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"世界史のなかの" 日本史のまとめ 第17話 統一政権の安定と全国市場の発展(1650年~1760年)

ヨーロッパ諸国が外に向けて発展し、海の重要性が高まる時代

―この時代、大砲や銃が各地に普及したために、ユーラシア大陸の草原地帯を牛耳っていた遊牧民の軍事力は、もはや「最恐」とはいえなくなった。

銃を手にした定住民たちの「時代到来」ですね。

―でもね、この時代は「ミニ氷期」ともいわれる寒い気候が世界各地を襲ったこともあり、経済活動はスランプにおちいってしまうんだ。反乱とか革命とか、良からぬことが各地で同時多発的に起きているよ(注:)。
 この時期の終わりに向け、太陽の活動も弱まっていったようだ(注:マウンダー極小期)。
 立ち行かなくなった各地の国々は貿易の利益を求めてますます海沿いエリアの重要性は高まっていく。
 「宗教の違い」を理由に、イギリスから北アメリカ大陸に難民が逃げていったのもこの時代だ。彼らは次の時代に「アメリカ合衆国」としてイギリスから独立することになるね。

前の時代は「拡大」の時代だったのに…

―拡大にも「限界」があるからね。開発をし過ぎれば、環境破壊にもつながるし。

 面積の狭いヨーロッパの国々は「限界」突破のため、盛んにアメリカ、アジア、アフリカに進出し、利益につながりそうな物を自分の国に持ち込んだ。
 とくに南北アメリカ大陸はスペイン(一部、ポルトガル)によって利用されるだけ利用されていく。

 ただ、ヨーロッパ各国は資源争いを背景をして、「宗教」の考え方の違いを口実(こうじつ)に、国と国とのケンカがエスカレートしているよ(注:ルイ14世の侵略戦争)。


この頃の中国はどんな状況ですか?

―北から女真人が進出し、モンゴル人の「後ろ盾」も得ながら漢民族の国(注:明)を滅ぼし、新しい国(注:清(しん))を建てていたよね。



漢民族の国はカンタンに負けてしまったんですか?

―支配層は南のほうに逃げて各地で抵抗を続けたよ(注:南明(なんみん))。


このことは当時の日本人も知っていたんですか?

―うん、大ニュースだ。
 この知らせを受けて,江戸幕府につかえていた儒学者(林鵞峰、はやしがほう)は「夷狄 (いてき。野蛮な民族)である女真(女直)が漢民族の明を滅ぼして清を建てた。清は夷狄のつくった王朝だから,中華ではない。むしろ日本が中華にふさわしい!」という考えをふくらませていくよ。

 また、この時代には「水戸黄門」で有名な水戸藩主が“日本中心”の歴史書(注:『大日本史』)の編纂を命じたり、江戸幕府が“幕府中心”の「世界観」の歴史書(注:『本朝通鑑』(ほんちょうつがん))の編纂を命じたりしている。

中国を意識しつつ、日本という「まとまり」が意識されるようになっていくんですね。

―そうそう。
 本来は中国側からは野蛮な民族(注:夷狄(いてき))とみられていた日本が,逆に自らを東アジア秩序の中心とみるようになったわけだ(注:「小中華思想」(しょうちゅうかしそう))。
 そういう考えをふくらませることができるほど、幕府の支配が盤石になっていたってことでもあるね。


ちなみに、清とはどんな関わりを持っていたんですか?

―江戸幕府は政治的に外国との距離を置き、国内の秩序づくりに努めた。

 台湾を拠点にした反清勢力〈鄭成功〉(ていせいこう)は日本人を母に持っていたこともあり、江戸幕府に救援を求めたけど、幕府はこれを拒否している。

 ただし中国との経済的な関係は維持する政策をとり、管理下に置かれていたものの長崎での貿易は引き続き認められているよ。


貿易に制限をかけたんですね。

―貿易による利益を独占しようとしたんだね。

 幕府はすでに第3代将軍までに国内の支配体制を確立していた。
 公家・武家・商人・お坊さんたちは、「安定」を背景に各地に「サロン」をつくって、お茶や和歌を楽しむようになった。

サロン?

