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"世界史のなかの"日本史のまとめ 第11回 西日本の統合とユーラシア大陸との交流(200年~400年)

Q. 「邪馬台国連合」と「ヤマト政権」との関係性は?

この時代はどんな時代ですか?

―前の時代の後半に、稲作の導入で大規模化した大集落(注:クニ)どうしの争いが西日本各地で起きていたよね。

 それがこの時代には、ひとまずこれらの争いをまとめた勢力が現れた。これを中国の歴史書は邪馬台国連合(やまたいこく、「やまとこく」か )と呼んでいる。


中国からの呼び名があるってことは、使いを送っていたわけですね。

―そうそう。鉄器を手に入れるには、朝鮮半島の拠点が不可欠だからね。

 邪馬台国連合の支配層はみずからの権威付けのために、当時の中国北部の王国(魏)から「親魏倭王」(しんぎわおう)という称号をもらい、形の上では中国の皇帝の「部下」になったのだ。

どうしてそんなことを?

― 中国の「部下」として冊封(さくほう)されれば、その地域における支配が認められ、支援を受けたり交易をしたりすることもできるようになるからだ。
 当時の中国の歴史書(注:『三国志』の中にある「魏書」東夷伝(いわゆる『魏志』倭人伝))によると、このときには銅鏡が100枚も与えられたらしい。

刻印された年代が邪馬台国が使いを送った時に近いことから、このときに授かったものではないかと考えられている三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)(宮内庁HPより)

こんなサビたやつをもらって、うれしかったんですかね?

―いやいや、当時は光り輝いていたんだよ。


 神様とかんがえられていた太陽の光を反射し、みずからの姿をも映し出す青銅製の鏡は、きわめて神秘的かつ最先端のテクノロジーの産物と考えられたに違いない。


当時の中国はどんな状況だったんですか?

―世界的に気候の寒冷期に突入し、従来あった定住民の「広い国」が崩壊に向かうのがこの時期だ。

 中国でもこの時期の中頃には漢という王国が滅び、魏・蜀・呉の並び立つ三国時代に突入する。

中国は三国時代だった(世界の歴史まっぷより)


 寒冷化・乾燥化の影響を受け、北方から遊牧民が大挙して移動してたことも背景にあった。


どうして日本は外交の相手として魏を選んだんでしょうか?

―日本が一番欲しかったのは朝鮮半島の鉄だよね。
 そこで、朝鮮半島に勢力を伸ばそうとしていた魏と結ぶことで、「お墨付き」を得たかったのだろう。

 魏としては、日本と結ぶことで呉(ご)を”挟み撃ち”にしようとする意図があったとも考えられる。

なるほど。
でもまあ遊牧民が北から攻めてきて、中国人は大変ですね。

―まあ、「中国人」って「中国の文化(漢字など)を受け入れた人」っていう意味ととらえれば、北のほうの遊牧民が中国文化を受け入れたってことは、見方を変えれば「中国」の範囲が遊牧民の地域にも広がり始めたっていうことになるんじゃいかな。
 実際にこの時期にある遊牧民は、自分たちの言葉をやめて「漢字」や「中国のファッション」を取り入れているんだ。


ややこしいですね。

―その人がどの民族かっていうのは、「自分はなになに人なんだ」っていう”気持ち”が関わる面が大きいんだよ。日本に住んでいると”気持ち”もなにも、”日本に生まれたんだから日本人だ”って思いがちだけど。

 定住民である中国人を納得させるには、“中国的”な支配者を演じなきゃいけないから、またそれはそれで大変なんだけどね。仏教や道教などのお寺の力も利用しようとした。農民に畑を与えて、大土地をもつ有力者の力が大きくならないように工夫もしたよ。


すべての中国人が遊牧民の支配者に対して納得したんですか?

―そんなことはないよ。
 遊牧民が中国に入ってきて国を建てると、多くの中国人は長江のほうに避難民として逃れていった。手付かずで未開発の地域の多かった長江下流は、このときの亡命中国人によって整備が進んだんだ。

 開発がすすむと、南中国は経済的には北よりもはるかに先進的な地域になっていく。
 このときの混乱によっておびただしい人の命が奪われてしまったのだけど。


南に逃げた中国人は、北の皇帝に従ったんですか?


―ううん、彼らは北に建てられた遊牧民の皇帝を認めず、南で自分たちの皇帝の国を建てていた。


皇帝が二人いる状態になったってことですか?


―だから支配者たちは、「いかに自分たちのほうが完璧な中国文化を持っているか」っていうことをマウンティングし合った。書道とか水墨画とか、「中国っぽい文化」のルーツはだいたいこの時期に確立したんだよ。

 中国人の中には、朝鮮半島方面に移住した人たちも多いね。


どうして中国は朝鮮にこだわったんでしょうか?

