姫路太陽公園の埴輪P7110363

”世界史のなかの”日本史のまとめ 第12話 ユーラシア大陸の変動と、畿内の大王・氏族の拡大(400年~600年の世界)

Q. ユーラシア大陸での中国の拡大に、日本列島の政権はどのように対処したのだろうか?

―この時代は、あちこちで従来の「大きな国」があったところが分裂している。とくにこの時期の後半に差し掛かるころには、各地で今までの勢力が衰えを見せるようになっている。

各地で、騎馬遊牧民が ”圧倒的軍事力” を背景として、農業エリアの有力者との結びつきを深めていく時代だ。

A: 騎馬遊牧民のブルガール人(ブルガリアのルーツ)、騎馬遊牧民マジャール人(ハンガリーのルーツ)はヨーロッパへと移動。 
B: 騎馬遊牧民の柔然に代わって突厥(とっくつ)が勢力を増す。
1: ペルシア人によるササン朝。 2: グプタ朝。 3: 中国は、: 長江の下流(江南(こうなん))の農業エリアが、騎馬遊牧民の騎馬軍団によって制圧され、騎馬遊牧民の鮮卑(せんぴ)と関係の深い(ずい)が建国される。


例えば?

―アメリカ大陸では、メキシコ高原のテオティワカンの文明が最盛期には10~20万人もの人口を擁していたけど、この時期の終わりには衰えに向かっていく。
 代わってマヤ文明の都市文明が盛んになっているね。
 ただし、アメリカ大陸ではこの時期になっても人口が少ない割に食料が豊富な地域も多く、特に北アメリカ大陸では定住型の農業を大規模におこなう地域は限られていた。

 日本では仏教が伝来した頃にあたり、記録によると深刻な食料不足が起きていたらしい。さらに朝鮮半島南部の拠点を失っている。
 代わって日本では中国や朝鮮の文化を取り入れた飛鳥文化が、国づくりを進めていくことになる(詳しくは後述)。

 中国では、遊牧民の鮮卑が中国で建てていた北魏が東西に分裂。
 北では柔然の勢力が弱まり、突厥に交替している。
 で、中国は隋が統一することになるね。

 インドではグプタ朝が滅亡。しばらくは分裂状態が続く。

 西アジアではササン朝が、騎馬遊牧民のエフタルを突厥とともに撃退している。でも、その後はビザンツ帝国との争いで国力を消耗していく。
 その後の西アジアでは、遊牧民のアラブ人がイスラーム教によって広い範囲を統一していくことになる。

 イタリアでは西ローマ帝国が滅んだ後、ゲルマン人の建てた東ゴート王国が滅んだ。ビザンツ帝国の進出で滅ぼされたんだ。
 その後の地中海北岸では、代わってフランク王国が力をつけていくことになるね。

「古い世界」が一気に終了していますね。
どうしてこんなことになったんですか?

気候が寒冷化したことが大きい
 当時の各地の記録や木の年輪の記録によると、天候が不順になり飢饉に襲われたようだ。

その原因は何ですか?

―確定的ではないけど、火山の大噴火が原因といわれている。
 候補としては、東南アジアとジャワ島の間の海峡にあるクラカタウ火山が挙げられる。


 それに同時代には、アフリカを発信源とするペストの世界的大流行も起きたらしい。

 前の時代まで栄えていた巨大な国は、大規模な土地で水を引っ張って農業をやって、それで多くの定住する人たちを養っていたタイプの国だったよね。

 それに対して遊牧民は、単独ではどうしても「食べ物をたくわえる力」「物をつくる力」は定住型の巨大な国にはかなわないわけだ。
 
 でも彼らには「機動性の高い軍事力」という強みがある。
 持ち運び式のテントや料理につかう釜((ふく))もウマに乗せて持ち運んでいたんだ。

 でも気候の寒冷化により活動エリアが狭められてしまったことが遊牧民にとって「大打撃」となってしまう。

困った遊牧民は、活動エリアを南に移動させていましたね。

 そう。活動エリアを求め、遊牧民が定住民の世界に入っていき、互いの文化をミックスしていく。リミックスの結果、新しい支配のしくみや協力関係も生まれていくことになるんだ。

