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同時に学べる!世界史と地理Vol.14 800年~1200年の世界

いったんバラバラになった世界が再びまとまる時代②

歴史:前の時代から、広い地域をまたぐ“まとまり”が各地で生まれていたわけだけど、この時代にはその“まとまり”の中でも各地でいろんな“個性”が生まれていく時代だ。

 たとえば、ヨーロッパではキリスト教の考え方が正義とされたわけだけど、各地の支配者によって細かい部分には差が生まれている。
 西アジアから北アフリカにかけてのイスラーム教、インドのヒンドゥー教、東アジアの仏教や儒教なども同様だ。

どうして広い範囲をまたぐ“まとまり”が生まれていったんですか?

地理:この時期になると、場所によって差はあるけれども、地球の気候が比較的暖かくなっていったと考えられている。ただし、この時代が果たして今よりも暖かかったのか寒かったのかについては、議論が続いている

広い範囲を一人の支配者がコントロールするのは、難しいですよね。

歴史:そうだね。逆にいえば、狭い範囲だけでも十分強い国がつくれるようになっていたってことでもあるんだよ。
 この時代は世界的に気候が暖かかったといわれていて、人々の交流も盛んになった。人と人の出会いが増えれば増えるほど、知識や情報もさまざまな人の共同作業によって発達するよね。技術が発達して、各地で開発がすすんだ時代でもあるんだよ。


なるほど。遊牧民の活動もさぞかし積極的だったんでしょうね。

歴史:その通り。遊牧民の場合は、牧草地が日照りにより被害を受けたために移動したのではないかとも考えられている。

 この時代には「トルコ系の言葉」を話す遊牧民がユーラシア大陸の広い範囲に移動して、定住民の世界で国をつくっているよ。遊牧民と定住民のコラボレーション国家だ。

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●800年~1200年のアメリカ

歴史:この時代には気候が温暖になっているね。

地理:北アメリカの北部の氷におおわれた世界で、イヌぞりを利用し氷でつくった家(注:イグルー)に住んで、アザラシやセイウチの狩りをして暮らすグループが勢力範囲を広げる。現在にもこの地域に暮らすイヌイットという人々のご先祖だ。

歴史:気候が暖かかったおかげで、ヨーロッパのアイスランドという島からはヴァイキングというグループの一派が、船に乗って北アメリカにたどり着いているよ。

アイスランドって、かなり北のほうにないですか? さすがに寒いですよね。

アイスランドセリャラントスフォス)Photo by Alex Lopez on Unsplash

地理:ヨーロッパって、ユーラシア大陸の西のすみっこに位置するよね。
 ちょうどその西側の海に、暖かい水が赤道のほうから北に向かって流れているんだ(注:北大西洋海流)。

 海の影響って、けっこう大きい。

 その上を1年を通して西から東に風(注:偏西風)が吹くので、ヨーロッパでは北極に近いところでも、かなり温かい気候になるんだよ。
 雨も適度に降るし、年間を通しての気温差も小さいから過ごしやすいんだ。夏でもいちばん暑い月でも平均気温は22℃を超えないし、冬でも温かい(注:西岸海洋性気候ケッペン式の気候の区分けではCfbという記号で示す)。
 夏にめちゃめちゃ暑くて、冬は超寒い日本(注:温暖湿潤気候、Cfaという記号で示す)とは大違いだ。


逆に言えば、今まではヨーロッパから北アメリカへは人の移動はなかったんですね。

歴史:おそらくね。北アメリカにはヴァイキングの生活した跡が残っている。
 この時期にはグリーンランドの沿岸にも、ヴァイキングの集落ができているよ。

地理:グリーンランドは雪や氷におおわれ、一番暖かい月でも平均気温が0℃を上回らないほどさむーいエリア(注:氷雪気候、EFという記号で示す)なんだけど、当時はそれぐらい気候が暖かったようだ。
 冬に太陽が地平線上にあらわれない現象(注:極夜(きょくや))が、夏には一日中太陽が沈まない現象(注:白夜(びゃくや))がみられるのも、北極に近いこの地域だ(同じように南極でもみられる)。


