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アメリカのルーツをたどろう 史料でよむ世界史 11.3.2 アメリカ合衆国の領土拡大①

2020年のアメリカ合衆国選挙は、民主党のバイデン大統領の勝利という結果に終わった。

今回の選挙で副大統領に当選したカマラ・ハリスさんにも注目が集まっている。

ニューヨーク・タイムズでは見出しで「最初の女性非白人」、本文で「最初の女性黒人大統領」が誕生したと報じている。

彼女はジャマイカ出身の父とインド出身の母を持ち、黒人としてのアイデンティティーだけでなく、インド人としてのアイデンティティーも、自分の出自としてかけがえのないものとして意識しているそうだ。

そもそも「わたしは何者なのか?」というアイデンティティーが、「わたしはどこどこ国の国民だ」という形に強く結びついていったのは、世界史においては19世紀以降の話だ。アメリカでも「誰がアメリカ国民なのか?」をめぐり、19世紀以降、さまざまな出来事を通して議論が形成されてきた。


問い:「アメリカ人」とは、誰のことを指す言葉なのだろうか?


草創期のアメリカ合衆国を通して、その意識がどのように形作られていったのか、読み解いていくことにしよう。

そのルーツをさかのぼる際に確認しておきたいのは、「アメリカ合衆国」という国が建てられた際、それが「どのような国」としてイメージされていたのかという事実だ。
特に、アメリカ独立戦争期からアメリカ合衆国の憲法が制定される過程では、「アメリカ合衆国は、どんな政体にするべきか」「この国にはどんな政体が実態に合っているのか?」ということが盛んに議論されていた。

建国時点においてもかなりの面積を誇っていたアメリカ合衆国。
代表を決めるために選挙をおこなおうとしても、議員や大統領の決め方ひとつとっても、当時としてはまさに前代未聞のプロジェクトだったのだ。

アメリカ合衆国という国がどのような形で構想されたのかを考える上で、スタート地点における議論を踏まえることは、意味のある作業と言える。
さっそく当時の議論に迫ってみよう。

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連邦派と州権派の対立


18世紀末にイギリスの北アメリカにある13の植民地は、アメリカ合衆国(the USA)という独立した国となった。
その憲法ははじめ「アメリカ連合規約」という形のものが取り決められていたのだが、1783年のパリ条約で独立が認められるとその見直しが進められ、1787年にアメリカ合衆国憲法が制定されることとなる(1788年に発効)。
この憲法の制定過程では、「もともと別個に自治権をもっていた「植民地」を、どうやって国としてまとめるべきか?」をめぐり、2つの意見がするどく対立した。

「イギリスなどヨーロッパ諸国に対抗するには、ひとつひとつの元・植民地(ステイト)では対処しきれないことが多すぎる。だから13のステイトの“まとめ役”である連邦政府に強い権限を与えるべきだ。そうしなければ、バラバラになってしまい、せっかくの独立もパーになってしまうじゃないか」と考えるのが「連邦派」。

連邦派の1人、のちの第4代大統領(在任1809〜1817)となるジェームズ・マディソンさんの意見を読んでみよう。


『ザ・フェデラリスト』第10論文(1787年)

「邦(state★1)間の同盟をしっかりした基盤のうえに築き上れば多くの利益が生じると期待できるが、そうした利益のなかでも派閥の活動の暴虐ぶりを打ち破り統制することほど、着実に実現していかなければならないものはない。

民主的な政体を支持する人びとですら、この危険な弊害を引き起こしかねないことを考えに入れれば、この政体の性格や宿命に驚がくさせられざるをえまい。



なるほど。
マディソンは国が派閥によってバラバラになってしまうことを警戒しているんだね。

しかし、派閥が発生するもっとも普通で永続的な源泉は、財産の多様かつ不平等な配分にある。すなわち、財産を持つものと、持たないものとは、社会で異なる利益集団を形成してきた。

うんうん。
お金持ちとお金持ちじゃない人とでは、利害が異なるのはたしかに当然だ。

債権者と債務者とは同じような差別を生じさせている。また土地所有者、商人、それに金融業者は、その他多くの小規模な利益集団とともに文明社会に必然的に現れるものであり、異なる感情やものの見方に突き動かされながら、社会を異なる階級へと分化させている。このような多様で衝突し合う利益集団を規制することが、現代の立法の主たる任務となっているが、それはまた政府の必要かつ通常の運営に党派や派閥の利害関心がまとわりつく原因にもなっているのである。......」

