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ゼロからはじめる世界史のまとめ㉔ 1945年~1953年の世界

 全時代・全地域を26ピースに「輪切り」し、人名を使わずに世界史をまとめていくシリーズ。
 今回は世界史のまとめの24ピース目、ちょっと短いですが重要な段階にあたる1945年~1953年の世界を扱います。
 2度目の世界大戦が終わっても、「戦勝国」の連合軍は「平和維持組織」として存続しますが、そのメンバーであるイギリスのステータスが急落、代わってアメリカとソ連が世界の覇権をねらい陰に陽に対立するのですが―。

2度目の大戦争が終わり、核兵器を持つアメリカとソ連の対立がはじまる時代

目次
 0. 1945年~1953年の世界
 1. 1945年~1953年のアメリカ(北→中央→南)
 2. 1945年~1953年のオセアニア
 3. 1945年~1953年のアジア(東→東南→南→西)
 4. 1945年~1953年のアフリカ(東→南→中央→西→北)
 5. 1945年~1953年のヨーロッパ(東→南→西→北)

◆1945年~1953年の世界

ヨーロッパ中心の植民地帝国が崩壊に向かう時代

―未曾有の被害をもたらした第二次世界大戦が、ようやく終わりを迎えた。

虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑(ドイツのベルリン)Photo by Giulia Gasperini on Unsplash



じゃあ戦争が終わって、世界は平和に向かって歩み出せますね!
―まあ、「日本の歴史」を勉強するとそういう印象を持つかもしれないけど…。


違うんですか?
―もちろん改善されたところもある。
 でも、すべてが「リセット」されたわけじゃない。

 変わったことといえば、これは少し前から始まっていたことではあるけれども、まずイギリスやフランスによる「植民地だらけ」の世界(地図)が、さすがにグラグラし始めるということ。
 
 それに代わって、核兵器を保有することに成功したアメリカとソ連が、それぞれの「正義」(注:イデオロギー)を掲げて世界の主導権を握ろうとしていったんだ。


アジアやアフリカの植民地はどうなっていますか?
―この時代には、アジアの一部(東アジアの韓国・北朝鮮、中華人民共和国。東南アジアのフィリピンビルマインドネシア。南アジアのインド、パキスタンセイロン。西アジアのシリアヨルダン)とかアフリカ北部の一部(リビア)で独立が成功するけど、まだ大部分(東南アジアのラオス、カンボジア、ベトナム、マレーシア。アフリカの大部分)は植民地のままの状態だ。

紅茶の産地として有名だったセイロンも、イギリス・グループの一員として独立した。Photo by Asantha Abeysooriya on Unsplash


 独立運動も起きるんだけど、手放したくないヨーロッパの国々や、新たに「子分」にしたいアメリカやソ連が口出しを始めている。


そのアメリカとソ連は第二次世界大戦では同じチームで戦ったわけですよね?
―そうだよ。
 ソ連は途中からアメリカチームに入ったよね。

 当時のイギリスの首相としては、戦争が終わったらソ連とともにヨーロッパを「はんぶんこして、ある程度の支配権を及ぼし続ける予定だった。
 でも、イギリスはすでに戦争「へとへと」だ。

 実際にはアメリカとソ連が戦後のヨーロッパを「はんぶんこ」する形で、にらみ合う体制が生まれるよ。


お互い核兵器を持っていますが、大丈夫なんでしょうか…。
―核兵器の威力は、今までの兵器とは比べ物にならない。
 たった一発で街を消滅させるほどの破壊力を持っている。
 つまり、お互いが核兵器を使って戦争を始めたら、両方とも「自滅」する結果になる。だから、結局「核兵器は恐ろしすぎるがゆえに、使われることはない」「でも、持っていれば相手に対する、これ以上ない威圧になるから「お守り」のようなものとしては有効だ」と考えられるようになった(注:核抑止論)。

 でも、だからといって戦争が起こらなくなったわけではない。
 アメリカとソ連は、真正面から戦うのを避けるようになっただけで、それぞれの「子分」にあたる国や地域をあるときはひそかに、あるときは公然とサポートする形で対決した(注:冷戦)。


なるほど。直接はつばぜり合いしなくても、子分たちに代わりに戦わせると(注:代理戦争
―そうそう。
 でも、両国とも表向きはお互い同じグループ(注:国際連合)に加盟しているから奇妙だ。

 第二次世界大戦のときの「戦勝国」が、そのまま戦後の世界平和を守るための組織(注:国際連合=the United Nations)に発展したんだけど、この組織の中心メンバーになったソ連とアメリカがこうやって対立するものだから、「平和」もクソもなくなるわけだ。