 強い風が吹くと地吹雪(注:ブリザード)になるから大変だ。

歴史:一方、北アメリカの乾燥地帯では都市が大規模になって、巨大な建造物もつくられている。東のほうの大きな川の流域でもお墓のサイズが巨大化しているから、支配者のパワーが強くなった証拠とみられている(この時期にトウモロコシ栽培が本格化したようだ)。

北アメリカの南の方のマヤ文明は、伝統的な都市が見捨てられて、中心が移動していましたね。

歴史:その通り。マヤ文明の中心は従来よりちょっと北に移動している。外から別の民族の侵入があったのかもしれないともいわれているけど、記録が少ないのでなんともいえない。
 メキシコの高原地帯ではいくつもの国が建ちならび、“戦国時代”のようになっているよ。この中から次の時代のアステカという大きな国が生まれることになるんだ。

南アメリカはどうですか?

歴史:いままでの歴史:の中では最も広い範囲を支配する国が出現している。どれもアンデス山脈のあたりの国で、標高の違いを利用して“海の幸”“山の幸”などバラエティ豊かな特産物をコントロールしていたようだ。
 高い技術でアクセサリーや建物がつくられていたけど、鉄や車はつくられていないよ。

地理:服はアルパカのような山で飼われる動物の毛からつくられているね。山の天気は昼と夜の気温差が激しいから、天候の急変にも対応できるようにポンチョという服を身にまとっているよ。

「対応」できる?

地理:穴のあいているマントだから、ひょいっとかぶればすぐに装着できるんだ。

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●800年~1200年のオセアニア

歴史:この時期のオセアニアでは大きな建物がつくられ、島々を支配するリーダーも現れている。

 とくに火山島では強力な支配者も現れている。

どうしてですか?

地理:そもそも小さな島では土地や資源に限界がある。
 でも火山によって形成された島なら、火山灰には植物の栄養が含まれているから、工夫すれば食料の大量栽培も可能だ。

 人間は気候によって完全に決定される存在ではなく(注:環境決定論)、「みずから気候を逆手にとって対応できる存在」でもあるからね(注:環境可能論)。

 でも、規模はユーラシア大陸の農業とは全然違う。
 それに匹敵するようなパワーを持つ支配者はそうそう出てこない。

 場所によっては足りない物資を、一定の決まりにしたがって島を超えて交換するところもあったよ。

ところで、オセアニアの人たちの拡大は続いているんですか?

歴史:この時期にはなんと北はハワイ、東はイースター島にまで到達したと考えられている。
 アウトリガーカヌーをもっと大きくした船によって、計画的に植民がおこなわれれた。ちなみにあの有名なモアイ像がイースター島で作られ始めるのもこの時代だよ。

歴史:日本が平安時代(貴族の時代)から鎌倉時代(武士の時代)に変わろうというときに、太平洋ではこんなことが起きていたんだね。

オーストラリアはどうなっていますか?

歴史:毎回同じこと言うけど、オーストラリアは、まだ外部との接触がない。
 先住民のアボリジニーは、狩りや採集による生活を続けている。
 自然の中で自然とともに暮らしてきた文化は、現在になって再評価されるようにもなっている。

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●800年~1200年の中央ユーラシア

この時代に地球が温暖化したことの影響はありますか?

地理:ユーラシア大陸の内陸部では、日照りが起きて牧草が不足したようだ。
 実際にこの時期のモンゴル高原は勢力争いが激しくなっているね。

温暖化によってヨーロッパや北のほうがで経済が発展したのとは大違いですね。

地理:そうだね。場所によってどのように影響が現れるかは異なるから、一概にいえないところには注意したほうがいい。

モンゴル高原で勢力を握ったのはどんな人達ですか?