★1 「邦」はのちにアメリカ合衆国を構成するstate(ステイト)のことを指し、現在は「州」と訳される。日本の都道府県とちがって、独立性が強い。
(大下尚一他(編)『資料が語るアメリカ』有斐閣、1989年、48-49頁)


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マディソン大統領(Cited from WikiCommons, Public Domain)


アメリカ合衆国ぜんたいの政府をどんなふうにデザインするかをめぐり、マディソンは「いろんな利害を持つ、さまざまな人たちがいるのだから、それをまとめあげるにはなんらかの手立てが必要だ」と主張するわけだ。


では、どうやったら理想の政体を実現することができるというのだろうか?


マディソンの意見はこうだ。


「先に述べた課題をこのような観点からとらえると、純粋な民主政、この言葉を私はみずから参加して政府を運営する少数の市民が構成する社会の意味で使っているのだが、そこには派閥の弊害を克服する手段はないと結論することができよう。というのは、この政体ではほとんどすべての場合に、全体の過半数の人びとが共通の感情や利益を感じるようになる。......そこには、弱い党派や協調的でない個人を犠牲にしてもはばからない傾向を抑えるものは何もない。
〔中略〕
これに対して、共和国、この言葉で私は代表制を採用している政府を指しているが、これは異なる展望を切り開き、われわれが探し求めている救済措置を約束している。
〔中略〕
民主政と共和政が違う二つの重要な点は、第一に共和政はその他の市民が選出した少数の市民に、政府の運営が委託されていることである。
また第二に、共和政のほうがより多くの市民とより大きい領土を抱えることができる点である。
(第一の点について)...代表が介在することから濾過されることによって、市民の意見は洗練され視野が広められるのである。〔...〕またそれぞれの代表は、領土が小さい場合よりも広大な共和国においての方がより多くの有権者によって選出されるので、これまでの選挙でしばしば見られたように、代表に値もしない候補者がこそくな手段で成功するのはもっと難しくなるだろう
〔中略〕
(第二の点について)...領土が拡大すれば、党派や利益の多様性は増大する。そうなれば、全体の多数者が他の市民の権利を侵害するような共通の利益を持つことも少なくなる(★2)。」

★2 つまり、領土が広いためにいろんな意見をもつ人がいるので、狭い国のように一部の共通利害を持つ人々が多数派を形成し、少数意見を抑圧するようなことは見られないだろうということを言っている。
(大下尚一他(編)『資料が語るアメリカ』有斐閣、1989年、50-51頁)



このように、マディソンは、「民主政」と「共和政」を分けて論じ、アメリカ合衆国に必要なのは「共和政」だと主張した。
マディソンの言葉の扱い方では、一般的な「民主政」は 直接民主政の意味で用い、「共和政」という言葉は間接民主政という意味で用いられていることに注意しよう。


このへんの政治学的な話はちょっと難しいところではあるのだけれど、当時の人たちが「民主政」に対して抱いていたイメージは、現在のわれわれの常識とはちょっと違うようだ。
「民主政」にはどちらかというとネガティブなイメージがつきまとっていたんだ。


こうした議論を見てみると、アメリカ合衆国というまったく新しい国づくりを始める際に、どんな制度をつくれば、さまざまな利害や意見を持つ人々が分断されることなく、同時に意見を吸い上げることのできるまとまりある国がつくれるかどうかということについて、“建国の父” たちが意を尽くしていたことがわかるだろう。
とくに国の「サイズ」が問題とされたり、国のなかに大きな多様性があることが前提となっていたところも興味深いところだ。


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さて、このマディソンらの「連邦派」に対し「いやいや、個々のステイト(州)は、どうやって設立されたかもふくめバラバラだ。個々のステイト(州)の権限を強く残したままのほうがいい!」と考えるのが「州権派」だ。

ジョージ・メイソンという政治家による、憲法草案をヴァージニアで批准することに反対する発言の一部を見てみよう。


「合衆国憲法批准をめぐる論争—— ヴァージニア邦 批准会議から」(1788年)


