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アショーカ王の亡霊 "今"と"過去"をつなぐ世界史(7) 前400年〜前200年

インドの国会議事堂で、何が起きているのか?


 今年2023年、インドの国会議事堂「サンサド・バヴァン」が改修された。そこで物議を醸したのが、モディ首相のお披露目した、ある壁画である。

インドの議事堂(Photo from Wikimedia Commons.)


壁画の名は「アカンド・バーラト」、英語ではUnbroken India、「分裂されていないインド」である(★1)。


式典に参加したモディ首相と新壁画


 モディ首相はBJP(インド人民党)出身で、ヒンドゥー教中心のインドを建設することに熱心だ。イスラーム教徒とイギリスの侵入する前のインドこそ、本当のインドである、というのが基本的な考え方である。

 しかし、そもそも「ヒンドゥー教」という宗教が、インドにもともとあったわけではない。近代的な宗教学の観点から、植民地期のイギリスがインドの土着の諸信仰を「ヒンドゥー教」という概念で整理した。それが現在ヒンドゥー教としてひとくくりに呼ばれているにすぎない。

 つまり、前近代のインドの宗教のあり方は、もっとごった煮の状態であって、ヒンドゥー教とそれ以外の宗教というような境界線も、もっと曖昧なものだった。



仏教をひろめたアショーカ王


 インドの歴史はわかりにくい。各地方にさまざまな王朝が立ち並び、全体を把握するのはなかなか難しい。それもそのはず、ヨーロッパと肩を並べるほどの広さに、起伏に富んだ地形や、多種多様の気候が分布している。民族も言語もちがって当然だ。

 そんなインドをかつて統一していたのが、マウリヤ朝(前322年頃〜紀元前185年頃)だ。アレクサンドロス大王がインダス川を渡って攻め込んできたときに、チャンドラグプタが勇敢に戦い、そのまま彼が王になった。その子ビンドゥサーラはデカン高原を制圧し、そのまた息子のアショーカ王(前268年頃〜前232年頃)が、南インドのほうまでを支配した。

 その過程でアショーカは、戦争でたおれた人々を目の当たりにし、仏教に帰依するようになったのだという。下の地図中のカリンガ征服が、そのきっかけだったといわれる。

マウリヤ朝の領域(Photo from Wikimedia Commons.)

 武力による征服をあらためたアショーカが新たに重んじたのは、仏教の精神にもとづく「法」による統治だ。この法は「ダルマ」とよばれ、アショーカ王は碑文に刻んで、各地の人々の目の触れるところにモニュメントを建造した。碑文には「…法による征服は、天愛にとって、最上[の征服]であると考えられる」と解説され(★2)、「法の愛慕」「法による功徳」「法の儀式」「法の実行」「法の響」といった表現が踊る。




国境線のない新壁画


 新議事堂にかかげられた新壁画の前には、このアショーカ王の勅令がレイアウトされている。

式典に参加したモディ首相と新壁画

 右側手前にみえるのが、それだ。

 アショーカ王はかつて、みずからの統治を示すため、辺境の地の崖に詔勅(しょうちょく)を刻んだ。磨崖碑(まがいひ)とよばれるものである。カローシュティー文字とブラーフミー文字が刻まれ、遠くアフガニスタンのカンダハールにも残されている。

グジャラート州のジュナーガドの東1.5kmにあるギルナールで発見された碑文


 地図をみてみると、現在のインドのみならず、アフガニスタン、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、ミャンマー、タイまでもが領域にふくまれている。

 この「分割されていないインド」(アカンド・バーラト)の地図が、いま物議を醸しているのである。

 インド外務省のアリンダム・バグチ報道官は記者団に対し、この壁画は古代のマウリヤ帝国を描いたものだと説明するが、近隣諸国が警戒するのは当然だ(★3)。




獰猛に「盛られた」ライオン像?