歴史:この時代の草原地帯の主役は「トルコ系の言葉」を話す遊牧民たちだ。
 もともとモンゴルのあたりで活動していたんだけれども、しだいに西へ西へと移動して、各地で定住民エリアを支配する国をつくっている。

地理:定住民を支配しても、ライフスタイルほとんど変わらない。
 羊の毛を圧縮してつくった生地(注:フェルト)から組み立て式のテント(注:ゲル)をつくり、移動生活をしているよ。

フェルトのつくりかた。

歴史:彼ら「トルコ系の言葉」を話す遊牧民は、西のほうでは広範囲で“正義”とされていたイスラーム教を柔軟に受け入れ、もともと活躍していた「イラン系の言葉」を話す人々とも張り合っている。
 また、高い軍事的な才能を生かして、各地の王様の下に「雇われ兵士」として仕えた(注:マムルーク)。スキをねらって王様を倒し、国を乗っ取った者も出てくるよ。

 なお、インドの北のほうの高原地帯ではチベット人という民族が広い国を作り、「トルコ系の言葉」を話す遊牧民(注:ウイグル)とともに中国の皇帝の国に対抗している。

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●800年~1200年のアジア

○800年~1200年の東アジア

歴史:この時代には、黄河流域を中心に広いエリアを支配していた大きな国(注:唐(とう))の支配が弱まる。
 各地で開発が進み、唐のいうことなんて聞かなくてもやっていける有力者が現れるようになったからだ。

国内が分裂すると、周りの民族にとってはチャンスですね。

歴史:そうだね。
 東アジアでは、中国の皇帝が陸でも海でも「警察官」みたいな役割を果たしていたからね。
 中国の皇帝のパワーがなくなると、かえって東アジアは混乱してしまう。

結局どうなるんですか?

歴史:唐という国が滅ぶと、各地の有力者が自分たちの国を建てて栄えるよ。
 黄河流域では唐を受け継いで「皇帝」を名乗る国が現れるけど、支配層には遊牧民出身者も参加していたんだ。

 また、南の方では北の皇帝のいうことをきかない国が多数建てられて、なかには「皇帝」を名乗る国もあったよ。

 結局、北の軍人が「皇帝」として混乱をおさめ、宋という国を建てた。宋は南の方も含めて統一したけど、東アジア各地の民族たちは完全に宋をナメきっている。

そりゃそうですよね。こんな有様じゃ…

歴史:宋は、かつて広い範囲を支配していた「過去の栄光」にすがろうとするけど、現実はめちゃめちゃ弱いし領土も狭い。
 しかも、北からは遊牧民が貿易や土地を求めて頻繁に挑発してくる。
 遊牧民の支配者たちも「自分こそが中国の皇帝だ」と主張するものだから、事態は面倒だ。

南の方をコントロール下に置いたとしても、他にまだ「皇帝」を名乗る国があるんじゃ、
「統一」もくそもないじゃないですか。

歴史:ほんとそう。

 中国の南の「経済力」に頼るほかなくなるわけだ。
 長江流域ではたくさんお米がとれるし、巨大な港町がいくつもあって貿易がさかんだ。
 中国の皇帝は「欲しいものならあげるから、お願いだから手は出さないでくれ」と、周りの民族にお願いをしてその場をしのいだ。

かなり下手(したて)に出ていますねえ。

歴史:でしょ。
 ベトナム、朝鮮、日本などの支配者も、この時代には中国とは今までよりも“距離”をとって活動ができるようになっているよ。


日本では「国風文化」が栄えますよね。

歴史:そうそう。「ひらがな」が漢字からつくられるのもこの時期だ。
 気候も温暖になっていることが、当時の天皇主催の「お花見」の記述からおおよそではあるけれども推測できる。

 また、この時期には西日本の天皇を中心とする日本の勢力が、東北地方を北上していった
 東北地方には弥生文化が広がらず、独自の文化を持つ人たちの生活が続いていた。

 各地に荘園(しょうえん)という私有地がつくられて、開発が進展。
 しだいに、西日本の天皇のいうことを聞かない大土地所有者も現れてくる。
 東北地方に役人として派遣されていた指導者も、勝手に「独立」した国をつくろうとしていたくらいだ。

それくらい、北のほうの人々の活動も活発になっていたんですね。

歴史:そのようだ。
 この時期には気候が高くなり、北海道の北にある海(注:オホーツク海)を中心に、クジラやアザラシの漁などで生活する人の文化が営まれていて、東北地方との交流もあったようだ(注:オホーツク文化)。