 ただし、それはユーラシア大陸だけに限った話で、武装した遊牧民のいなかったアメリカ大陸ではユーラシア大陸のような広くて巨大な国はなかなか現れない。


そんな大変な時代の日本にとって一番の関心事は、朝鮮半島の鉄でしたね。

―そうだね。
 当時、近畿地方を中心にヤマト政権と呼ばれる勢力が西日本から東北地方中部にいたる広い範囲の有力者たちを支配下に置いていたけれど、地域によっては独自に朝鮮半島の鉄を求めて船を出す人々もいた。

 かつて西日本を中心とする「邪馬台国連合」は、黄河流域の政権に使いを送っていた。
 それに対してヤマト政権は、王権の正統性をアピールするために長江流域の政権に使いを送っているよ。


どうして長江の流域に向かったんですか?

―黄河流域には遊牧民出身の新勢力が政権を建てていて、従来の政権の支配層は難を逃れて長江流域に別の政権を建てていたんだ。
 これを「南朝」(なんちょう)という。
 当時の朝鮮半島北部に大勢力を築いていた高句麗(こうくり)という国に立ち向かう必要もあったようだ。

5世紀後半の朝鮮半島の情勢。
高句麗がかなり南の方に進出されているのがわかる
(wikimediaより)

証拠はあるんですか?

―中国の南朝の記録に、日本からは讃・珍・済・興・武という5人のヤマト政権のトップ(注:大王)がやって来たと書いてある。


今の天皇の祖先ですか?

―そういうことになっているんだけど、まだこの頃はのちの「天皇家」のようなしっかりとした家系ができていたわけじゃない。
 おそらく、「済」は允恭(いんぎょう)天皇、「興」は安康天皇、「武」=雄略天皇のことだろうとされているよ。


読み方は漢字なんですね。

―日本語の読み方もあった。
 「武」は「ワカタケル大王」(雄略天皇)のこととされる。
 彼の名が漢字で現在の埼玉と熊本の古墳の遺物に刻まれていたことから,ヤマト政権の権力が関東に及んでいたと考えられるわけだ。

 彼のアタマの中では、日本列島の関東や九州は「中国の皇帝ではなくてヤマト政権の大王が治めるべきエリア(=天下(あめのした))」と考えられていたようだ。

 ヤマト政権のトップが「大王」(おおきみ)と呼ばれるようになったのは、実在が確認できる範囲では彼のときからだ。

 日本各地の有力者に「すごさ」を見せつけるため、武は中国の皇帝から「使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓国諸軍事安東大将軍倭国王(しじせつととくわくだらしらぎみまなからしんかんぼかんしちこくしょぐんじあんとうだいしょうぐんわこくおう)」っていう称号をもらおうとした。


長!(笑)

―ね(笑)

 この称号が欲しいと宋の皇帝にねだったわけなんだけど、すでに百済(くだら)は中国の配下に入っていた(冊封体制の中に入っていた)ので、百済は抜かされ、「国諸軍事安東大将軍」が与えられることになった。


やっぱり中国の皇帝の権威を使わないと、「すごさ」は示せないんですね―

―各地の有力者が土地を支配するには、それなりの武力だけでなく、思わず納得するような「権威」が必要だからね。

 それだけじゃない。「経済力」も重要だ。
 農業に使う鉄器や、お祭りに使う青銅器は朝鮮半島との貿易に依存しているところがあったよね。
 そこで、大和地方中心のヤマト政権は、朝鮮半島との貿易ルートをにぎり、それを各地の有力者に分け与えることで支配を認めさせていたようだ。
 朝鮮半島と北九州の間に浮かぶ孤島では、航海の安全を祈る儀式がおこなわれていた。

玄界灘のど真ん中にあることがわかる旅と交通の手帖ウェブサイトより)


 さらに大王は農耕儀礼を重視した。「太陽の神とのつながりのある大王が神に祈るおかげで、お米が実る」という「設定」を共有させたわけだ。
 春には祈年祭(としごえのまつり)、秋には新嘗祭(にいなめのまつり)をとりおこなう。これは今でも天皇家が行っている儀式だ。


え? 今でもやってるんですか?