―朝鮮は資源も豊富で、貿易の窓口としても重要視されたからだ。

 この時代に日本に移り住んだ「渡来人」(とらいじん)と呼ばれる人々も、出自をたどると中国にたどり着くケースがあるよ。


で、邪馬台国連合って、結局どうなっちゃうんですか? 今の日本とのつながりは?

―そもそも邪馬台国連合は「どこにあったのか」というのは、長年の間、多くの学者を巻き込んで大論争となっていた案件だ。


どうしてハッキリしないんですかね?

―中国の歴史書の中に、邪馬台国連合に至るルートが書かれているんだけど、目印となる国名が現代のわれわれにとって「未知」であるため、解釈が主に2通り生まれてしまったんだ。


 ひとつは北九州説


 もうひとつは奈良県を中心とする畿内(きない)説だ。

 現時点では「明確な答えはでていない」というのが正解だけど、邪馬台国連合とヤマト政権に直接的なつながりがある可能性はかなり高いと考えられている。


実際に九州と畿内には有力者はいたんでしょうか?

九州説をとるならば、邪馬台国連合は伊都国(いとこく。現在の福岡県のインスタ映えスポット糸島にあったと考えられる)とともに北九州の政治勢力を支えていた宗教的な権威の一つであり、畿内エリアの政治勢力との間に朝鮮半島との貿易ルートをめぐる対立関係があったと考えられる。
 そのようにみれば、邪馬台国連合は当時の日本にあった諸勢力の一つに過ぎないことになる。

 近畿説をとるならば、現在の奈良県の三輪山(みわやま)のふもとにある纏向(まきむく)遺跡が、当時の近畿エリアの大勢力であった可能性が高い。

近畿から朝鮮半島と交渉するには、大阪湾から瀬戸内海を通り、関門海峡を抜けて北九州を通る必要性があるよね。

 奈良盆地は、東には伊勢に抜けるルート(下図。現在の国道25号線)を持っているから、東方の勢力(注:狗奴国(くなこく)の勢力と考える人もいる)との関係も取りやすい。


 また西には大阪湾、北には日本海に抜けるルートともつながっている、まさに「交通の十字路」だ。
 邪馬台国連合の中心地が近畿エリアにあったとするならば、この当時にはすでに西日本の大部分をカバーする政治勢力が存在していたことになる。


ちなみに、北九州と畿内エリア以外にも有力な勢力がいたんですよね。

―瀬戸内(注:広島、岡山、香川、愛媛など)の北にある中国山地のさらに北、日本海にのぞむ山陰地方(注:島根や鳥取)にも、独自の政治勢力が存在していたようだ。

どうしてわかるんですか?

―この時代のはじめに、大規模な支配者の個人墓が見つかっているんだ。しかもそのスタイルは独特だった(注:四隅突出型墳丘墓)。島根西部の西谷墳墓群、島根東部の塩津一号墓、鳥取の西桂見墳墓群が知られている。

出雲弥生の森博物館の「四隅突出型墳丘墓」のジオラマLINEトラベルより)

 一時は福井県や石川県の方面の有力者とのパートナー関係も存在していたようだ。

 独特な文化といえば、この時期の広島や岡山の「吉備」(きび)と呼ばれる地方では、大規模な支配者の個人墓に、独特な筒状のフォルムをした壺が置かれるようになっている。

独特な器具(岡山県吉備文化財センターより)


 おそらく儀式をするときにご飯や収穫物を盛り付けて、神様を呼んだのだろう。現代の神社でも「なおらい」という儀式に名残があるね。


地域ごとに特色があったんですね。

―そう。
 でも朝鮮半島の鉄資源をめぐる争いがエスカレートし、畿内の有力者は、北九州や瀬戸内の勢力と交易ルートをめぐり争うことになったと考えられている。
 争いの結果、これら広い範囲の有力者を束ねることとなったのが邪馬台国連合だった。先ほどみたように、その拠点がどこにあったかについては諸説あるのだけれども。

 その宗教的権威であった女王(注:ひめみこ(ひみこ))が亡くなり、その跡継ぎとして女性の王(注:とよ)が即位するころには、奈良県に280メートルもの大規模なお墓(注:前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳)がつくられていた。これは邪馬台国連合の初代女王(卑弥呼)の墓であるという説もある。

 同時期にも岡山県(注:浦間茶臼山(うらまちゃうすやま)古墳)、北九州(注:石塚山(いしづかやま)古墳)で、同じスタイルの前方後円墳がつくられているけど、サイズは奈良のものが最大だ

どうしてお墓に注目するんですか?

