏らす。
兎角、強い。
 我流の剣を巧緻に操り、道場剣術からは予測すらつかない一手を、おおよそ人間とは思えない速さにて打つ。はっと覚めれば負けている。時間を与えられねば、一体どこに打たれて敗北を噛んでいるのか、それすらも理解に難い。
 それだけではない。四谷の飛一が人々の耳目を吸って歩くのは、もうひとつわけがある。
 その男、剣術に足をかける人間にしては、驚くほど小作りなのである。
 背丈などは周囲の同年輩の誰よりも無く、対面で披露する膂力からは考えられぬほど痩せぎすのからだでふらりと歩いている。その神妙さすら持ち合わせる異体の様相が町の関心を攫ってゆくのだ。
「おい、今朝も負けなしの四谷が出たってよう」
「ああ、あの鬼の子かえ。地獄に連れてゆく野郎を探しなすってるってな」
「怖えなあ。次はどこにでるのやら」
 しかし、当の本人はそれをよく思わない。
 素振りに励むため庭へ出ると、嫌でも門外の噂の声が耳朶を揺らす。飛一は小さなため息に空気を白くした。今朝は冷える。
 生まれつき細身で上背がないことが、少年時代の悩みであった。書肆の三男で何の足枷も持たない飛一少年は、年頃に覚えた喧嘩にもその小柄のために何度も転ばされた。そんな時分に運よく剣術に出会い、自分を転ばして嗤った者達を見下ろすため、ただひたすらに剣を握り続け、気が付けば齢は二十を越した。
 それだけのことであった。
 初めて木刀を握ったその日より、飛一にとって剣術は、何時も自らの瑕疵を埋めるのみの手段に変わりなく、負けなし、や、鬼の子、などと称されるような大仰な人物であるはずもない。
 飛一はそれらの名を聞く度に、腕が重くなったような感覚を覚る。そして玉響、本当の刹那、思うのだ。
(振りたくない)
 しかしその思いはすぐに形を潜める。無意識な所思に、ぞっとする。
 飛一はすっかり手の形を覚えた木刀を振る。心中からにじみ出る亡羊の類が小さな体躯に広がらないためである。
 一心に振るうちに、ほとんど夢現のような心持になった。
「精が出るねえ。我が弟子ながら、感心、感心」
 見知った声。我に返る。体感よりは長く時が経っていた。
 手を止めて声に向くと、うすら笑いを浮かべた男が縁側に胡坐を乗せている。佐々木弥兵衛。飛一の剣術の師にある。
「やっさん。帰ったのかえ」
「おう。今日は出迎えがねえから寂しかったぜ」
「したことねえや」
 ひとつ、くしゃみが飛一から飛び出した。歳暮の凛冽に汗が体温を下げる。
弥兵衛が飛一を室内へと促し、師弟はそろって畳を踏む。障子を閉めれば、寒さも僅かにやわらいだ。
「そういや飛一よ、外はまたおめえさんの道場破りで盛り上がってるぜ」
 火鉢に炭を継ぐ弥兵衛が、本心の嗅げないうすら笑いでそう話す。飛一は黙ったままに、その左手の火箸を見つめた。
 道場破りを飛一に勧めたのは、ほかでもないこの弥兵衛である。一途に力を欲すのみ、またそれを試すのみ。そう教える弥兵衛は、一年ほど前から、飛一の力を道場にて試させている。
「おいどうした。しけた面だな」
 飛一自身はその世評に良い心証を持たないのだから、当然である。
「やっさんよう」
「なんでえ」
 飛一は火箸に視線を落としたまま、心に巣を作りはじめた気の迷いを吐き出そうと努力した。
「いや、なんでもねえや」
 しかし、言葉が浮かばない。この情意を、恰好を崩さぬまま師匠へ伝えられる文字の並べ方を、飛一は知らなかった。
「なんだよう」
 弥兵衛は訝しげに飛一へ意識をやった。そして暫時、以降口を開こうともしない弟子の姿を見つめていたが、不意に火箸を乱暴に置いた。
「そうでえ、飛一。ちょいとおめえに頼みたいことがある」
「え」
 火鉢に暖を取っていた飛一が、頓に発されたせりふに顔を上げる。
「ああ。おめえにぴったりな役儀だぜ」
 瞬きを繰り返すその丸い瞳には、相変わらずのうすら笑いが映っていた。
 