―有名な人、実力のある人のまわりに近づいて、ちょっとクローズドに交流したいという集まりだよ。とくに京都ではアーティストや「目利き」(キュレーター)の周りに、いろんな人が集った。


どうして支配が安定したんでしょうか?

―各地に直接支配地(注:直轄領)を持っていたことが非常に大きいね。
 その周辺には将軍と血縁関係にあったり幕府側に立っていたりした家来たちに領土を与えた(注:親藩(しんぱん)、譜代大名)。
 幕府に敵対的だった家来(注:外様(とざま)大名)は遠方に配置され、反乱を防ごうとしたんだ。

 でも、やはり反抗的な態度をとる家来もいた。
 パワーを削ぐために領地を減らしたり(注:減封)、遠くに領地を移転させたり(注:転封)、領地を取りつぶしたり(注:改易(かいえき))したんだよ。


産業は盛んではなかったんですか?

―この時代には日本規模の流通ネットワークがますます整備され、各地で都市が江戸幕府のコントロール下に置かれて栄えているね。


商業が盛んになったということは、農業の生産もしっかりしていたってことですね。

―そのとおり。
 江戸幕府の財政は、土地を持ち年貢をおさめる義務を持つ農民(注:本百姓)に基盤が置かれていたからね。


「士農工商」の制度があって、農民は上から2番目に「えらかった」んですよね。

―武士と、それ以外の農業・工業・商業に携わる人たちの間に「線引き」がなされていたのはたしかだけど、それは「きまりによって決められた制度」ではなく、当時の儒学者たちが「理想」としていた社会の秩序だ


「身分」のようなハッキリとした違いではなかったんですか?

―研究がすすむにつれて、「身分」というよりは「職業(職分)」と考えたほうがよいということがわかっているよ。こんなふうに、実際には「なかったもの」が、「あったもの」であるかのように語られることが多いのも江戸時代の特徴かもしれない。「ロマン」を感じやすいんだよね。


 そんなことよりも、こうした人たちのさらに下にもうけられた「穢多」(えた)・「非人」(ひにん)という人々の処遇のほうが深刻だ。

 また、「商人」が一番下に置かれているけれども、武士は財政的には商人に依存せざるを得ない状況だし、実態としては「商人」の存在感はかなり大きい。

 その背景にあったのは農業の発展だ。
 幕府は全国での農業生産の充実を目指し,各地で大規模開発が行われ、この時代は「大開発の時代」ともいわれる。


どんな開発がおこなわれたんですか?

―例えば,利根川の流路を江戸湾から太平洋に変更する工事がこの時代の初めに完成し,各地で用水路が建設され新田が開発されていった。

 村々は領主から年貢米の納入をうけおい,城下町の倉庫に米がおさめられた。
 米や商品は藩内外に輸送され,東北地方と江戸を結ぶ東廻り航路、東北地方の日本海沿岸と江戸・大坂を結ぶ西廻り航路、大坂と江戸を結ぶ南海路といった海運が発達。
 大名は城下町や上方市場で年貢米を換金し、幕府財政にあて。全国市場の成立に従って全国統一の枡として京枡(きょうます)を指定した。


政治的には安定していたんでしょうか?

―この時代の初めに徳川幕府の第3代将軍が亡くなると、第4代目(注:徳川家綱)がたったの11歳であったので、家臣たちが主導権を握ることになった(注:松平信綱(まつだいらのぶつな)保科正之(ほしなまさゆき))。
 でも、そのスキにつけこんで、幕府クーデター未遂事件(注:慶安事件)が起こり、さらに江戸の大部分焼く大火事(注:明暦の大火)も起きている。同じ頃にはイギリスのロンドンでも大火事が起きているね。

振袖火事といわれた明暦の大火(江戸東京博物館)


どうしてそんな物騒な事件が?