「議長閣下、本憲法の善悪はとにかく、その条文から、それが全国政府を目指すものであり、もはや連合を放棄したものであることに間違いありません。」

ここでいう「連合」とは、先ほど紹介したように、アメリカ独立戦争中につくられていた「アメリカ連合規約」のこと。要するに ”旧バージョンの憲法“ のことだ。これは中央政府の権限をもっと低く設定したもので、アメリカ合衆国憲法よりもずっと 各邦(state)の独立性は強いものだった。

メイソンは連合規約によってもうけられていた政府について、次のように訴え、新しく制定された「アメリカ合衆国憲法」で規定されているような、連邦政府が各州から徴収する直接税の制度など、ぜったいに必要ないと強く批判する。

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「私は率直に連合規約政府の非効率性を認めるものであります。しかし、連合規約政府がおこなった資金要請は、同意不可能な額であったし、それは、合衆国に存在した金・銀の額を上回るものでありました。」


また、メイソンは連邦派が「素晴らしい」と推進していた代議制度(共和政)についても、次のように批判している。

代議制度(★1)についても、それが十分で、自由なものだと考えることはできません。この欠点は、政府の性質そのものから由来している、と率直に認めねばなりません。全国政府のなかに完全で適切な代議制度をもつことは、不可能でありましょう。それは費用がかかりすぎ、あまりにも実際向きではありません。


なるほど。
代議制度をやろうとしても、こんなに広い国に導入しようとしたらコストがバカにならないよというわけだ。


......代議制度を現実的、実際的なものにするために、代議員の数が適当なものでなければなりません。彼らは、人民と交わり、人民が考えるように考え、感じるように感じなければならず、徹底して人民に従うべきであり、人民の利害と状況を熟知していなければなりません


ここでメイソンは、代議員がほんとうに人民の意見を代弁してくれる存在となるには、どの程度の人数であれば適当かということを考えているのだ。だがそもそも、代議員としてほんとうにちゃんとした人が選ばれるかどうかの保証はないよねという心配もわすれない。

......連邦代議員は、この大陸で一番優れた人びとから構成されるから、彼らの手にわれわれの最も大切な諸権利を託しても差し支えないといわれる。しかし、この連邦議会も、他のあらゆる議会と同じく、善い人物もおれば、悪い人物もいるであろう。

まあ、そうだよね。

......単一の中央集権的全国政府が、このような広大な地域に存続できると、だれが予想できましょうか。私は全国政府と邦政府との間に一線を画すことによって、われわれに適合した政府で、現状のままではどちらかいずれかの政府の破壊に終わるにちがいない、利害と権限の危険な衝突をふせぐことのできる政府が、形成されるように望みます。


★1  先ほどの史料では「共和政」という言葉が使われていた。選挙によって議員を選出し、代わりに話し合ってもらい法をつくってもらう制度。
(大下尚一他(編)『資料が語るアメリカ』有斐閣、1989年、52-54頁)



このような具合に、ジョージ・メイソンは、連邦派の推進しようとしている代議制(共和政)というのは「絵に描いた餅」であり、それを実現させるために必要な要素がそろっていないと指摘するわけだ。

どのようにすれば、この広大な領土を持ち、かつ多様な意見の存在する国において、”みんなの意見“ が反映される政体をつくれるのか」という問題について、とっても本質的で深い議論を積み重ねていることが、この発言から読み取れるのではないだろうか(なお、彼は同時に、アメリカ合衆国憲法に国民の権利を列挙する条項がないことも批判していた)。




彼による反対はむなしく、ヴァージニアでは僅差で憲法草案が承認され、ヴァージニアはアメリカ合衆国の一州(state)になることとなった。


こうした「連邦派」と「反連邦」の対立を経て、合衆国憲法は批准されたのだ。

しかしその後もアメリカ合衆国をどんな政体にするかをめぐっては議論が続く。
たとえば、1800年には「中央政府の力を強めすぎないほうがいい」という主張(反連邦派)をとるジェファソンが大統領に当選し、1801年に就任している。

しかし重要なことは、そのような “政権交代” があったにもかかわらず、内戦や反乱が勃発することはなかったということだ。
敵対する二つの政党は選挙の結果に納得し、アメリカ合衆国の政治体制の“成功の証明”として、ヨーロッパの人々をおどろかせた。

