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特急・古代への旅  6

その6 出雲の秘密に迫る

日本の古代は謎に満ちている。
私たちの日本の成り立ちと始まりはどのようなものだったのか。
その謎を解き明かす旅へ出発する。
東京駅9番線21時50分発、最後の寝台特急「サンライズ出雲・瀬戸」で、
私たちはまず出雲へ向かった。
その第6話である。

熊野大社
出雲国一の宮は出雲大社だ、と誰でも当然思うが、何とそうではない。
熊野大社なのだ。
現在は、ともに一の宮とされているが、出雲大社の謎を解く鍵もここにありそうだ。
古代出雲を司った意宇の王は、前述のように元来、熊野の神を祀っていた。
クマとは神のことだ。紀伊の熊野から全国に広まった熊野神社のルーツはここにある。
神魂神社や八雲立つ風土記の丘のある大庭から、意宇川沿いに20キロ山へ入った所に熊野大社は鎮座する。
熊成峯と呼ばれた熊野山を祀ったのが始りで、いまは天狗山と呼ばれる熊野山は、意宇川の水源である。この山には古代祭祀の巨大な磐座があり、天宮が訛って天狗になったのであろうと社記は書く。
祭神は神夫呂伎櫛御食熊野主神(かむろぎくしみけくまのおおかみ)。その名から、水や食物の豊穣を祈る神だったのだろう。
意宇の王や人々が斎き祭った、「出雲の国つ神」なのである。
現在の社伝には、主祭神は「加夫呂伎熊野大神櫛御気野命と称える素戔嗚尊」として、スサノオとなっている。
熊野大社は雪深い山奥にあったが故に、国造館に近い大庭に遥拝所が作られ、神魂神社となった。
7~8世紀、正史として記紀に出雲神話が大きく取り上げられた。
しかしそれは、出雲の人々が語り伝えてきた伝承とは大きく異なる内容であった、と門脇偵二氏や鳥越憲三郎氏は指摘する。
日本書紀の編纂には大氏の太安万侶など出雲西部出自の人々が深く関わっている。神代紀に出雲神話が多く採用された所以である。
正史として脚色された中央のイデオロギーに、もはや逆らうことはできない。出雲の人々は生きるために、忖度し記紀の記述に見合う対応をとっていったのだろう。
そしてかろうじて出雲国風土記に、自らの伝承の一部を書き残した。それが国引き神話であり、天下造大神・オオナムチの世界などだ。
出雲東部の意宇の王は、出雲振根に象徴される出雲西部の勢力が大和によって衰えたことで、出雲全体に勢力を伸ばした、と井上光貞氏kは考察する。
そしてのちに記紀の記述に沿って、神門臣氏らが祀ったキツキ神の地に大社を築いて移っていった。杵築大社(出雲大社)である。
意宇王は大和政権の意向によって、国造から郡司へ、そして出雲の神を祀る祭主家となった。現在も連綿と続く出雲大社の宮司である千家・北島家である。
国造家は出雲の人々に、親しく「こくそうさん」と呼ばれている。
出雲の国造は、代が替わるごとに「出雲国造神賀詞(かむよごと)」を朝廷に奏上する。
出雲以外の他の国にはない、特別な儀式である。
新出雲国造は、一年の潔斎ののち大和に向かい、出雲の神々が帝を護るとする神賀詞を奏上する。服属儀礼であるとともに、出雲の特別な立場を象徴する儀式である。
そして古式新嘗祭や亀太夫神事など、出雲大社・神魂神社・熊野大社の3社の関係をあらわす神事が今も行われ、それが出雲の歴史の秘密と実相を物語っている。
 
出雲大社の「火継ぎ」は、宮司である出雲国造が代替わりする時に行われる儀式だ。ここにも古式新嘗祭と同じく、出雲の秘密がこめられている。
代々、国造を継ぐ際には、熊野大社の火燧臼と火燧杵で「神火相続」の儀を行い、国造邸内の斎火殿に終生その神火を保存して潔斎するという。
古くは、国造みずから意宇の熊野大社に参向して執り行った。
しかし、困難な山道と積雪などのために、のちに前出の神魂神社で行うこととなった。
出雲国造の祖とされた天穂日命(アメノホヒノミコト)が、大国主神の宮、つまり出雲大社の神司になった時、熊野大神櫛御気野命(クシミケヌノミコト)から火燧臼・杵を授かったという由緒による。
熊野社伝にも、「出雲大社宮司の襲職は、当社から火燧臼、火燧杵の神器を拝戴する事によってはじまるのが、古来からの慣として奉仕されている」とある。
その祭りが今も連綿として続く。日本はなんと長く深い歴史資産を大切にもつ、奥深い風土なのだろうか。

田和山遺跡
松江市の南3キロ、松江市民病院を囲むように「田和山遺跡」がある。
宍道湖や大山を望む丘の上に、三重の環濠が重なっている特異な遺跡である。
多数の石鏃や投石が出土し、環濠は住居を守るのでなく、山頂の何かを守っている。
その山頂には物見やぐらや、九本の柱の建物跡が発見されている。
九本の柱、それは大社造りを想い起こさせる。
田和山遺跡は、出雲大社につながる大社造りの原初であったのではないか、古代出雲の人々が守ろうとしたのは、山頂に降りた神の祭祀の場ではないか、とする見解がある(田和山遺跡整備検討委員会資料)。
弥生前期から、山上で農耕祭祀を行ったか、山頂の倉に最も大事なものをしまってあったのか、謎である。
しかし弥生中期の終わり、突如、この田和山環濠は廃絶する。
それは、荒神谷遺跡や加岩倉遺跡で銅剣・銅鐸が大量に埋納された時期と重なる。
出雲で弥生前期から中期まで続いた青銅器祭祀社会が幕を閉じる。
弥生中期末のこの頃から、隣の鳥取県の妻木晩田遺跡では弥生期最大といわれる集落が作られ始める。
そして後期には、出雲を中心とする独特の四隅突出型墳丘墓が大型化し、墳墓祭祀に変わってゆく。出雲で何かが大きく変わった時期だ。
「国引き」や「国譲り」という言葉が自然に思い出される。
田和山は古代史の転換点を示す標識地かもしれない。
 
田和山遺跡は、松江市民病院建設で破壊されるところを、保存を求める市民運動が巻き起こって生き残った。女性を中心とする保存の声が新市長に届き、病院建設と保存の両立が決まって、国の史跡となった。現代の遺跡保存の好例である。
「出雲の栄光を消していいのですか」と、佐原真氏(初代国立歴史民俗博物館長)などが論陣を張った。そのころ「八雲風土記の丘」のガイドの方に教えられて、たまたま現地に伺った筆者も、保存を訴える投稿を新聞に送り、朝日新聞大阪版に掲載された思い出がある。
いま現地には史跡公園ができている。

出雲の秘密が朧げながら見えてきた。
出雲の謎は果てしなく深いが、次回でひとまず出雲を締めくくり、
古代の日本の成り立ちを追って、
我々の旅は、さらに西へと進もう。


 


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