―ただし、今の神社建築みたいに大掛かりな建物がつくられたわけではないけどね。
 巨石・巨木・山などの自然を神体をしてまつっていたんだ。山自体が神体として祀られている奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)もその一例だ。
 儀式の中では、禊(みそぎ)・祓(はらえ)や、鹿の骨をあぶって現れた裂け目によって占う太占(ふとまに)の法、熱湯を用いて神意を占う盟神探湯(くかたち)などの呪術が用いられていた。


骨をあぶって文字を出すのは、中国でもやっていましたよね。

―そうそう。中国の殷でね。「小細工」をすれば思い通りの亀裂を入れることも可能だったこともわかっているから、権力者がうまくこうしたツールを使って、支配に箔をもたせたのだろう。

中国の南朝の後ろ盾もありましたもんね。

―でもね、当初の期待とは裏腹に,中国では南朝よりも北朝のほうが有力になっていくんだ。
 そこで,479年にが滅亡して以来は,中国に対する朝貢は行わず,日本列島の支配に重点を移すようになっていった。

 古墳もこの時期には関東・瀬戸内・南九州でサイズが巨大化し、副葬品には武具や馬具もみられるようになっていった。
 各地の支配者が農業の儀式を営むだけの人から、軍事的なリーダーとしての性格が強まっていったことの印だろう。

 すると、古墳の埋葬の方法にも変化が出てくるようになる。


今までは古墳の上から棺を入れる形でしたよね。

―そう。だから一つの古墳には一人の有力者が埋葬される形だった。
 でもこの時代の中頃になると、朝鮮半島の影響を受けた横穴式石室が増え,有力農民のものとみられる群集墳も現れていく。
 古墳のヨコにトンネルを掘り、後から関係する人を追加して葬ることができるようになったのだ。

ヨコから棺を追加することが可能になった
百舌鳥・古市古墳群ウェブサイトより)

亡くなったら古墳の中に入れる人が、増えていったってことですね。

―そうそう。

 さっき「朝鮮半島の影響を受けた」って言ったけど、この時代のの前半と後半には、大陸の混乱を背景にして中国や朝鮮の人々(渡来人(とらいじん))の2度にわたる「移住の波」があったんだよ。

 1度目の波はこの時期の前半(5世紀初め)だ。
 弥生土器系で野焼きの土師器(はじき)に代わり、5世紀からは、朝鮮の土器の影響を受けたより(かま)焼きの須恵器(すえき)が伝わった。土師器(500~900℃)に比べ、高い温度(1100℃~1200℃)で焼かれるから頑丈で実用的だ(ちょっと青っぽい)。
 日本で有力な豪族となった一族(注)のルーツも、この時期にさかのぼることができる。

(注)王仁(わに)は西文氏(かわちのふみうじ)に、阿知使主(あちのおみ)は東漢氏(やまとのあやうじ)に、弓月君(ゆづきのきみ)は秦氏(はたうじ)のルーツとなった。いずれもヤマト政権につかえた有力氏族で、最新技術を日本に伝えた人々だ。

 
2度目の波はこの時期の中頃(5世紀後半)だ。
 

ヤマト政権は、朝鮮半島の南部に拠点がありましたよね?