―幕府は、各地の元「戦国大名」にいうことを聞かせるため、領地を替えたり取り潰したりと、厳しい処分をしていたでしょ。
 その結果、跡取りがいなくなって取り潰され、領地を失い、武士の身分ではあるけれど本拠地を持たず「フラフラ」する人たち(注:牢人)が現れるようになっていたんだ。
 それでは困るからね。

 これまで幕府は「跡取りがいないなら勝手につぶれてくれて構わない」「跡取りがいなくても、無理やり誰かを養子(注:末期養子(まつごようし))に迎え、家を存続させるのは禁止」という方針をとっていたんだけど、この時期にはそれを緩めた(注:末期養子の禁の緩和)。


海外との関係は?

―このころ、中国では漢民族の残党がついに降伏し、台湾でも海賊による反政府グループが降参した。
 台湾の海賊グループ(注:鄭氏(ていし)政権)は幕府に援軍を求めたけれど、「そんな余裕はない」ということで拒否されている。
 実はこの海賊グループのリーダーの父親は中国系の海賊、母親は長崎の商人(注:田川七左衛門)の娘だったんだ。

 この頃の清を治めていた皇帝(注:康煕帝(こうきてい))は、清の支配を確立した人物として名高い。
 キリスト教の宣教師を通して、当時のフランスで絶対王政をしていた王様(注:ルイ14世)とのやりとりもしていたんだよ。


 ほかに長崎で貿易が認められていたのはオランダだね。
 オランダ人は紅毛人(こうもうじん)と呼ばれ、拠点を築いていたインドネシアの現在でいうジャカルタ(注:バタヴィア)からせっせと貿易をしにやって来た。

 オランダの長崎の商館長は、江戸幕府の将軍のもとに定期的に訪れ、ヨーロッパ情勢を伝えている。幕府にとっても重要な情報源だったんだ。
 ただ日本からの銀の輸出が増加するようになると、幕府は貿易を制限し始めることとなる(注:銀輸出の禁止、糸割賦制の復活)。


どうしてオランダとのお付き合いはできたんですか? キリスト教を禁止していましたよね?

―オランダは、スペインやポルトガルと違い、布教や植民地化に熱心ではないと考えられたんだ。


オランダの当時の状況は?

―スペイからの独立が、ヨーロッパ諸国の君主たちから正式に認められた直後だ(注:ウェストファリア条約)。


先に日本に来ていたスペインとは敵の関係だったんですね。

―そう。
 「オランダ」って一言で表現するけど、実態は有力な商売人による共和国の「コラボレーション」だ。ネーデルラント連邦共和国という国名が正式なものだ(ネーデルラントは「低い土地」、共和国は「トップが君主ではない国」という意味)。

 もっとも有力な共和国は「ホラント」というところで、ここで代々リーダーをつとめていた家系(注:オラニエ家)が、そのままネーデルラント連邦共和国を代表することになった。
 日本に対しては、オラニエ公(注:マウリッツ)が総督として接していたんだよ。


オランダは当時の日本にとって貴重な存在だったんでしょうね。

―そうだね。
 日本からもアーティスティックな焼き物が多く輸出された。
 ヨーロッパ全体にとっても、日本製の商品は「レア物」として珍重された。
 今でもオランダには日本の影響を受けた焼き物(注:デルフト焼)があるよ。


沖縄との関係は?

―中国の皇帝は沖縄にあった王国(注:琉球王国)の国王を「家来」として即位させた。


沖縄って、鹿児島県の勢力によって占領されていましたよね?

―そうそう。つまりこうして沖縄の王国は、鹿児島県の藩(注:薩摩藩)と、中国の清から「ダブル」で支配される身になってしまったんだ。
 中国の動きに対し、将軍は「スルー」。あくまで平和と貿易を重視した。


中国と日本の狭間で、バランスをとろうとしたんですね。

―このころ、国王を補佐していた人物(注:摂政(セッシー)の羽地朝秀(はねじちょうしゅう))は、伝統的な組織を改革。日本文化を受け入れる策も打ち出している。この時代の初めに記された歴史書(注:『中山世鑑』(ちゅうざんせいかん))には、「日本人と琉球人のルーツは同じ」という考え(日琉同祖論(にちりゅうどうそろん))も見られるよ。


北海道との関係はどうですか?

