雑記:磨墨の墓

群馬県前橋市西善町の祝昌寺は、戦国時代の永正年間に厩橋(後の前橋)城主の長野氏によって開かれた寺院と言う。

寺院の前身は、鎌倉時代初期に梶原景季が源頼朝から賜った名馬・磨墨(寺伝では「摺墨」)がこの地で死去したため、馬を供養するために建てた庵と伝承される。

磨墨は生食と並ぶ頼朝秘蔵の名馬とされ、ともに宇治川の先陣争いの逸話で名高い(生食は佐々木高綱が賜っている)。

この話自体は伝承の域は出ないものの、同じ前橋の駒形神社には磨墨の蹄とされるものが神体として伝わっており、また前橋市富士見町の珊瑚寺には源頼朝・梶原景時父子の墓と伝承される石塔(「北関東の石造物㉚」参照)もあるため、この地域に頼朝や景季との何らかの関わりがあったことをうかがわせる。

祝昌寺の本堂の前には磨墨の墓とされる宝篋印塔があり、この石塔の形式は「須弥壇式宝篋印塔」と称される群馬県と埼玉県の北部にしか見られない特殊な形式である。

現在は読み取れないが、『群馬県史』によれば塔身に永正九年銘あり、銘文から女性の供養塔と思われるので、元来は磨墨とは無関係の石塔であったのだろう。

ただし、宝篋印塔は乱積みで当時のままではなく、おそらく基礎と中台(一層目)は塔身の銘文よりも古い室町時代前期頃の造立と思われる。

祝昌寺の創建年からするに、基礎と中台は元々別の場所にあったのかも知れない(永正九年銘の宝篋印塔が欠損したため、このパーツで補ったのか)。



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