 
   二
 
 四谷からしばらく歩いて賑わいに出ると、往来に面した建物の中でもひと際目立つものがある。初見にそれを前にする人間は無論、ぐるりに住まう者までも、その近間をゆけばこそりと囁き合うほどの立派な屋敷。村上邸と呼ばれる。
主はこの国の歌舞伎界を背負って立つ高名な女形役者、村上菊座衛門。そして、菊座衛門を父に持つ双竜の若い役者である。
そのふたりの若い息子が、肩を並べて帰路を来た。
「助比古よう、おめえは何を食っちゃあそんなにうまくできんだよう」
「やだねえ信さん、今日叱られたことまだ気にしてるのかい。しゃんとしな、二代目菊座衛門がそんな弱気じゃ恰好がつかないよ」
 白昼になれど尚も下界を暖めない日輪の下、助比古と信之助はそう交わしながら、森厳ともいえる屋敷の門をくぐる。慣れた木の香気が二人を抱擁する。
 幼い子供の時分より共に歌舞伎街道を邁進してきた二人であったが、遂に先日信之助が菊座衛門の名を襲うことが決まった。良き源平といえる兄弟の角逐は一先ず区切りを迎えたものの、二人の選んだ芸能に対する熱き眼光は燃え盛るばかりである。稽古に精励するその気迫、最早特異とも取れた。
 上がり框を踏み、梅の蕾が宿る庭を眺めながら廊下を少しばかり行ったところで、腰元が二人を呼び止める。何事かと振り返れば、父である菊座衛門からの言伝を耳にした。
 来客あり、奥の座敷に来るように。
 兄弟は面妖な面持ちを突き合せた。呼びつけは希有ではない。しかし来客はざらではない。
「失礼します。助比古と信之助にございます」
「入れ」
 女形を得意とする助比古が嫋やかな手付きで襖を開くと、その間隙から姿を覗かせたのは菊座衛門と二人の男であった。
 信之助は目線だけでちらと助比古を見遣る。助比古は彼を見なかったが、その相好のみで信之助は理解できた。どちらも知らぬ顔である。
 菊座衛門の紹介を受け、兄弟が頭を下げると、些か歳を重ねた方の男がうすら笑いを張り付けながら彼らに向き直った。これほどまでに蓮っ葉な庶民が村上邸に足を踏み入れるのは前代未聞のことである。
「おお。これはこれは。どうも、佐々木弥兵衛と言いやす。こいつあ飛一。おれの弟子でえ」
 弥兵衛と名乗る男が隣席の背中を叩くと、若い男はからくりの如く一礼した。
 助比古と信之助には話が読めない。風貌や話し方からしておおよそこの屋敷に出入りできるような高い身分の人物とは感じられないが、菊座衛門との繋がりも知れない。
 心中で小首を傾げていると、
「用心棒である」
 と、菊座衛門の厳な声が話した。
「近頃ここらも物騒になった。お前たちももはや普遍ではない。彼は腕が立つ。外出は共にするように」
 父の発言に、息子たちは再度顔を見合わせた。本格的に歌舞伎役者としてその舞台に乗ってから数年、二人の人気が鰻上りにあるのは確と相違ない。付近に道場破りが出るという噂も少しばかり耳にしたが、これほどまでの対応を与えられるのは慮外であった。
「飛一がしばらく厄介になりやす。二代目達たあ歳も近えもんで、よろしく頼まあ」
「えっ」
 微音の出処は信之助にあり。八つの瞳が彼を掴む。
「どうしたんだい、信さん」
「い、いやあ、驚いちまってよう。俺ァてっきりそっちの弥兵衛さんの方が用心棒だとばかり」
 弥兵衛の弧がいっそう深くなった。
「まあ安心しなあ、二代目。飛一はこんな小せえがわざは絶倫よ。それに、俺と違って生地の堅気、世間を知らねえ坊ちゃんどもにはうってつけだろな」
 同じ江戸に暮らす者でも、村上邸に生きる信之助にはこの四谷の町人の言葉の半分もわからない。ただ、菊座衛門の炯眼に、「こりゃあ失礼」とくすんだ歯を見せる様には下作な心証を禁じ得なかった。
 このように、邂逅は弥兵衛の荒さに押された。
 しかしその師匠の破天荒っぷりに最も疲労したのはほかでもない、用心棒の肩書をもらう飛一である。
 弥兵衛からの「頼みたいこと」がまさか明星の役者達の護衛であるとは逆賭し難かった。あの会話から三日ほど経っている。仔細もそこそこに飛一を連れ出したと思えば、町人にはとても縁のない屋敷へずかずかと入り込み、用心棒の役儀を押し当ててひとり去ってゆく弥兵衛には、長らくその弟子に位置する飛一さえ辟易してしまった。
 剣士にとって命取りとなる迷いを有していることを弥兵衛に伝えないままでいたのは飛一だが、これではあまりに不安が募る。
 その上、飛一にはまだ心配事がある。
(豪勢な家でえ)
 そこは、小さな書肆の実家と弥兵衛の住む家作のほかに就床したためしのない飛一には、あまりに格式の張る宿であった。
 士農工商に保証されていないとはいえ、人中は歌舞伎の役者をまごうことなき上手の人間に見る。
 飛一は彼らに対する挙止を心得ない。しかし、師弟共々失礼な振る舞いのままに帰るわけにはいかなかった。
 如何したものか。
 一端の町人の息子にはそぐわない小綺麗な室で、若き用心棒は憂いの顔を天井に向けた。
 