現在のアメリカ合衆国の選挙を見ると、政党による侃侃諤諤のやり合いが、建国当初からの伝統であったかようなイメージを受けるかもしれない。
けれども事実は逆で、建国当初は政党による対立は、むしろ良くないものと考えられていたんだ。
大統領には、ヴァージニア出身の“建国の父”たちが就任し、党派対立の見られない時代(“好感情の時代”)がしばらく続くことになる。


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移民の国 アメリカの原風景


主にイギリスからの移民によって建国されたアメリカ合衆国のアイデンティティは、まさに “移民の国” 。

独立戦争期にトマス・ペインによって著された『コモン・センス』(1776 年)にも

「亡命者を受けとめよ、そして、いつしか、人類の避難所となる準備をせよ。」

というフレーズがあったくらいだ。

“新しいメンバー” の受け入れをめぐっては、規制を強化する動きもなかったわけではないが、独立後にも移住の波は止まなかった。

しかし「移民」といっても、誰もが望んでアメリカの地に足を踏み入れたわけじゃない。その意に反してアメリカに運び込まれた者も多く存在したのだ。
その代表例として真っ先に思い浮かぶのは「黒人」だろう。


しかし、アフリカから黒人を強制的にアメリカ大陸へと運び出す「黒人奴隷制」には、実は、前史がある。
黒人よりも前に、ヨーロッパの白人が過酷な条件の下、「契約」という形で一定期間の労働に従事した歴史があるのだ。

歴史学者の貴堂嘉之さん(1966〜)の文章を読んでみよう。

「フィラデルフィアの新聞に掲載された年季契約奉公人(indentured servants)」 南部タバコ植民地に、イギリス本国出身の年季奉公人が導入された。たとえば 1619 年のジェーム ズタウンでは、オランダ船から譲り受けた 20 名の黒人が「年季契約奉公人」として強制労働に従 事された。しかし1676 年に年季契約奉公人・農民によるベーコンの反乱が起きるなか、17世紀 末までに黒人という「人種」に基礎を置く奴隷制が発達していった。(貴堂2018、26-27 頁)


「契約」というと、なんだかソフトなイメージがあるかもしれないけれど、「契約」が常に自由にむすばれるとは限らない。
南北アメリカ大陸は決定的な人手不足であったため、プランテーションなどでの労働者として年季奉公人制度が採用された歴史があるのだ。

ただ、文章内にあるように17世紀後半に年季契約奉公人の反乱が起きると、

17世紀末までに黒人奴隷制への転換が進んでいくことになった。



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アメリカ合衆国の黒人に対する見方


1776年にアメリカ独立宣言が発表されたことは、すでに見た通りだ。

しかしこの宣言には、実は草稿段階では以下のような文章が挿入されていたことが知られている。

国王(ジョージ3世)は、人間性そのものに反する残忍な戦いを行い、いまだかつて彼に逆らったことのない僻遠の地の人びとの、生命と自由という最も神聖な権利を侵犯し、かれらを捕らえては西半球の奴隷制度の中に連れ込んでしまうか、あるいは運搬の途上にて悲惨な死にいたらしめた。異端な力によって行われてきた恥ずべきこの海賊的な行為は、キリスト教徒たる大英帝国の国王によってなされてきた戦いである。人間が売り買いされなければならないような市場を、あくまで開放しておこうと決意して、この憂うべき取引の禁止ないしは制限を企図したあらゆる法律の成立を妨げるために、彼は拒否権を行使してきたのである。......」(本田創造『アフリカ黒人の歴史 新版』 岩波書店)

文章中の「僻遠の地の人びと」は、アフリカの黒人のことを指す。



この箇所は大陸会議において、否決されることになった。
13植民地のうちの南部に多かったプランテーションの領主や、北部の奴隷貿易商人らの利害が絡んでいたのだ。

独立後の1793年には、アメリカ人のホイットニーという人が「綿繰り機」を発明し、それ以来、黒人奴隷を用いた綿花栽培で、アメリカ南部は活況を呈するようになった。

(参考)綿繰り機について
「綿花には長繊維種と短繊維種とがあるが、深南部などで広く栽培されてきたのは後者であった。実は長繊維種用の綿繰り機はすでに存在しており、ムガル朝治下のインドで開発されたものが導入・改良されていたが、短繊維種には使用できなかった。したがって、短繊維種の場合は手作業で種子と綿繊維とを選り分ける必要があり、ホイットニーの発明以前は一人当たり一日500グラム弱の綿を選り分けるのが精一杯であった。しかし、彼の発明によって、一人当たり一日22.5キログラム超、すなわち45倍もの量を選り分けることが可能になったのである。しかも、綿繰り機の構造は単純で、容易に模倣ができた。それがもたらす帰結は明らかだった。あちらこちらに模倣品があふれたのである。」