―お墓の作り方やお葬式の方法を共有していたということは、「あの世」に対して共通のイメージを持っていたということだよね。仮に別行動ができたのなら、自分たちのやりたいようにお葬式をするはずだ。

 「人が亡くなる」っていうのはとっても重大なことなんだから、それにあたってどんな儀式やお墓をつくるかってことを共有しているってことは、それだけその集団の結びつきや縛りの強さを示していることになるだろう。

 奈良では前方後円墳が現れる前から、山陰地方や吉備地方のお墓のスタイルを受け継いだ「帆立貝形」の古墳が見つかっている。

奈良県に残る帆立貝形古墳の例
(三吉石塚(みつよしいしづか)古墳、奈良県広陵町HPより)

 で、その後の展開を見ると、しだいに奈良を含む近畿地方を中心とする勢力が、西日本の諸勢力をまとめ上げていったのではないかと考えられる。

 一方、当時の東日本では、愛知県から関東にかけて別のスタイルの巨大な墓(注:前方後方墳)がつくられていたんだよ。

邪馬台国連合は東日本の勢力までは支配できなかったんですね。

―で、結局、大戦争に発展したらしい。
 その後、邪馬台国連合側の「前方後方墳」が東日本でもつくられるようになっていったことを考えると、きっと西日本の邪馬台国連合側が勝利をおさめたのだろう。

なるほど。だからその後、西日本から東日本にかけての広い範囲を束ねる有力者は、現在の近畿地方を拠点にしていくわけですね。

―そういうこと。

 はじめは奈良県の北部、さらに大阪の南部に巨大な前方後方墳がつくられるようになる。これらは当時の政権の有力者個人の墓と考えられている。

 この、おそらく邪馬台国連合をベースにして、東日本(注:東北地方の中部)や南九州を含めた広範囲の有力者を服属させた畿内(京都・大阪・奈良にまたがる地域)の政権のことを、「ヤマト政権」と呼ぶわけだ。

前方後円墳の分布の拡大が「証拠」となるわけですね。

―そうそう。少なくともこの時期の後半までには、東北地方の中部までの広いエリアに大型の前方後円墳が現れるようになる。
 「古墳時代」のはじまりだ。
 古墳の上には埴輪(はにわ)が置かれ、土が崩れないように葺石(ふきいし)で舗装され、まわりには濠(ほり)もめぐらされた。副葬品を盗まれないようにするためだろう。

どんなふうに埋葬されたんですか?

―はじめのころは木棺や石棺を、古墳の上に穴を掘る竪穴式(たてあなしき)の空間におさめることが多かった。
 基本的に1つの古墳には、1人しか収めない。
 粘土でまわりを覆うことが多い。
 副葬品の中には中国から伝わった青銅製の鏡(注:三角縁神獣鏡)や、農耕に使う鉄製道具が治められていた。


どうしてでしょう?

―きっと埋葬された地方の有力者は農業に関係する儀式を営んでいた人たちなのだろう。
 農業に使うための鉄や儀式のために使う鏡をもらうため、ヤマト政権の王の権威を認めた。
 その証が「前方後円墳」のお墓のスタイルにあらわれているわけだ。

なるほど。ちなみに当時の朝鮮はどんな感じだったんですか?

―中国北部の混乱によって、朝鮮半島に移住する人も増えているね。

 朝鮮半島の北の方では狩りを得意とする一団が強い国(注:高句麗)をつくっている。

 一方、朝鮮半島の南西部にも国(注:百済)が形成されていて、北から高句麗が攻めてくると、南の日本の勢力とのパートナー関係を築くようになっていった。

 この時期には高句麗の王様が、朝鮮半島に出兵した日本の勢力を撃退したということが、碑文にのこされているよ(注:広開土王碑)。


 このときの「日本の勢力」は、先ほど紹介したヤマト政権の王のことだ。


日本は朝鮮半島なんかで戦っていたんですね! こんな時期に。

朝鮮半島の鉄がほしいわけだよね。
 当時の中国の歴史書(注:『魏志』)にも、朝鮮半島の南東部(注:弁韓、のちの加耶(かや))の鉄資源は「韓・(わい)・倭(わ)、皆従いてこれを取る」と記録されている。

 同時期の日本では、支配者のお墓に武器や馬具が一緒にそなえられるようになっていたんだけど、そのことから類推して、「高句麗のような、武装して馬に乗って戦う勢力は、じつはこの時期の日本を征服していたんじゃないか!?」っていう説も、一時期唱えられたことがある。

 立証ができなかったため、現在では支持されていない考え方だ。


スケールが大きくて面白そうですけどね。

―この時代の歴史研究は、文字の資料が中国側の資料しかないから、のこされた遺物から判断するしかない。
 わかっていないこともまだ多い。
 だからこそ、ちょっとした発見ですべてがひっくり返ってしまうということもありえる。
 いずれにせよ重要なことは、一つの視点だけにこだわるのではなくて、考古学、科学的な年代測定、気候学といった「さまざまな角度からの検証」と、思い込みにとらわれない「柔らかい発想」であると思う。

 で、結局のところ日本は、ユーラシア大陸の騎馬遊牧民の影響を「直接的には」受けずに済んだことになる。


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