―そうそう。
 この時代の中頃になると、北からの高句麗の圧迫もあって南に逃げ延びていた朝鮮半島南西部の百済(くだら)は、朝鮮半島部を支配下に入れてしまう。
 これにより、ヤマト政権が拠点としていた伽耶諸国(かやしょこく)のうちの西側が百済にとられてしまうことになった。

あらら。

―さらに伽耶諸国(かやしょこく)はその後、百済だけではなく新羅によって滅ぼされた。
 朝鮮半島の拠点を失う大ピンチである

 この際、伽耶諸国の西部の支配を認める代わりに、百済から日本に儒教の専門家(注:五経博士)がやって来たらしい(注:今来漢人(いまきのあやひと))。
 彼らは占い、暦、医学、鉄器などの金属、機織り、土木などの最新テクノロジーのほか、さらに仏教も伝えられた。
 布の機織りは「錦織部(にしごりべ)」、馬の鞍(くら)づくりは「鞍作部(くらつくりべ)」、土器は「陶作部(すえつくりべ)」のように、担当ごとにグループに編成され、東漢氏が担当したようだ。

 いずれも「文字になって記録されている」時点で、日本列島の人々にとっては「おそれおおいもの」だったに違いない。
 文書を扱えるということで、独自の文字を持たなかったヤマト政権で外交や税に関する文書を担当することになった人々(注:史部(ふひとべ))もいた。

担当ごとに「部」って分けたんですか?

ー当時の百済の制度が導入されたようだ。のちのちの官僚組織の元になっていくやり方だ。


朝鮮半島からの移住者が増えれば、日本列島と朝鮮半島をまたぐ勢力も生まれてもおかしくありませんか?

―そのとおり。

 この時代の後半には、九州の筑紫というところの支配を任されていた人物(注:国造(くにのみやつこ)の磐井(いわい))が、なんと新羅と同盟して反乱を起こしている。

石人や石馬も見られる岩戸山歴史文化交流館ウェブサイトより)


 おそらく、百済と密接な関係を築いていたヤマト政権に対抗して、鉄のルートを押さえようとしたのだろう。

 この人物の墓と考えられている福岡県八女市の古墳(注:岩戸山古墳)では、特徴的な石の製品(注:石人、石馬)がお墓の上に置かれているよ。


不穏な雰囲気ですね。

―ヤマト政権の中枢部でも、朝鮮半島や中国との関係をめぐって、方針の対立が起きている。

 もともと朝鮮半島につながりを持っていた一族(注:大伴氏(おおともうじ))が衰え、この時代の終わり頃には、大王(注:ヤマト政権のトップ。のちに「天皇」と呼ばれることになる)につかえていた2つの有力な家系どうしの争いが起きるようになる。

有力な家系?

ヤマト政権のトップである大王(おおきみ)が権力をふるうことができたのは、現在の奈良県や大阪周辺の大土地所有者の支持があったからだ。
 有力な一族(注:豪族)は「氏(うじ)」という連合をつくって大王につかえ、大王はパワーバランスを考えながら特定の役職を与えていた。
彼らは「臣(おみ)」や「連(むらじ)」といった特別な地位(姓(かばね))が与えられ、その称号は一族で世襲された。


奈良や大阪の有力者(豪族)の力はなんでそんなに強かったんですか?

―畿内(きない。奈良・京都・大阪周辺のエリア)出身の「氏(うじ)」の称号をもらった豪族は、大王(おおきみ)に直接つかえ、親戚関係も結んでいたほどだ。
 彼らは自分たちの農業の拠点(注:ヤケ)や働かせることができる人々(注:ヤツコ)も所有していた。田荘(たどころ)と呼ばれる私有地も豊富だった。


地方はどんなふうに支配していたんですか?