鈴木英明『解放しない人びと、解放されない人びと―奴隷廃止の世界史』東京大学出版会、2020年、179頁。




その綿花が大量にイギリスに流れ、産業革命をささえていくことになる。



このように同時代の出来事が連動していることにも注意を払っておこう。


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「自由な農民たちの国」というアメリカのイメージ


一方、その多くが自由な身分であった白人たちも、ヨーロッパからアメリカ合衆国に続々と移り住んでいった。
はじめはイングランド人だけであった民族構成も、オランダ人、フランス人というように、多様化していくこととなった。

ここで、アメリカ独立がパリ条約で国際的に承認される1年前(1782年)に、フランス出身のクレヴクールという作家によって著された『アメリカ農夫の手紙』を紹介しよう。


「ではアメリカ人、この新しい人間は、何者でしょうか。ヨーロッパ人でもなければ、ヨーロッパ人の 子孫でもありません。したがって、他のどの国にも見られない不思議な混血です。

私はこんな家族を知っていますが、祖父はイングランド人で、その妻はオランダ人、息子はフランス人の女性と結 婚し、今いる 4 人の息子たちは 4 人とも国籍の違う妻を娶っています。偏見も、生活様式も、昔のものはすべて放棄し、新しいものは、自分の受け入れてきた新しい生活様式、自分の従う新しい政府、自分の持っている新しい地位などから受け取ってゆく、そういう人がアメリカ人なのです。

彼は、わが偉大なる「育ての母(アルマ・マーテル)」の広井膝に抱かれることによってアメリカとなる のです。

ここでは、あらゆる国々からきた個人が融けあい、一つの新しい人種となっているのですから、彼らの労働と子孫はいつの日かこの世界に偉大な変化をもたらすでしょう。」

(クレヴクール『アメリカ農夫の手紙』第三の手紙、1872 年)


クレヴクール(Crèvecœur)はフランス人で、ニューヨーク植民地に移住して市民権を得た(1765年)。アメリカ人の妻と結婚して農業に勤しんだのだが、独立戦争の際には、イギリス国王派(王党派)に立ったためスパイの嫌疑をかけられ出国。その際、この文章をロンドンで刊行した。その後も“建国の父”の1人フランクリンらとのコネを生かして再度アメリカに渡った。大変な目に遭っても何度も渡米するほど、新興国アメリカの魅力に取り憑かれた男だったのだ。



この文章で彼は、アメリカ合衆国がさまざまな出自の人々を受け入れる寛容さを備えていることを称賛。先見の明があったといえる。
アメリカ合衆国が「自由の気風に満ちあふれた農民たちによって築かれたのだ」というイメージにも大きな影響をあたえた。

いくつか印象的な箇所を引いておこう。

「ヨーロッパの貧しい人びとが、なんらかの方法でこの偉大なアメリカという避難所で、一緒になりました。」


このアメリカでは、あらゆる国籍をもった個人が融合して、一つの新しい人種となっているのです。そして、この人びとの労働と子孫たちが、いつの日にかこの世界に大きな変化をひき起こすことになるでしょう。


この国では勤勉でありすれば、その報酬は、仕事がはかどるにつれて増えていきます。......アメリカ人は、新しい原則に基づいて行動する、新しい人間です。したがって、アメリカ人は新しい思想を抱き、新しい意見を持たなければなりません。

(以上、大下尚一他(編)『資料が語るアメリカ』有斐閣、1989年、24-25頁より)


その後、アメリカ合衆国の自画像は、内戦とさらなる移民の流入を経て、その姿を変えていくことになる。そのことは、続く11.3.3 アメリカ合衆国の重工業化と大国化 で紹介していくことにしよう。



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