なるほど。ヨーロッパの国々はどういう対応をとったんですか?
―ソ連がドイツから解放してやった地域は、のきなみソ連の「子分」になったよ。
 首都ベルリンを含むドイツの東半分ポーランドチェコスロバキアハンガリールーマニアブルガリアなどだ。
 ユーゴスラビアは自分たちで追い出すことに成功したので、「子分」になるのを嫌がった

 で、そこよりも西のエリアはなんとしてでもソ連の勢力に入らないようにしなければと、アメリカの大統領は考えた。
 そこでアメリカは、公然と「ソ連立ち入り禁止エリア」(注:封じ込め政策)を設定し、お金をばらまいて「ソ連の側につかないよう」に要請した(注:マーシャル・プラン)。


なんだか、第二次世界大戦が終わっても、全然平和になってないですね。むしろ複雑になっている…。
―そうなんだ。
 従来は,


反ファシズム」:アメリカ+イギリス+ソ連+中華民国+ドイツ占領下のフランスなど

ファシズム」:ドイツ+イタリア+日本など


  …という対立構図だったよね。

 それが、いざ戦争が終わってみると、
 アメリカは次のように対立構図を「変更」したわけだ。

自由で民主的な国」:アメリカ+イギリス+中華民国+フランス
 対
不自由な独裁国家」:ソ連

 アメリカは「平和」のためには自由な貿易」ができる環境づくりが必要不可欠だと主張して、イギリスやフランスの植民地の壁を壊し、ドルを中心とする自由なビジネス環境を整えた。
 また、石油の重要性が高まるなか、サウジアラビアに接近して原油の採掘を本格化。このころから、「中東」(西アジア)イコール「石油のとれるところ」「アラブの石油王」という構図やイメージが一般化していくことになる。


西アジアって、もともとイギリスやフランスが進出していたとこでしたよね。
―そこへアメリカが切り込んでいったわけだね。
 新規参入だ。

 ヨーロッパとしては、東からソ連の勢力が広がるのを防がねばならないんだけど、かつてのようにイギリスやフランス一国で立ち向かうことは困難だ。

 ヨーロッパの小国、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクにとったら、もっと怖い状況だ。そこでこの3国は、フランス、ドイツの西半分、イタリアを誘って、集団防衛のためのグループを立ち上げた。
 それでも不安だったので、アメリカを誘って同盟を拡大した(注:NATO;北大西洋条約機構)。アメリカの核兵器の威圧によって、ソ連の核兵器に対抗しようとしたのだ。


なんだかヨーロッパの存在感が薄まっていますね。
―ヨーロッパの国々も、「もう仲間割れしている余裕はない」と考えたわけだ。
 長い歴史を見てみても、ヨーロッパの戦争の発端というのは、フランスとドイツとの争いがきっかけとなっていることが多い。
 そこで、「ヨーロッパ」の国々をひとつにまとめて、対立のない「統一ヨーロッパ」をつくろうじゃないかという運動もはじまるよ(注:シューマン・プラン)。これが今のEUの原型となる。

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◆1945年~1953年のアメリカ

―この時代、アメリカはソ連との対立を深めていく。


ソ連ってアメリカ側で一緒に戦っていたのに、また急な変化ですね。
―「共通の敵」である日本やドイツがいた間はね。
 でも、根本的に「どんな社会をつくるか」っていうところは「真逆」なわけだから。

 ひと昔前ならイギリスがソ連の「対抗馬」だったわけだけど、イギリスにはもはやそんな力はない。
 そこでアメリカの大統領が、「ソ連つぶし」の役を買って出たのだ。


アメリカはどうやってソ連をつぶそうとしたんですか?
―「お友達を増やす」作戦だ。
 当時、ソ連は世界中に自分のパートナーを増やそうとしていた。アメリカもそれに対抗したんだ。
 「お友達」っていっても、実質は「子分」だけどね。

 アメリカが特に重視したのは、中央アメリカや南アメリカだ。
 ソ連がアメリカ大陸にまで「子分」を増やそうものなら、危機的な事態だからね。



ソ連の側に立つ国は出てきたんですか?
―メキシコ、ブラジルやアルゼンチンでは、アメリカに対抗して自分の国の資源を守ろうとする強いリーダーが指導者になっているよ。
 でも、グアテマラという国ではアメリカに対抗する政権ができた。
 アメリカの会社が、大規模なバナナ農園をつくってグアテマラの人たちを苦しめていた結果だ。
 ニカラグアという国では、そんなことが起きないようにアメリカのいうことを聞く軍人一族が、国じゅうの土地を独占している状態だ。