 一方で、西日本の政権はおりからの自然災害や日照りもあって、次第に勢力を弱め、「武士」を中心とする政治の中心は東日本の鎌倉に移ることになっていった。
 人々の不安な気持ちの受け皿となったのが、中国から伝わり日本風にアレンジされた「庶民向けのわかりやすくシンプルな仏教」(注:鎌倉仏教)だ。


○800年~1200年のアジア  東南アジア

歴史:大きな川のある場所では、有力者が中国の進出をブロックする動きも起きている。特に、中国が支配のために軍隊を派遣していたベトナム北部では、土地の有力者が中国を追い出すことに成功。
 西アジアでイスラーム教徒によって広い国が生まれると、ひっきりなしにビジネスマンが船で訪れるようになっている。東南アジアに行けば特産品のスパイスが、中国製のシルクや食器といったヒット商品が手に入ったからだ。

南の島のほうにある港町も栄えていますか?

歴史:現在のインドネシアには巨大な仏教モニュメントが建設された。おそらく東南アジア一帯の貿易を一挙ににぎった王様が、自分のパワーを誇って尊敬を集めるために仏教の「ふしぎな力」を利用したのだろう。

 これだけ巨大なものがつくれた背景には、この時期に農業が非常にさかんになったことがある。
 現在のインドネシアのあたりには大きな火山がたくさんあって雨も多いので、米づくりに適していた。
 内陸で広い田んぼを支配下においておけば、港町のホテルに船乗りやビジネスマンがたくさん滞在しても、十分な量のお米をレストランに提供できるわけだ。

港町だけではなく、お米の産地も支配下に置くことで、支配者はさらにリッチになっていったんですね。

歴史:そうだよ。通行料や入港料をとり、貿易をコントロールして栄えたわけだね。
 安全に貿易してもらうためには「海賊」退治が大切だ。重要な海上ルートをめぐって、各地の支配者はしのぎを削ったんだ。

 いくつもの港町が力をあわせて同盟し、“親分”である中国の皇帝の「お墨付き」を得るために使いを送ることもあった。

当時の東南アジアは貿易の「先進地帯」だったんですね!

歴史:ユーラシア大陸の東にある中国と、西のほうの世界を結ぶ役割を果たしたんだね。
  “お隣さん”の南アジアからも、東南アジアの王様もコントロールを及ぼそうと軍隊を送っている。

 それに対抗した東南アジアの強国がカンボジアの王国だ。この国の王様は西はベトナム、東はタイのほうに進出し、大きな川の流れをコントロールして巨大なため池を建設し、大量の米を生産することのできる大都市をつくった。そのど真ん中に建設した巨大なお寺がアンコールワットだ。

 西のほうではビルマでも王様がお米の生産と貿易をコントロールし、仏教を保護することでパワーと尊敬を集めたよ。


○800年~1200年のアジア  南アジア

南インドは東南アジアの”お隣さん”だから貿易が盛んなんですね。

歴史:そうだ。広い範囲を統一する国はあまりなく、各地で港町や畑を支配した国々が発展している。

バラバラ」って、必ずしも「めちゃくちゃ」っていう意味ではないんですね。

歴史:そうだよ。「バラバラ」でもやっていけるほど、開発が進んでいるということでもあるからね。それぞれの地域の個性も磨かれていくよ。この時代にはヒンドゥー教の聖地巡礼がブームとなって、インド各地で人の移動も盛んになる。

北のほうはどんな感じになっていますか?

歴史:仏教やヒンドゥー教を保護する支配者が領土をめぐって競っているよ。
 そんな中、西のほうからはイスラーム教を旗印にインドの人々を支配しようとした軍人が進出してきたから大騒ぎだ。今でもインドにイスラーム教徒が暮らしているのは、これがルーツなんだよ。


○800年~1200年のアジア  西アジア

歴史:西アジアでは「イスラーム教徒」という共通点の下、各地で支配者が個別に活躍するようになっています。


イスラーム教徒の「まとめ役」はいなかったんですか?