―この時代の前半に、アイヌの指導者(注:シャクシャイン)が日本の商人に対して反乱を起こしている。でも結果的に鎮圧され、日本の商人は北海道南部に居住し、設置された市場(注:商場(あきないば))で貿易する権利は青森県の藩(注:松前藩)に与えられた。


政治の様子はどうですか?

―江戸時代の前は「戦国時代」だったよね。
 対立したら「戦い」で解決する風潮が、まだ残っていたんだ。

 若くして即位した4代目の次、この風潮の一掃に取り組んだのが5代目の将軍(注:徳川綱吉)だ。


どうやって変えたんですか?

―「武家諸法度」(ぶけしょはっと)という「武士のきまり」があったよね。
 これを改定し、武士にとって「大切なこと」は軍事ではなく忠孝礼儀だと明言した。
 さらに、生類憐れみの令というお触れを出しているよ。


イヌを大切にしまくって、社会が大混乱したルールですよね。

―うーん、それは後世の人たちによって作られた「ストーリー」に過ぎない。
 「動物」を保護することだけでなく、「弱者」を保護することを命じ、「なんでも力で解決するべきだ」という価値観を転換させようとしたんだ。

 さらに、身内が亡くなった時の忌引(きびき)の日数も、彼によって定められたものなんだよ(服忌令)。今では当たり前になっているけどね。

 考え方のベースには、中国の儒教がある。東京の湯島に教育機関を建設させ、幕府専属の専門家(注:林鳳岡(信篤))に研究させているね。


いい調子ですね。

―でも、彼の政権末期には,元禄大地震という大地震が関東を襲い,さらに立て続けに富士山が大噴火してしまう(注:「宝永の大噴火」)。


それは大変です。

6代将軍は、5代将軍時代の側近(注:柳沢吉保)をクビにし、「生類憐みの令」を廃止。
 しかしすぐに死去。
 7代将軍のときには、儒学のカラーを全面に押し出した学者(注:新井白石)が、将軍のそばにつかえる側近(注:間部詮房)ととともに政治改革に乗り出していく。
  天皇家を利用して将軍の権威をあげようとしたり(注:閑院宮家の創設)、朝鮮からの使者の扱いを格下げしたりといったことも行われた。


朝鮮の使者を格下げ?

―格下げすることで、将軍の権威をもちあげようとしたんだね。

 彼が政権にあったころ、あるイタリア人がフィリピンのマニラから日本に密航しようとして失敗。このイタリア人を尋問した様子も、彼によって著されていておもしろい。前の時代の後半に、中国にやってきたキリスト教の宣教師が作成した正確な世界地図(注:坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず))を用いて、イタリア人に国際情勢を説明させた書物もつくられている(注:『采覧異言』)。
 
 彼はオランダ人の医師(注:ケンペル)も重用しているし、海外情報にも敏感だったんだ。
 ちなみにこの医師はもともとオランダの東インド会社専属の医師だった。『日本誌』という日本に関する情報本をつくり、ヨーロッパに日本について初めてしっかりと紹介した人でもある。次の時代にフランスで刊行される『百科全書』の「日本」の項は、ほぼすべてがこの『日本誌』をベースにしているんだよ。


経済的にはどうなんでしょう?


―日本から金や銀が流出していくのを防ぐため,中国の清(しん)とヨーロッパのネーデルラント連邦共和国(オランダ)との貿易規模を縮小させた(注:海舶互市新例(かいはくごししんれい))。

 一方、日本国内では農業や産業のテクノロジーはどんどん発展していた。
 農業技術や肥料による生産力の向上がすすみ、売るために作られる商品作物や加工品の生産も,全国で盛んになっていく。
 その中で,従来は輸入に頼っていた生糸や砂糖を、国内で「輸入代替」(輸入する代わりに、自分たちでつくってしまう)する動きも起こるよ。


