北関東の石造物㊱:御門御墓五輪塔(伝・平将門供養塔)

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名称:御門御墓五輪塔

伝承など:平将門供養塔

所在地:茨城県桜川市大国玉 御門御墓


現在は桜川市の一部となった旧大和村の大国玉は、平安時代に新治郡の豪族であった平真樹の館があった場所とされ、現在の大国小学校のあたりと言う。

その小学校裏の住宅地の一角に、「御門御墓」と通称される三基の五輪塔と五輪塔の残欠がある。

この五輪塔は、平将門を供養するために造立されたものと伝承され、五輪塔のある地名「三門」は元来は「御門」と表記し、これは平将門の乱において「新皇」を称した将門の居館があったことに由来すると言う。

大国小学校の東側の字は木崎と言い、ここには将門夫人をまつる后神社があり、この地名も元来は将門夫人に由来する「后(きさき)」から来ていると言われる。

この地を領有したと言う平真樹は、将門の協力者の一人で、その娘が将門の夫人になったとされる人物であり(『将門記』によれば、夫人は将門とその叔父の平良兼との戦いの際に、良兼軍によって殺害されたと言う)、将門伝承もそのあたりから生じているものと思われる。

おそらく実際は伝承と逆で、「三門」「木崎」と言う地名の発音から、後年になって将門と結びつけられるようになり、五輪塔に将門の供養塔と言う伝承が付されたのであろう(「紫」や「小野」と言う地名の場所にある古石塔が、紫式部や小野小町の墓と伝承されるのと同じ)。

伝承はあまり当てにならないにせよ、五輪塔は中世まで遡るもので、特に向かって左の五輪塔は、三基の中でも最も大型で最も古く、鎌倉時代末期の造立と推測される(入口の案内板には「鎌倉時代初期」とあるが、そこまで古いものではない)。

残りの二期は、やや時期の下る南北朝時代の作であろう。

東国における将門伝承を考える上でも、茨城県内の五輪塔の編年を考える上でも、意義のある石塔と言える。


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