歴史:開祖の「代理人」であるカリフという「まとめ役」がいたんだけど、みんな言うことを聞いている「ふり」をするようになっていった。

 とくに草原地帯からは「トルコ系の言葉」を話す遊牧民が移動してきて、「イスラーム教を守るから言うことを聞け!」とあちこちに国を建てるようになったんだ。でも彼らは定住民を支配することには慣れていなかったから、書類仕事は「イラン系の人々」に任せた。

イスラーム教という「共通点」に合わせて、いろんなバックグラウンドをもつ人たちが協力をしていたわけですね。

歴史:そういうこと。
 別々の場所でみんながてんでバラバラのことをやっているよりも、「共通点」をもとにまとまっているから、いろんな分野でコラボレーションが進んでいく。だから、学問も芸術も発展していくんだ。
 西アジアには昔のギリシャ人やローマ人の研究所がたくさん残されていたから、彼らのハイレベルな研究を下敷きにしたので、ゼロから研究する手間も省けたわけだ。

なるほど。ギリシャやローマというと“お隣さん”のヨーロッパが受け継いでいるイメージがありますが…。

歴史:じつは当時のヨーロッパの人たちは、キリスト教の考え方に縛られていて、ギリシャやローマの時代の自由なものの考え方をおおっぴらに研究することが難しかったんだ。
 そんな中、ヨーロッパの人たちは人口拡大に対応して、イスラーム教徒の暮らす地方に「十字軍」と呼ばれる大遠征を始めていたんだけど、そこでヨーロッパ人が出会ったのは、びっくりするほどハイレベルなイスラーム教徒たちの研究成果だった。

 イスラーム教徒たちのレビューの★の多さを思い知ったヨーロッパの学者たちも、イスラーム教徒の本をせっせと翻訳し始めていく。これがのちのヨーロッパの科学の発展につながっていくんだよ。

ヨーロッパの科学の発展はイスラーム教徒のおかげだったんですね!




●800年~1200年のアフリカ

歴史:東アフリカでは、イスラーム教徒が貿易をしに南へ下がってきている。インド洋の沿 岸には貿易商人の集まる大都市として発展しているよ。

アフリカの中央部から東や南に移動していたバントゥー系の人たちはどんな感じですか?

歴史:よく覚えているね。日本人からみると「黒人だ。」って単純な判断になっちゃうけど、実はいろんな民族に分かれて、アフリカの東や南に広がっているよ。
 牛などをサバンナの草原地帯で放牧して、もともといた狩りや採集をして暮らしていた人々を追いやりながら、南へ南へ移動している。

 彼らは「眠り病」という怖い病気を広めるハエが分布しない安全な所を探して移動していった結果、アフリカの南東の高原地帯は住むのに都合がよいということで、大きな町ができていったよ。金や象牙がとれるから、これを川の下流にある港町に輸出してリッチになる王様も現れたんだ。


西のアフリカはどんな感じですか? まだサハラ砂漠を超えたゴールド(金)と塩の貿易はやっていますか?

歴史:よく覚えているね。
 ラクダをつかった塩金貿易は、サハラ砂漠を流れる“一本川”(注:ニジェール川)流域の王様がコントロール下に置いていたんだけど、この時期にサハラ砂漠の北にいた遊牧民(注:ベルベル人)がの一派が攻めてきて、貿易ルートを支配下に置いたんだ。これ以降は、サハラ砂漠の南のほうにまでイスラーム教が広がっていくよ。


エジプトはどうですか?

歴史:イスラーム教の多数派にとってのリーダー的存在を「カリフ」といったよね。開祖の「代理人」という意味で、イラクにお住まいだった。

 でもこの時期にはカリフがイスラーム教徒からもナメられるようになっていて、エジプトでは「われこそがカリフだ」と、カリフを名乗る支配者が現れるようになっていて。それだけエジプトには国力があったわけだ。

どうしてエジプトには国力があったんでしょうか?