 ちょっとでも「国民の平等を目指す政策」がとられると、アメリカから「ソ連の側につこうとしてるんじゃないか」と目をつけられてしまう状況に、次第に反発も起きるように成っていくよ。

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◆1945年~1953年のオセアニア

オセアニアの島々は日本の占領から、アメリカが解放していったんですよね。
―そうだよ。
 だから、戦後はアメリカが「代わりに」支配するようになっているところも多い。

 この地域はイギリスやフランスが植民地にしていた地域が多かったけど、今回の大戦で両国とも植民地を支配する余裕が次第になくなっていった。

 アメリカは「そのスキをねらってソ連が勢力を拡大するのではないか」と心配した。
 そこでオーストラリアとニュージーランドを誘って、軍事同盟が結成されたんだ。


あれ、国際連合という「世界平和のための組織」があるのに、軍事同盟なんてつくっていいんですか?
―矛盾しているようだけど、これが大戦後の世界の現実だったんだ。
 「世界平和のため」と言っておきながら、さっそくアメリカ・チームとソ連チームの間に「にらみ合い」が起きているからね。

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◆1945年~1953年の中央ユーラシア

―この時期の中央ユーラシアは、大部分がソ連か中国の支配下となっている。

 このうち中国側では一時期、ウイグル、チベット、モンゴルで独立に向けた動きもあったけど、中国共産党が建国した「新しい中国」によって阻止されているよ。

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◆1945年~1953年のアジア

日本は戦争に負けましたね。
―そう。そして、しばらくの間、アメリカの占領下に置かれた。
 アメリカの大統領には、「原爆を落としたことで、日本を早急に降伏させることができた」という意識があったとみられる。



でもどうしてアメリカは単独で日本を占領したのですか?
―北からソ連が下がってきて、日本を占領するのを防ぎたかったんだ。

だから、とりあえずアメリカが日本を占領し、「日本の取り扱い」をめぐることについては「降伏」後もあいまいなままにされたよ。

 日本をアメリカが占領後、東アジアにはソ連の「パートナー」も増え、アメリカの焦りも高まっていった。



たとえばどこですか?
―1つ目は朝鮮半島だ。
 ソ連の占領していた北部と、アメリカの占領していた南部が対立し、別々の国として独立することになってしまった。

 2つ目は、中国だ。
 そもそも中国は、世界大戦ではアメリカとソ連側に立って、日本と戦う選択をしていた。
 でも、戦争が終わってみると、「国づくり」をめぐる対立が起きてしまう。
 「個人の自由な競争を重んじる」アメリカ的な考え(注:中国国民党)と、「個人よりもまず社会全体の平等を重んじる」ソ連的な考え(注:中国共産党)の2グループの争いは、後者の勝利に終わる。

もともと前者の指導者は、結局台湾に政府をうつすことになった。アメリカやイギリスに「中国は頼むぞ」と期待されていたこともあり、アメリカやイギリスは大きなショックを受けたんだよ。



じゃあ、中国ではソ連のように「みんなが平等な社会づくり」が目指されていったわけですね。
―そうだよ。
 経営者や大地主は追放されて、すべての土地や資産は国のものとなった。
 将来的には、みんなが平等な社会をめざそうとしていくよ。

 アメリカが「この動きは“病気”のように伝染していく。どこかで無理にとめなければ」(注:のちの「ドミノ理論」)と焦る中、なんと北の朝鮮が南部を占領する事態が起きてしまう!



困りましたね。
―アメリカは国連の場で事態をおさめようとしたものの、中心グループのひとつソ連が会議に欠席して判断ができない状況となってしまった。
 「平和を守るため」につくられたはずの戦勝国の組織(注:国際連合の安全保障理事会)は、戦後すぐに「機能不全」におちいってしまったわけだ。
 そこで、アメリカ軍が中心になって特別な軍をつくり、北の朝鮮を北に追い返す作戦に出た。アメリカ軍は一時、原爆を使おうとまで考えたけれど、大統領はそれに反対しているよ。


お隣の日本はどんな反応をしていますか?
 日本でも、新しくつくられていた憲法では「軍は持っちゃダメ」と規定されていたけど、「軍じゃない」ことにして実質的に「軍」並みの実力を配備させて、朝鮮の混乱に歯止めを書けさせようとしているよ。

 しかし、朝鮮半島の一般の人たちが命を落とし戦争が泥沼化する中、ソ連側の指導者が亡くなった。
 これがきっかけとなって、戦争の「一旦停止」ムードが高まっていくよ。




◇1945年~1953年の東南アジア

東南アジアから日本が撤退して、ヨーロッパ諸国からの独立は実現できましたか?
―そうカンタンにはいかなかった。
 植民地の「うまい汁」をすすっていた各国は、独立させるにしても、なるべくそのまま「首輪」をつないでおきたかったわけだ。