都市も発展しそうですね。

―東京・大阪・京都の三都の問屋は販売の専業化に向かい、特に越後屋(三井)は薄利多売方式で巨利を上げている。
 経済活動の活発化を背景にして、町人や農民を主体とする元禄文化が発展しているよ。

 でも商業が盛んになるのはいいのだけれど、「お金の取引」が広まると、農民の間にも「経済的に不安定な人たち」が出てくるようになってしまう。
 それじゃあ困るわけだよね。


税がとれなくなってしまいますね。

―幕府の財政状況も悪化の一途をたどっていた。
 そこで、大改革にのりだしたのは第8代将軍(注:徳川吉宗)だ。

 彼は積極的に新田開発を推進し、幕府財政建て直しのために上米の制を定めた。

 また儒学者(注:青木昆陽(あおきこんよう))の尽力により、中国の農書を参考にして、薩摩(サツマ)藩経由で琉球王国から取り寄せたサツマイモを東京の小石川御薬園で栽培し、全国に普及させた。



 荒れた畑でもよく育つため,飢えを防ぐ作物として重宝されたんだね。彼は「サツマイモ先生」という異名も持っているよ。


サツマイモってもともと日本にはなかったんですか?

―アメリカ大陸原産で、ほかの大陸にはなかったんだよ。
 前の時代以降、ヨーロッパ諸国がアメリカを植民地化するようになって以来、世界各地に広まるようになったんだ(注:コロンブスの交換)。

彼は外国に対してはどんな政策をとったんですか?

―西洋の学術にも興味を示し、キリスト教以外の洋書の輸入を解禁した。
 だから、長崎を中心にオランダの科学を吸収した蘭学(らんがく)が栄えた。

 将軍はさまざまな学者に保護を与えた。
 例えば、フランドル地方の医師(注:ドドエンス)の書物の影響を受けた学者(注:野呂元丈(のろげんじょう))が薬学に関する研究書(注:『阿蘭陀本草和解』)を発表している。

 先ほどの「サツマイモ先生」とともに、オランダ語の習得を命じられている。
 この時期の大名の中には、オランダの学問の導入に関心を示した人たち(注:蘭癖(らんぺき)大名)もいるね。

 また、ベトナムからゾウを輸入し、長崎から江戸まで街道を歩かせるパフォーマンスも実施している。


思い切ったことをいろいろとやった人だったんですね。

―彼が亡くなると、次の第9代(注:徳川家重)が後を継いだ。しかし、この人の評判はすこぶる悪い。


第8代が良すぎたんですかね。

―8代将軍以来の増税が、農村にとっては重荷になっていた面もあるね。岐阜県では大規模な百姓一揆(注:郡上一揆(ぐじょういっき))も起きてしまう。


さっきオランダの影響を受けた学問が盛んになったということでしたけど、儒学とかはどうなっちゃったんですか?

―儒学(注:朱子学)が幕府「公式」の学問であることは変わらない。
 でも、それじゃ「つまらない」という儒学の新グループ(注:陽明学)も流行りだしているし、そもそも日本で研究されている儒学なんて「本当に昔にあった儒学じゃない」というグループの活動も盛んになっている。

え、「本当」の儒学って何ですか?

―中国語の原文を重視したんだ。こういう派を「古学」といって、政治に参加した人(注:古文辞学派の荻生徂徠(おぎゅうそらい))もいるよ。
 中国よりも日本のほうが「中華」にふさわしい!と主張した人(注:聖学の山鹿素行(やまがそこう))もこのグループに分類されることが多い。

日本の支配が安定したからこそ、自信も出てくるわけですかね。

―そう。中国の学問を使わず、日本古来の神話などに注目した「国学」というジャンルも盛んだ。
 一方、「使える」テクノロジーはどんどん輸入しようということで、中国の薬学研究書(注:『本草綱目』)をもとにした薬学研究や、モンゴル帝国時代の天文学者(注:郭守敬)による正確なカレンダー(注:貞享暦(じょうきょうれき))も導入されているね。こういう研究を「実学」というよ。


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