歴史:まず、位置がいいよね。
 地中海(ヨーロッパ方面)とインド洋(アジア方面)を結ぶ中間地点にある。このころから輸出用サトウキビの栽培も始まったことも後押しになっているよ。

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●800年~1200年のヨーロッパ

歴史:この時期のヨーロッパを一言で表すと「拡大」だ。


温暖化(注:中世温暖期)も関係しているんですよね。

地理:そうだね。大麦やブドウの栽培地域は北に広がり、経済が発展。人口が増えて 森に覆われていたヨーロッパでは、あちこちで森林伐採がすすみ、畑が広げられ人口も増えた。
 ドイツからは計画的な植民が進められ、道沿いに新たな村落が建設されていった(ドイツ東方植民)。


暖かいだけで農業の生産はアップするんですかね。

地理:もちろん、農業技術の発展もあった。
 従来は畑を2つの部分に分けて、作物を育てるところと土地を休ませるところとしていたんだけど、この時代のフランスの北部では土地を3パートに分けてローテーションする方法が編み出された(注:夏作物と冬作物と休ませるところの3つに分ける三圃制(さんぽせい))。

 ヨーロッパでは畑を耕す動力として家畜の力が用いられた。三圃制によって家畜も効率よく飼いながら農業することが可能になっていくよ。
 こういう技術が発展したのは、当時の気候が暖かくなっていたこと(注:中世温暖期)も関係している。


そうなると、今までヨーロッパで活躍していた民族とは違う、新しい人たちも登場しそうですね。

歴史:そうだね。今まではローマ人とかゲルマン人だったよね。
 この時代には東のほうから、現在のロシア人のルーツであるスラヴ人とか、スウェーデンなどの北欧の人たちのルーツであるノルマン人といった人たちがヨーロッパに入ってくるよ。

ノルマン人ってどんな人ですか?

地理:北ヨーロッパの寒い地方で生活していた人たちだ。ルーツはゲルマン人に近い。
 山からゆっくりと落ちてくる氷の塊によって削り取られることによってできた谷(注:フィヨルド)に小さな港町をつくり、夏の間は農業を営み、季節によっては船に乗って遠くまで移動した。
 この時代の北ヨーロッパには、西アジアのイスラーム教徒の使っていた銀も見つかっているし、グリーンランドを経由し、なんと北アメリカにまでたどり着いていたことがわかっている。

 別名はヴァイキングだ。日本でいう「食べ放題」(バイキング)とは関係ない。
 彼らはイギリスやフランスの川の「ラッパ型」の河口(注:エスチュアリー(三角))をさかのぼり、貿易が成立しない場合には略奪行為も働いて恐れられたけど、しだいにキリスト教に改宗していく。今のスウェーデン、ノルウェー、デンマークはどれもヴァイキングをルーツとする人たちの国だけど、どの国旗にも十字架のデザインがあるよね。

歴史:もちろん「これがヨーロッパ人の基準だ!」という縛りはないわけだけど、この時代にはこれら「新入り民族」たちは、こぞってキリスト教を社会の“正義”として受け入れ、文字としてローマ字のアルファベットを使い出す。
 キリスト教をゆるーい「つながり」というか「共通項」として、それぞれの「民族」の違いを超えてヨーロッパという「まとまり」がだんだんと広がり、人間の世界を超える「絶対的な価値観」が共有されていった時代といえるね。

支配者はどんな人たちだったんですか?

歴史:はじめはゲルマン人という民族の一派であるフランク人の王様が、今のフランスとドイツとイタリアを足したエリアをひろーく支配する国を支配していたよ。
 強さの秘密は、ローマを本部とするキリスト教を保護したことにあった。

ローマを本部とするキリスト教はどうしてフランク人の王様に保護してもらったのですか?

歴史:このころになるとキリスト教はいくつもの教会に分かれていて、そのうち一番発言権の強い教会のひとつはコンスタンティノープルというヨーロッパの東のほうの大都市にあったんだ。
 ここは由緒ある町で、これまた由緒正しいローマ帝国(東西に分かれたうちの東側)の皇帝が直接支配していたから、実力も十分にあった。

 それに対してローマは当時はもはや辺鄙(へんぴ)な“ど田舎”の町に成り下がっていた。でもローマの教会にも歴史とプライドがあるし、コンスタンティノープルの教会とは教義面でもモメていた。
 だからローマの教会の親分は、フランク王国に泣きついたんだ。
 でも、そのフランク王国はカリスマ的な王様の死後、分裂する。それが現在のフランスとイタリアとドイツのもとだ。

 跡継ぎ国家では血筋が重んじられたけど、乳児死亡率の高い当時、スムーズに跡継ぎを残すことは難しく、国によっては有力な家柄が王様を担当するようになっていった。

王様はどうやって国内を支配したんですか?