 アショーカ王関連のモニュメントは、新議事堂の屋上にもある。

 国王が各地に設置した石柱碑(せきちゅうひ)の上にあしらわれた、四頭のライオンであるり、インドが共和制に移行した1950年1月26日以来、インドの国章となってきた。

インドの国章(Photo from Wikimedia Commons. )下の国は、バラモン教のウパニシャッドの教典の言葉で「真実のみが勝利する」という意味だ。

 しかし、今回のモニュメントのライオンには、批判も飛び交っている。これまで使われてきたサールナートの石柱碑のデザインに比べ、いささか獰猛になっているのではないかというのだ。
 たしかに手前のライオンの表情は、やや獰猛に見えなくもない。ただ、このクレームは単なるイチャモンというわけではなく、近年急激にナショナリスティックになっているインドの政治情勢を、多分に反映させたものでもある。

 もともと植民地から独立したインドは、「政教分離」の原則によって再出発した。インド国民会議派のネルーが主導し、その後もインディラ・ガンディーやラジブ・ガンディーらネルー一族が歴代大統領を務めた。
 
 しかし冷戦崩壊後、ヒンドゥー教を旗印に掲げるインド人民党が勢力を伸ばし、ついに政権交代を果たした。

 インド人民党の政策はしばしば「ヒンドゥー至上主義」とよばれる。インド本来の文化を重んじる主張は、具体的には「イスラーム教」や「イギリス的なるもの」の排除に向かう。たとえばイスラーム教のことを「ガズナ」(962年に成立しインドに侵入したイスラーム王朝に)と呼び、ムスリムをあくまで「外部からの侵入者」とみなす過激な論調にもあらわれている。

 なお、今年のG20において大統領(現在の大統領は先住民出身の女性)が各国首脳にインドではなく「バーラト」という国号を自称して夕食会の招待状をおくっている。このバーラトも、ヒンドゥー教の聖典に位置付けられる『マハーバーラタ』にある、古代インドのバーラタ族に由来するものだ。

 モディ首相がインド統合のシンボルとして引用する、古代マウリヤ朝のアショーカ王は、直接的にはヒンドゥー教と関わりはない。彼は仏教の精神によって国を支配しようとしたのである。

 アショーカ王がインド統合のシンボルとなったのは、モディが最初ではない。インド独立の際、アンベードカル(仏教復興運動に尽力した不可触賎民出身の政治家)やネルーが、政教分離の象徴としてアショーカを持ち出したのだ(★4)。インド国旗の真ん中に配置されている車輪のマークも、アショーカ王の石柱塔にみえる法輪だ。つまりアショーカのシンボルはこの場合、ヒンドゥー色を薄める役割を果たしたといえる。

 しかし、21世紀の新しいインドを建設したいモディ首相にとっては、事情はことなる。インド統合のポイントは、「ヒンドゥー上げ」「イスラーム・イギリス下げ」にある。そこではイスラーム以前、イギリス以前のインドにあったものなら、別にヒンドゥー教でなくたって、いっこうに構わない
 特に、現在のインドにおいてはほぼ信仰されていない仏教だからこそ、いくら引用しても大勢に影響なし、ということでもあるだろう。ようは、古ければ古いほど、「新参者」に対抗できるのだ。とはいえ、そもそもダルマには仏教思想に立脚しつつジャイナ教のバラモン教の影響もあるとの指摘もある(★4)。アショーカ王はそのうえで普遍的な真理としてダルマをみなしていたと考えるべきかもしれない。となれば、多言語・多民族の統合をすすめるインド政府にとって都合の良い考え方であることに変わりはない。

 過去の状態を「自然」とみなす考え方は、「その「自然」を ”ある勢力” によって破壊された」「取り戻さねばならない」とする被害者意識と相性がよい。被害者意識はナショナリズムと結合し、しばしば対外的な軋轢を生む。過去の遺物が、亡霊のように現在の公共空間に忽然と姿をあらわすとき、その文脈をしっかりと吟味してみる必要がある。「引き裂かれていないインド」の今後の動向からも目が離せない。



参考


★1 India Post English. May 29, 2023 10:22 IST.

★2 塚本啓祥『アショーカ王碑文』(レグルス文庫)、第三文明社、Kindle Location 1172.
★3 India clarifies over 'Akhand Bharat' mural in new Parliament, Rediff.com, June 03, 2023 11:23 IST.
https://www.rediff.com/news/report/india-clarifies-over-akhand-bharat-mural-in-new-parliament/20230603.htm

★4 岡本健資「アショーカのダルマ」、龍谷大学アジア仏教文化 研究センター ワーキングペーパー、https://mylibrary.ryukoku.ac.jp/iwjs0005opc/bdyview.do?bodyid=BD00004645&elmid=Body&fname=r-barc-kh_2010_019.pdf&loginflg=on&block_id=_363&once=true

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