 
   三
 
 はじめの七日ほどが長かった。
 邸内の飛一は客人のもてなしを受けたが、慣れないために弱った。膳が運ばれてくることに何か新鮮な気持ちすら抱く。弥兵衛の弟子になってこちら、二人分の飯を用意するのが仕事の一つだったのだ。
 しかし存外、用心棒の方は苦もなかった。
 剣の世界には四谷の飛一として顔が知れている分、悪党顔は飛一を避けるために、重い腕を振らねばならない場面は出来上がらなかった。むろん、聞こえに疎い助比古や信之助には覚られない。
 そうして彼らと共に過ごすにつれ、人見知りの気がある飛一も次第に馴染んできた。
「おうい、飛一。出かけんだ、ついてきてくれな」
 広壮な邸内の美妙な庭を散策していると、信之助が廊下の手摺から身を乗り出して飛一を呼ぶ。助比古も、信之助も飛一とは違って如才ない。同じくらいの年歯ということもあり、彼らはまるで友人のように飛一へ語り掛けた。
 街へ出れば、うら若い女性たちが役者を見ては囁き合う。
 喧嘩っ早そうなのは、飛一を一瞥し身を隠す。
 その最中を、三人並んで行くのも随分慣れた眺めと化してきた。
「飛一さんはさ、毎日どれくらい稽古しなきゃならないんだい」
 助比古が不図そんなことを聞いた。
「これだけやれたあ決まってやせんぜ。好きな時に好きなだけ。別にやらなくたってえ誰も叱りやしねえもんで」
 剣術を始めたばかりの頃から、武家の子どもでないからか、弥兵衛は何かを飛一に強要することはなかった。ただ飛一が稽古をつけてくれと言えば、般若の如き顔を容赦なく彼に見せる。
 周囲に瞳を走らせつつそう話すと、視界の端に二人の吃驚がうつった。
 飛一はさらに続ける。
「もっと言いやあ、剣術を捨てたって良いわけで、突然江戸を離れて担ぎ屋になったって誰も文句は言わねえや」
 冗談交じりのうすら笑いは師匠譲りであるが、彼ほど品格に欠けていない。
「すげえなぁ」
 しばらく黙っていた信之助がぽつりと呟いた。
「おれはまだ飛一の剣を見たことねぇけどよう、きっと誰よりも強ェんだろうなァ。そんな気がすらァ」
 信之助の声の色には、純然たる仰望や称揚のほか、ほんの僅かな間隙を埋めるように羨望が覗いている。
「そうだねぇ信さん。アタシもそう思うよ」
 同調する助比古の双眸の奥にも、同じようなものが揺らいでいるのを、飛一は見た。
 歌舞伎の世界がその華やかな辺幅とは裏腹に苛烈なものであるらしいということは、飛一も二人の青年からよく聞いた。現実と乖離した独自の構成を持つ彼らの国で生きるからこそ、助比古も信之助も飛一の話を臥所の子のように知りたがる。そこには何時も、外界への飽くなき好奇心とそこに生きる飛一が持つ自由や単純な強さへの無意識的な羨望が溢れていた。
(そんなに良いものか)
 そんな二人を感じる度、飛一は思う。
 そして、一つの光景を瞼の裏に起こすのである。
 飛一が村上邸に室を与えられて、最初の深更であった。夜の魑魅魍魎に眠気をすっかり食べられて、逍遥を貪ろうかとふらふら廊下を踏んだ時、奥の一室から明かりが漏れていることに気が付いた。
 そっと中を窺うと、どさり、と女が倒れこむ瞬間に出くわした。襖を開け放つ、すんでの刹那、芝居のひとつだと覚る。
 しかし目を凝らせば、女と見たのは昼間に紹介された息子の一人、女形の腕利きと名高い助比古である。傍では二代目村上菊座衛門、信之助が彼の芝居へ瞬きひとつせず眼光を送っていた。
 こんな夜半まで輿望を食い物にする人は大変だと、飛一はひとつ欠伸を落としてそこを去る。やはり眠ることにして、再び布団に潜り込む。目を閉じる。
 消えない。
 助比古の女と見紛うあの姿容。所作。何もかも、今まで目にしたどの女よりも美しかった。優美であり、鮮麗であり、婉然であった。
(そうか。あれが)
 烈烈とした衝撃。飛一は初めて歌舞伎を知った。
 かの美しさを生み出せる者など、海を越えてもそうそう見つからないだろう。そこはまるで天女の暮らす湖であり、飛一の生きる力と欲に塗れた俗世とは世界が違う。飛一のような穢土の人間が彼らの国を仰ぎ見ることはあれど、薄く透き通った羽衣を纏う神の使者が汚れた下界を羨む理由など無に等しいのである。
 下界の飛一にはわからない。誰かを転ばす剣の腕も、天命に導かれない自由も、彼らの持つ清純な白に勝るとは到底思えなかった。
 