歴史:王様は家来たちに住民と土地を与え、外から敵がやって来たときに自分に忠誠を誓わせようとした。
 でも実際には言うことを聞かない家来も多く、決して王様の力は強いとはいえないよ。とくにドイツの王様は国内の有力者をまとめるのにもひと苦労で、「自分が偉い」ことをアピールするために、ローマの教会に「キリスト教徒の世界のリーダー」であることを認めてもらおうとした。


ドイツ人なのに、キリスト教徒の世界のリーダーなんですか?

歴史:まあ、そんなことしたらフランスとかイギリスとか、周りの国の王様は良くは思わないよね。だからローマのキリスト教会が「イスラーム教徒と戦うから、兵隊募集!」と声を上げると、各国の王様はわれ先にと戦場に向かったよ。
 手柄を立てて、ローマ教会にほめてほしかったわけだね。

 混乱ぎみの西ヨーロッパに比べ、ヨーロッパの東のほうでは商業も盛んだった。東のほうからは遊牧民などがしょっちゅう侵入してきて、各地で国を建てているよ。
 ブルガリアとかセルビアとかハンガリーとか、今につながる国のルーツになっている。
 また、北ヨーロッパから貿易ルートを求めてノルマン人も南に下がってきている。
 当時の貿易の中心がアジアのほうにあった証拠だね。

 彼らはローマの教会ではなくて、コンスタンティノープルに本拠地のあるキリスト教徒の教会のいうことをきいている。そのほうが貿易に有利だからだ。
 今でもヨーロッパの文化が西と東で違うのは、こういう事情からなんだよ。

ブルガリア、セルビア、ハンガリー…どれも馴染(なじ)みがありません。

歴史:それもそのはず。
 日本人はどちらかというと、明治時代以降、西側のヨーロッパの影響を強く受けてきたから、あまりブルガリア、セルビアなどの東側のヨーロッパとのお付き合いがないからなんだよね。

 代わりにイギリスには親近感があるでしょ。当時のイギリスは、わりかし王様のパワーはほかのヨーロッパの国々に比べると強い。「島国」ってまわりから孤立しているイメージがあるかもしれないけど、古来さまざまな民族が上陸を繰り返して来たいきさつがある。
 この頃には、フランスから軍隊を進めて征服した王様が、王国をつくっている。その後もフランスの有力者が王様になって、イギリスとフランスにまたがる巨大な国を建設するなど、当時はまだイギリスとフランスの線引きはハッキリしているわけではないよ。

地理:アジアでの「商業ブーム」の影響、それに農業生産量アップの影響を受け、西ヨーロッパでも都市がたくさんできはじめる。

「都市」って何ですか? 今までもあったんじゃないですか?

地理:たしかに都市は古くからあったわけだけど、ほとんどが「政治の中心」や「教会の中心」「軍隊の基地」として立てられたものだった。
 でもこの時期になると「商業の取引」専用の都市もできはじめるんだ。

 人間の家があつまっているところを「集落」っていうけど、専門的にいえば、農業・漁業などを中心とした集落のことを「村落」といって、人口はあまり多くならない。村落は「生活のため水場に自然発生的につくられる」ことが多い。はじめは不規則に家が密集する村落(注:集村の中に分類される塊村(かいそん))が一般的だ。
 ヨーロッパの北の方には、長い時間をかけて平らに削られた広い平野(注:構造平野)がずーっと続いているんだけど、こういうところでは効率のいい手の込んだ農業(注:集約的な)がおこなわれたから、平野に人が集まって村落をつくることが多い。
 一方で、平らであるがゆえに防衛の必要もあって、丘の上につくられることもある(注:丘上集落(きゅうじょうしゅうらく))。

 人口が増加すると、新たな土地を求めて計画的に植民することもある。そういう場合は物資の輸送のためにまず道を計画的につくる。で、その道に沿って家を建てるんだ(注:路村(ろそん))。さらにその家の背後に畑や林を「短冊(たんざく)」のように伸ばす集落もよく見られる(注:ドイツに多い林地村(りんちそん))。

 で、一方商業とか工業をやる人が暮らすもっと大きな集落のことを「都市」というよ。

今でもその名残があるところはありますか?