 例えばフランスの支配していたインドシナは、カンボジアラオスとベトナムを「むりやりあわせた」地域だ。
 とくにベトナムでは独立に向けた運動が激化。ソ連のバックアップを受けた北の指導者が、フランスのバックアップを受けた元・王様と対立し、大戦争に発展(注:インドシナ戦争)。
 戦争はソ連側の指導者が亡くなって、両者が「クールダウン」(注:雪どけ)するまで続けられた。

 オランダもインドネシアを手放したくないがために反乱を鎮圧しようとするけど、戦いの結果独立が認められている(注:オランダ独立戦争)。

 フィリピン(地図)は以前から独立への準備が進んでいたから、比較的早くに独立。ビルマもイギリスから独立できた

 独立がすすまなかったのは、イギリスが「こだわった」マラッカ海峡(地図)の周辺だ。
 特にシンガポールはインド洋と太平洋を結ぶ「重要な通り道」。なかなかすぱっと独立への動きが進まなかった。



◇1945年~1953年のアジア  南アジア

インドはイギリスの「大切な植民地」でしたよね?
―別格扱いだったよね。
 でも、独立運動が盛り上がりを受けて、この時期になってようやく独立を認めた。
 しかし、イギリスが支配していたエリアが「ひとつにまとまって」独立したわけではなく、ヒンドゥー教徒の多い地域とイスラーム教徒の多い地域に分かれて独立することになった。


なんでそんなことになったんですか?
―以前からイギリスの植民地担当部署は独立運動が「ひとつにまとまる」ことを恐れて、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒それぞれが中心とする独立組織が「互いにケンカする」ように仕組んでいた。
 その結果、イギリスが支配していた「インド」は、イスラーム教徒の多い地区(北西側のパキスタンと、北東側の現・バングラデシュ)と、ヒンドゥー教徒の多い地区(今のインドの大部分)に分かれて独立することになってしまったんだ。



◇1945年~1953年のアジア  西アジア

西アジアはどうなっていますか?
―むかしオスマン帝国だったところに、イギリスやフランスが「代わりに支配」していた地域があったよね。
 そこでとてつもない量の「石油が見つかった」ばっかりに、先進国の「ターゲット」になるよ。
 でもさすがに「植民地」をつくるなんて時代遅れだし、イギリスやフランスにもここをソ連の進出から食い止める力も残されていない。
 だから、アメリカはこの地域の国々と同盟を結んで、ソ連の進出に備えたんだ。



なるほど。アメリカの進出に対して、住民たちは一致団結して立ち向かうことはできなかったんですか?
―パレスチナ(地図)という地域にイェルサレムという町がある。
 ここには大昔にユダヤ人の建てた神殿の跡もあるし、キリスト教のイエスのお墓や、イスラーム教の開祖が天国にのぼったとされているところもある。

ユダヤ教徒にとって深い意味をもつ嘆きの壁。検問をくぐって右下に見える通路をすすむと、一段高いイスラーム教徒向けの敷地に入れる。Photo by Josh Appel on Unsplash


いろんな宗教にとって大切な場所だったんですね。
―そうだよ。
 昔オスマン帝国の支配下だったときには、どの宗教の「持ち物」でもなくゆる~く支配がされていたんだけど、この時代にユダヤ人のグループのひとつが、この場所に「ユダヤ人の国」を建国してしまうんだ(注:イスラエル)。
 それに対してアラブ人は一致団結してユダヤ人を追い出そうとしたけれど、失敗(注:第一次中東戦争)。たくさんの「家を失った人」(注:パレスチナ難民)が発生してしまった。


国際社会はどんな反応をしたんですか?
 アメリカやヨーロッパ諸国はどちらかというとイスラエルの側に好意的だったから、アラブの人たちの反感を買っている。

 そんな中、エジプトでは王様が軍人に倒されている
 イギリスをはじめとする外国との仲のいい王様を追い出して、「アラブ人の国」をつくろうとしたんだ。
 「アラブ人をナメんな」ってことだ。

 一方、イランがどうなっているかもみてみよう。
 アメリカやイギリスはソ連が南に下がってこないように、イランの国王と協力してイランに埋まっている石油を確保しようとしていた。
 それに対してイランの首相は「イランの石油はイランのものだ!」と宣言したけれど、アメリカの作戦によってこの首相は退陣させられてしまった。これ以降イランは、アメリカに対してはむかうことができなくなっていくんだ。