 
   四
 
「用心棒なんざ、おれにゃあ向かねぇよ」
 飛一が幾つかの道場を遺憾なく破り、その名が世間口に上がり始めた頃、弥兵衛は昔馴染みの男から村上座護衛の件を頼まれた。
 どういう因果か、その男は魚屋のくせに菊座衛門と顔見知りらしい。にわかに信じ難いが、嘘は吐かない男である。
「兄弟よ、頼まれてくんな。近頃道場なんか破る荒ぇのが出るそうじゃねぇか。若ぇの達が襲われちゃあ可哀そうだ」
「おい、悪ぃがよう、その荒ぇの育ててんのがこのおれなんでい。それにおいら金持ちの子はきれえでな。他を当りなあ」
 突き放すような物言いをした。
 悪い男ではない。あらあらの所願なら叶えてやりたいと思うほどには気に入っていたが、この度の子供のお守など弥兵衛は御免である。
 然しその晩。弥兵衛は一度蹴ったその頼みを受けさせてくれと頭を下げることになる。飛一の煮え切らない不安を目の当たりにしたその夜であった。
 飛一の師としての弥兵衛を統べる情意は、不甲斐なさに尽きる。
 剣術の才に合わせて努力の才をも生まれながらに持ち合わせた飛一へ、侍でも道場の門弟でもない、ただの町人である弥兵衛が与えられるものなどもはや何も無かった。元来、弥兵衛が飛一に与えたものなど雀の涙にも満たない。多くは飛一が持ち前の才を以てして勝手に身に着けたものなのだ。
 自分以上に不甲斐ない師匠などいるまい。常々そう考えてきた。
 だからこそ、彼の中に潜む煩悶を取り除いてやらねばならない。それが、大尾を迎えんとしている師の役から最後に与うべきものであった。
「何のために剣を振るうのか、見つけさせてやりてぇんでさ。だが、白い紙の上の白はわかりづれぇ。あいつを違う色の紙の上においてやらねぇと、いつまでも自分が見えねぇままだ」
 何気なく紡いだ文字に、菊座衛門は大きく頷く。
「我が息子達にも同じことが言えよう。道は違えど、私と貴殿の師の気持ちに相違はない。互いの影響は良い転化になろう」
 弥兵衛は柔らかく目を細めた。
 佐々木弥兵衛は何も持っていない。
 妻も子も、他に胸を張れるような得意も、何も無い。
 だが、飛一がいる。それが弥兵衛の持つたった一つの自慢である。
 その愛弟子の為に自分がしてやれる最善がこれだと信じた。
(貰ってたのはおれの方ってかい)
 飛一のいない家作は、広い。
 
