雑記:弘憲寺の生駒親正五輪塔

JR高松駅から西方に歩いて数分の所にある弘憲寺は、戦国時代末期に高松城主であった生駒親正の菩提寺で、子の一正が現在の地に移設した。

親正は元来は美濃の豪族で、豊臣秀吉に仕えて讃岐一国を与えられたが、関ヶ原の戦いでは西軍に属し、戦後に出家して高野山に隠居した。

生駒氏自体は、子の一正が東軍に属したために讃岐を安堵されたが、後に寛永年間に起こった生駒騒動が原因で、大幅な減封の上に出羽の由利(秋田県由利本荘市)に転封になり、大名としての地位を失っている(生駒家は八千石の交代寄合として存続し、明治維新に際してようやく矢島藩として大名に列した)。

弘憲寺の墓地には一際目を引く大型の五輪塔が二基があり、これが生駒親正夫妻の墓と言う。

向かって右側が親正の墓(二枚目)、左側が夫人の墓で、親正の墓は三メートルを超える大型塔である。

五輪塔は白色の凝灰岩製で、そのために風化が激しく、元々は慶長十四年と言う親正の没年が刻まれていたようであるが、現在は読み取れない。

凝灰岩製で破損が激しいため、一見すると中世の作のように見えるが、空風輪が大型化するのは近世の五輪塔の特徴であり、香川県における中世から近世の過渡期の五輪塔の基準作と言える。

この五輪塔もそうであるが、讃岐地方の五輪塔は中世の比較的早い時期においても、水輪が球体ではなく壺型(上部の幅が広く、下部に行くほど狭くなる)で、また時代が下っても凝灰岩製の作例が多い。

これが地方色なのか、石工の技術的な問題に起因するのかは判然としないが、讃岐地方の石塔は五輪塔以外にも他に類を見ない様式のものもあり(下部リンクWikipediaで紹介されている、さぬき市の志度寺にある「海女の墓」と通称される石幢など。ちなみに、志度寺にも親正の墓とされる五輪塔がある)、地方色と見るべきであろうか。

写真は十年ほど前に撮影したものであるが、あいにく私が訪れた時には五輪塔は修復工事中であり、足場が作られていて全景がわかりにくい。

修復後の姿は旅行サイトなどで確認出来るが、参考までに下記に旅行サイトのリンクを掲載しておく。


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