―畿内に置かれた「氏」とは別に、ヤマト政権は九州から関東に至るさまざまな地方の有力者に「国造」(くにのみやつこ)というポジションを与えていたんだ。

 で、各地には大王(おおきみ)直属の土地(注:ミヤケ)が置かれ、その土地の人々は「伴造」(とものみやつこ)という役職にに任命された有力者によって管理されていた。  
 とくに「最新のテクノロジー」を持っていた朝鮮半島出身者(注:渡来人)は、伴造によって「品部」(しなべ)というグループに編成され、大王(おおきみ)のために働くことも多かった。


なんかいろいろとゴチャゴチャしていますね…

―地方ではしだいに農業の取れ高がアップして、新しく力をつけていった人たちもいたわけで、そういう人たちをうまく取り込もうとしていたわけだ。
 だからこの頃には、今までのような巨大古墳に代わって、「ちっちゃなたくさんの古墳」(注:群集墳)が増えているよ。

古墳の地方によるオリジナリティが高まっていたことも、地方に有力者が成長していた印の一つだ(五郎山古墳奥壁の壁画、筑紫野市ウェブサイトより)

で、大王はどうやって政策を決めていたんですか?

とくに勢力の強かった畿内の豪族グループを「大臣(おおおみ)」・「大連(おおむらじ)」に任命して政治をさせたり、ほかの有力な豪族たちも加わった「話し合いの場」(注:大夫(まえつきみ))で決められたんだ。


* * *

さっきの話に戻ると、朝鮮半島の拠点を失って、こういう畿内の豪族同士の対立が生まれていったわけですね。

―そうそう。
 基本的に「日本の歴史」って、中国や朝鮮半島の動向に大きく左右されるんだ。


日本の中だけを見ていても、わからないってことですか。

―そう。例えば、大連(おおむらじ)出身の有力豪族(注:物部氏)と、大臣(おおおみ)出身の有力豪族(注:蘇我氏)が対立したのも、この頃朝鮮半島からやって来た人々の文化を受け入れるか受け入れないかっていうところが発端なんだよね(注:崇仏論争)。

 外国の文化を積極的に受け入れていったほうの一族は、しだいに最新技術を駆使して力を伸ばしていった。


なんでそんなことになってしまったんでしょう?

「中国の分裂状態」が終わり、中国が統一されてしまったからだ。

 今まで南北2つの政権(注:北の政権はさらに2つに分かれていた)に分かれていた中国を、隋(ずい)という政権が統一することに成功したんだ。

 振り返ってみると、日本の政権がここまで大きくなっていったのは、中国が分裂している間、まさに”鬼の居ぬ間の洗濯”だったわけだ。

 このままでは朝鮮半島に進出し、ヤマト政権が獲得していた利権がとられてしまうおそれもあるし、安全保障上も大問題だ。


なるほど、だから中国との方針をめぐって仲間割れするわけですね。

―そう。だけど、そんなことしてる場合じゃないよね。

 そこで、その「調整役」として白羽の矢が立ったのが、天皇家と、その有力な部下(注:蘇我氏)の家柄の両方の血筋を引いていた男性だ(注:厩戸皇子(うまやとのみこ))。


あ、聖徳太子ですね!

―そうそう。彼は新たに即位した女性天皇(注:推古天皇)を助けつつ、畿内の有力豪族(注:蘇我馬子)とも力をあわせ、中国の先進文化を導入しながら混乱を収拾するための改革を断行していったんだ。

奈良県の石舞台古墳は蘇我馬子の墓とされているwikimediaより)

中国と距離を置きつつ、取り入れられる先進文化は取り入れるっていうのは、なかなか難しそうですね。

―そうだね。絶妙なさじ加減が求められたはずだ。

 実際この女性天皇は、朝鮮半島南部を奪回しようとして新羅(注:朝鮮半島東部の国)を攻撃しようとした。
 でも、「そんなことしてる場合じゃない。今はまず、中国との関係を修復するべきだ」って意見が強くなっていくよ。

”世界史のなかの”日本史のまとめ 第12話 ユーラシア大陸の変動と、畿内の大王・氏族の拡大(400年~600年の世界)は以上です。
次回(600年~800年)の「”世界史のなかの”日本史のまとめ」に続きます。
前回(200年~400年)はこちらから。

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