地理:ヨーロッパでは日本よりも、「伝統的な景観を残そう」っていう動きが根強いから、いろんなところが残されている。
 たとえば、ドイツのネルトリンゲンというところはヨーロッパの南北を結ぶ商業の中心地。

 真ん中にキリスト教の教会が建てられて、そのまわりに今でも赤レンガの中世の町並みが大事に残されているよ(注:囲郭都市。今残されている壁や濠(ほり)はのちのち改築されたもの。漫画『進撃の巨人』のモデルともいわれている)。

教会?

地理:当時の商人たちは、自分たちの稼いだお金を街の教会に「寄付」したんだ。
 それで石職人に点高くそびえる教会をつくってもらったんだ。
 「中世ヨーロッパの高層ビル」だね。
 経済発展のシンボルともいえる。

地理:ちなみに、ネルトリンゲンが街が丸くなっているのは、ちょうどそこに隕石衝突によってできたクレーターがあったからだとされている。

 こういうタイプの都市を「交易都市」といって、ヨーロッパの多くの都市がこのタイプにルーツをもっている。

南北を結ぶルートってことは道沿いに都市がつくられたってことですか?

地理:たしかに陸上の道も大切なんだけど、ヨーロッパで重宝されたのは「川の道」だ。
 ヨーロッパは中心部分にアルプス山脈があって、そこから南北にながれる穏やかな川がいくつもある。それを輸送に利用したんだ。
 動物に運ばせる(注:駄獣交通)よりは、水の「浮力を利用」したほうがたくさんの荷物が運べるからね。

 というわけで川のあたりに都市が発達することが多い。
 「洗い越し」っていって、川には「徒歩でわたることができる部分」がたまにある。川の水位変化の小さい(注:河況係数(かきょうけいすう)の小さい)ヨーロッパにはそういうところがたくさんある。

いったん船から降りないといけませんね。

地理:日本でいうと「川越」(かわごえ)

 ヨーロッパでいうと、イギリスのオックス「フォード」やドイツのフランク「フルト」。「フォード」(英語)と「フルト」(ドイツ語)はどちらも「浅くなっていて人がわかることのできるところ」っていう意味だ。

オックスフォードって大学がありますよね?

 こういうところには人だけでなくて情報も行き交うよね。オックスフォード大学はこの頃作られたキリスト教の教えについて学ぶ学部(注:神学)で有名な大学で、今でも教育機関の多い都市になっている(注:学園都市)。

歴史:人類の歴史は、「村落」中心の生活から「都市」中心の生活への変化の歴史ともいえるね(注:都市化)。
 農業や漁業の生産力がアップすれば、それを売ろうっていう話になって、違う特産物を交換できる場所に「都市」が現れるようになる。
 「特産物の違い」は、「地形の違い」とか「気候の違い」から生まれるよね。



「山の幸、海の幸」。暑いところではバナナ、寒いところではリンゴみたいな。
 
地理:そうそう。
 ユーラシア大陸ってヨコに長いから、南北方向で気候が変化することが多いよね。
 雨の量も海沿いで多くて、内陸にいくと少なくなる。

 ユーラシア大陸の「物の動き」をざっくりと大きな目で見てみると、「必需品」は南北方向で取引されることが多い。
 で、「ぜいたく品」は東西方向で取引されることが多いよ。

歴史:たしかに、東アジアの茶碗(注:陶磁器)、東南アジアの特産物である香辛料は、東から西に動きますね。
 で、西アジアのアラビア半島の特産物である香料(注:乳香)は、西から東へ動きます。
 
 で、軍隊に必要な馬は、北の乾燥エリアから南に運ばれる。
 飲み物として必要なお茶は、南の定住農耕エリアから北に運ばれる(注:茶葉貿易)。


ヨーロッパの話に戻りましょう。
スペインのほうはどうですか? イスラーム教徒が上陸しているんでしたよね。

歴史:そうだったね。
 この地方の王様たちは「キリスト教徒の土地を取り返すんだ!」という使命感を抱いて、イスラーム教徒退治に乗り出している。
 ちょっとずつ取り返していくんだけど、この時期にはイスラーム教徒の国のほうが面積が広いね。


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