 
   五
 
 また、十と少し、日を巡った。いよいよ初春がすぐそこにまで迫ってきている。
「飛一もすっかりうちに馴染んだねぇ」
 薄暮の師走の風に騒ぐ通りを、今日は助比古とふたり歩いていた。飛一は何時もと変わらずそれとなく周囲を確認しつつそっと微笑む。
 彼らは優しい。さらなる上に、まるで環境の違う場所に育った飛一との交流を有意義に思っている。君と出会ったおかげで芝居に幅が出た、と先日直々に感謝を述べた菊座衛門の微笑を眼瞼の裏に描く。そんな風に人の役に立つのは初めてであった。
 僅かな使いを終えて、助比古と飛一は寄り道がてら通りの果ての丘陵まで進んだ。寒さが堪えるが、眺望が好きである。
「アタシ、やっぱり飛一が羨ましいよ」
 助比古の発するのは何時も唐突である。飛一は些か目を見開いた。やっぱり、という表現は僅かな矛盾、助比古が飛一のことを羨ましいと口にするのはこれが一度目だ。
「……村上座のご子息がおれなんかに負けてるところなんかひとつもねえや」
 むろん、飛一はそう答える。その気持ちは永久にすら感ぜられた。
「そんなことないさ。信さんもアタシも、あんたのことずっと尊敬してるよ」
 飛一は少しばかり口唇を開いて、すぐに閉じた。助比古から溢れる言葉のその先に耳を委ねたい。
「アタシ、歌舞伎が好きなんだ。初めて舞台の上で父上を見た時からずっと。死ぬその瞬間まで芝居してさ、花弁がひらひら散っていくように、板の上で死にたいのさ」
 助比古はくすくすと肩を竦める。彼にかかれば、その仕草すらも美しさを秘める。
「でも、芸術ってのはそれこそ花みたいで、美しいけど脆いんだよ。今はまだ、平和な江戸だからアタシ達は好きにやってられる。だけど近頃その雲行きも怪しいそうじゃないか。もし戦になれば、歌舞伎も、ほかの芸術もたちまちだめになっちまう」
 世は動乱とまでは行かずとも、嵐の前の静けさに似た粛を保っていた。二百年続いた徳川幕府も一代先まで続くか知れない。方々では尊王攘夷の下馬評が渦巻き、いよいよ血生臭さが漂い始めている。
 飛一も知っていた。戦になれば人々は心神のゆとりを失う。悠々閑々とした民の閑日月を埋める娯楽以上の役割を与えられない芸術全般にとってそれは死生に関わる重大な事案であった。助比古は、そのことを思慮しているのだ。
「その時に、アタシは大好きな歌舞伎や、父上や、信さんを守るために一体何ができるってんだい。大切なものを守るための力を、アタシもってやしないんだ。懸命に稽古したって、どれだけ美しい女形だと囃し立てられたって、大好きなものを守る術なんて一つも知らないのさ。でも、飛一は違う」
 助比古は玉響、その瞳に哀しい色を映し出した。しかしすぐに満開の桜の如く破顔する。
「なんて、おかしなこと言っちまったねぇ。飛一とアタシは生きてる世界が違うから、こんなこと考えても仕方ないって思うんだけど、あんたを見てるとどうしても考えちまうのさ」
 飛一はしばらく閉口していた。一心に芝居へ向き合う助比古の心意気が、あまりに眩い。
 
(彼らの剣になりたい)
 
 覚えず、そんなこころを噛み締めていた。
 助比古や信之助が飛一を評価するのは、飛一が剣術という目に見える強さを有しているからである。それは評価され易い。然し、方向は違えど、彼らも十分に力を持っている。飛一はそのことを理解していた。
 ただ、それでも彼らが飛一を逸物と、剣豪と評するならば。
 助比古や信之助、そして彼らが大切だと思うものを守るための力となる。
 二人の瞳に二度と哀しい色が宿らぬように、命が尽きるまで剣を振るう。
 それほどに強いこころが生まれた。飛一の心身は、矢庭に守護の二文字に支配された。
「おれが守りやす」
 足下の木の葉が風に舞い上がった。助比古が飛一を見る。
「誓いやしょう。おれのこの剣で守れるなら、あんたも、信之助も、あんたらの大切なものも、全部、時代の流れから守り切ってみせやしょう」
 飛一は助比古と視線を合わせたまま百合の如く微笑して、腰の木刀を握った。そのままするりと抜く。
 腕は重くない。悪魔のような嫌悪の騒めきも無い。ただ薄い風の音が耳を滑るばかりであった。
「飛一……」
 落ち葉が再び蠢く。飛一が刀を土に突き立てた音。そして、飛一が助比古の前に膝をついた音である。
「その言葉、嘘じゃないね。ずっとアタシたちの傍で、守ってくれるんだね」
「ああ。おれは約束は破らねぇ男だ」
 その台詞はいやに芝居くさく回された。二人して吹き出す。風の音に、笑声が混じって流れてゆく。
 助比古が地に立つ木刀にそっと触れた。
「守る剣、なんだねぇ」
 
「そういや、あの鬼の子はどうした。近頃見ねぇなあ」
「地獄に帰ったんじゃあねえのかい」
「そりゃめでてぇ」
 ふらりふらりと草履の裏で土を擦りながら、弥兵衛は通りすがりの会話を耳に挟んだ。
「鬼が守る剣を振るかえ……」
 薄ら笑いが描く弧は、寒月の弓なりによく似ていた。

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