西アジアはみごとにバラバラって感じですね。
―そうだね。
 おなじアラブ人であっても、国ごとにバラバラになってしまっている。
 これもまた、アメリカ側の作戦でもあるよ。
 とくにサウジアラビアの王様はアメリカとの関係を良好に保って、石油を輸出してボロもうけしていくことになる。「アラブの石油王」のイメージはここからだ。

なんだかせっかく独立できたのに、どんどん分断されていくんですね…。

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◆1945年~1953年のアフリカ

―ドイツと日本とイタリアのグループを破った後、「勝ち組」の中心となったのはアメリカとソ連だ。


イギリスやフランスは…?
―戦争で疲れてしまって、もうへとへと。体力がないんだ。
 そこでアメリカもソ連も、「イギリスとフランスが世界中にもっている植民地を、いかに解放させるか」ということを考え、両国を含めヨーロッパ諸国に植民地を「手放す」ようプレッシャーを与えた。



独立運動も活発しそうですね。
―その通り。
 でも、植民地を「ベース」に新しい国をつくるにしても、もともとあった国や民族の境界線とは一致しない
 そうなると、植民地にいたいろんな民族が新しい国の実権を握ろうと「競合」する事態になる。
 それに、国づくりにはお金が必要だから、資金を提供してくれる「親分」に頼らざるを得ないところもある。



どうしてですか?
―植民地はヨーロッパ諸国だけが得するように経営されていたから、「住民のことを考えた国づくり」はほとんどなされていなかったんだ。
 例えば、道路、病院、水道、学校などなど。

 まだこの時期に独立できたのは、イタリアの植民地だったリビアくらいだけど、この先アフリカの人たちには過酷な試練が待ち受けているよ。

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◆1945年~1953年のヨーロッパ

―ソ連は「2度目の大戦」ではじめはドイツの側に立って戦ったけど、途中で「寝返って」、イギリスとアメリカ側についた。



どうしてですか?
―序盤はドイツと組むことで、とれるだけの領土をとった。でもドイツが負け気味になると、こんどはイギリス・アメリカと組んでドイツを「はさみうち」にしたほうが、もっと領土が取れると計算したわけだ。

でも、国の「設定」はソ連と、アメリカ・イギリスとでは大違いですよね。
―そうだね。

◆ソ連とアメリカの「設定」の違い

 ソ連は、「人間の世の中は、みんなが平等な国になるべきだ」ということを「正義」に「設定」し、「社会全体」を重視して特定の個人に「持ち物」や「手柄」が集中するのを認めなかった

 アメリカは、「人間の世の中は、みんなが自由に個性を発揮できる国になるべきだ」ということを「正義」に「設定」し、「個人」の自由な競争を認めた。



それぞれ「いい考え」に思えますが…
 一見そう見えるけど、どちらにも「欠点」はある。

ソ連のやり方だと、「社会全体」が重視される代わりに「個人」の自由はおさえこまれる。

一方、アメリカのやり方では「個人」の自由を大切にするあまり、「社会全体」の平等は保障されにくい。

 ただ、戦後のヨーロッパでは、どちらも「新しい時代」にふさわしい魅力的な考えにうつったわけだ。



じゃあ、ヨーロッパはこの2つの考えのうちのどちらかを受け入れていくわけですね?
―そう。
 西のほうはアメリカの影響力が強く、東はソ連の影響が強かった。
 ドイツを追い出して解放することができた土地では、ソ連の影響力が強まったわけ。



イギリスはどうなっていますか?
戦争を率いた首相はすでに選挙で負けて引退し、労働者の支持を得た新しい首相が、国民の福祉を最優先に考えた政策を進めている。
 会社を国有化したり、生まれてから死ぬまで国が安心を保障したりと、至り尽くせリだ。


ではドイツはどうなっていますか?
―西側はアメリカ・イギリス・フランスの3か国が、東側はソ連が「分割して」占領することになった(地図)。国がバラバラになってしまったわけだ。
 でも首都は東側に位置していたから、首都は首都で東西に「分割して」支配されることになった。



なるほど、それで「ベルリンの壁」が作られたんですね。
―それはもうちょっと後の時代。この時期にはまだない。
 ただ、さっそく東西の対立が深刻化して、戦争に発展するんじゃないかというところまで行ってしまった(注:ベルリン封鎖)。
 でも、なんとかギリギリおさまったんだけど、ドイツは結局「東のドイツ」と「西のドイツ」の「2つのドイツ」に分かれてしまう結果になってしまったよ。

 こういう深刻な対立は、ソ連側の最高指導者が急死するまで続くことになる。

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