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寂春(しじま)

 その年は、前年の秋彼岸を過ぎたあたりから疫病が流行りだして、春を迎える頃には京もすっかり人が減ってしまった。労咳の如き空咳、ほんの僅かな発熱を伴ってしまえば、十と日が経たぬうちにみなコロリと息絶えて、まちは道の端に河原に、忽ち綺麗な死体が積みあがる事態となった。往来をゆけば誰となくその病にかかると見えて昨今、健やかなものまでみな戸を閉め切って畳に座り込めば、花見もなく、歌舞伎もなく、世上は恐ろしいまでに静まり返って異様であった。
 そうして閑古鳥さえ逃げ出した通りを、或る男が歩んでいる。草履の裏と砂の粒が擦れ合う音が無人の通りをより寂しくする。
「えれえことだなあ、こりゃあ」
 呟いた。訛、江戸。大小が歩に合わせて揺れた。江戸出の武士。名を、濱口飛一といった。
 通りから見下ろす加茂川を挟むように並ぶ桜の木はもう大方薄桃色を咲かせて、春の到来。然し例年ならば見物に騒がしい此処も、はやり病におかされて物言わぬ肉体の集まる場所と堕ちた。
 飛一は成る丈その骸に目を落とさぬよう遠慮がちに花開く優美を懸命に愛でつつ、三条の橋へと差し掛かる。むろん、賑わいはない。風の音のみが鮮明に耳朶を揺らす。狐の幻惑疑わしき、ふだんの京からは考えられぬ風景がそこにあった。
 それから暫時桜とふたり歩いた飛一は、不図、正面から近づいてくる人の陰に気が付いた。飛一と同じく、腰に差すものは立派である。小作りな飛一に比べると、わずかに背が高い。
 が、痩せている。
 見覚えがあった。飛一はすぐにその人物を覚った。
「飛一さん」
 然し、相手の方はもうずっと先から飛一を知っていたようである。新緑の如き清爽な声の色が視界の薄桃と混じる、美妙。春がよく似合う男である。その身が放つ清々しさは、悪疫の気配すら感じさせない。
 飛一、何故だか安堵を覚って、
「沖田さんじゃありやせんか。いかがなすって?」
 と、如才なく答えた。
 対面からゆるやかに歩を進める男、沖田総司にある。京では剣豪としてその名を轟かす武士がひとり、穏健な面皮の奥に豺狼の牙を隠す若侍。
「散歩ですよ。こんなに暖かいのに、外に出ないなんて勿体ないでしょう」
 が然し、剣を抜かねば底の無い好青年である。微笑を湛え人懐こく話す姿は、まるで童の如き様相なのだ。人斬りとはゆめにも思わぬほどに。
 飛一が些か刻み足で沖田の隣にならぶと、ふたりの武士はしぜん、欄干に手をかけて桜を見た。
「飛一さんも、散歩ですか」
「いや、おれぁ、団子でもとこちらの方までぶらりと来やしたが、どこも暖簾を下ろしていやがるんでさ。それで、花より団子というわけにもいかねえで、ここまで」
「おや、それはたいへんだ。しかしこの様子じゃあ、開けていても客なんぞ来ないんでしょうね」
 飛一も沖田も、ともに新撰組にて剣を振るう同士である。たとえはやり病の蔓延るまちとはいえ、治安維持を休むわけにもいくまい。彼らにとっては日常の最中、まちだけがしおれた花のようになってしまったような感覚でいる。
「しかし、疫病というのは困りますね。桜はこんなに綺麗なのに、なんだか寂しいなあ」
 人の声が除かれた橋の上では、川の流れる音、鶯の鳴く音、草花の揺れる音、すべてが喧しいほどにはっきりと聞くことが出来る。それは美しい自然の声に相違ないが、矢張り、飛一にも、沖田にも、どこかもの悲しく感ぜられるのであった。
「どのくれえ人が死にゃあ、御帰りなすってくれるんですかねえ」
 哀愁。病魔の祓い方なんぞ、刀を握る男たちにわかるはずもなく。ふたりのため息を、ぬるい春風が巻き上げて消えた。
「そうだ、飛一さん」
 沖田が、何時もの如く生彩なようすで呼びかけた。飛一の眼下へ向いていた視線がたちまち沖田をとらえる。
「なんでえ」
「僕、歩きながら句を考えていたので、聞いてください」
「へえ」
 と言いながら、その突拍子の無い言にこの青年の異端具合を確認した。そして人知れず、剣を究る天才はこれほど型破りでなければならぬのかもしれない、などと思った。
「春惜しむ 路傍に屍 積み果てつ 花より儚む 人の代かな。どうです?」
「どうもこうもねえや」
飛一にぴしゃりと伏せられて、沖田が玩具を奪われた童子のように口を尖らせる。
「そんななまぐせえの、風雅なんてあったもんじゃねえですぜ」
 この世に良しとされている雅致とはまるでかけ離れたもののふの句に、飛一は思わず笑みを漏らしながら言った。ただ、彼の言わんとすことは真に見えて、その部分には共感する、と付け足せば、沖田は飛一につられてくすくす笑った。
 ふたりは暫らく桜を見ていた。その間、誰も橋を通らなかった。

 その夜である。夜闇での暗殺剣を生業とする飛一が、この日も人を斬りに来た。
 これほど日々新たな死体が増えていれば、人斬りも大層安易、三条河原などで斬れれば僥倖、そのあたりにごろりと蹴飛ばしておけば良いのだから、その点においては、疫病様様である。
 この閑散に乗じて何やら働こうとしている薩摩の男を音もなく斬り伏せれば、三日月の仄かな明かりが河原を照らす。おびただしい数の死体に囲まれて、飛一はただひとり、この世でただひとり、生きていた。
 桜を愛でる感傷は今の飛一には無い。花鳥風月、風流な景色を覚ることもせず死体を転がす。
 玉響、春風。強い風が飛一を、葦を、死体を撫ぜて抜けた。あまりに一瞬のことであった。
 しかし、その一瞬の後、飛一の双眸から涙がこぼれて他に一雫の色を落とした。
 見たのだ。
 この強い風にも桜の花が一輪も落とされぬ様を。骸に囲まれた木の、そのうえに、桜の生命を、垣間見たのだ。
(あんなに薄く可憐な花びらでさえ、こうして強く生きているのに。)
 それは哀愁の涙、どこまでも、ふかい悲しみを湛えていた。

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