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ドラマ『友情~平尾誠二と山中伸弥『最後の一年』~』出逢うべくして出逢った二人の友情と絆に涙しました

”ミスター・ラグビー”平尾誠二。そのラグビー人生は実に華々しいもので、オマケにイケメンで人柄も最高!”カッコいいヒーロー”という形容詞以外見つかりません。

平尾さんの死は53歳という若さに加えて、何より待ち望んでいた日本でのラグビー・ワールドカップ開催実現が決まってまさにこれから…というタイミングだったので、余計に虚しさが募りました。

その平尾さんとIPS細胞の山中先生との友情物語を私は知らなかったので、今回のドラマを非常に楽しみにしていました。

もっくんの平尾さんと、滝藤さんの山中先生。あまりにご本人とウリ二つの雰囲気に驚くと共に、ドラマを観ているという感覚よりは、まるでドキュメントを観ているようでした。

お二人の最初の出逢いは、秘書の方がお断りしていたかもしれない対談。山中先生は高校時代から平尾さんのファンで二人は同い年。お互い会ったその日に意気投合したというのも、まさに運命だったんですね。

家族ぐるみでの深いお付き合いになったのも、二人の間に特別な”何か”が存在していたからこそで、平尾さんがたどるその後の運命に山中先生が必要不可欠であったことに不思議と導かれていったのかもしれません。

平尾さんの病の発覚はある日突然でした。平尾さんご自身は強い人で、ガンの告知をされても平然としていた姿が印象に残りました。

「昔から自分の年取った姿を想像できひんかったんやけど、それはそういうことやったんやろなぁ…」

というつぶやきは、何もかも達観している平尾さんの凄みを感じました。

2015年、南アに日本が勝利した時の二人の喜び合う姿に泣けました。ここから今に続く日本ラグビーが変革を遂げる大きなきっかけになったんですね。それと平尾さんの病を重ね合わせて山中先生は「奇跡は起こります!治療法は必ずあります。一緒に頑張りましょう」と。

平尾さんと山中先生の二人三脚の病との闘いが始まりました。

平尾さんは新薬の治験にもトライ。年は越せない、余命三か月と言われていたのになんとか年を越すこともできました。

治験中にもかかわらず、平尾さんが山中先生をトークイベントに誘いました。平尾さんはそれが山中先生とやれる最後の仕事と思っていたようでした。

「平尾さん、僕らといる時はよぉアホな話もしますが、やっぱりラグビーの話をするとホントにカッコいいねぇ。4年後の2019年。次のワールドカップ日本大会はぜひ一緒に観に行きましょう!」

この言葉が実現されなかったことが、本当に悔しくてたまりません。

治験については、臨床試験のルールで劇的な効果を示さない患者さんには治験の投与を続けることはできないということで、途中で打ちきられてしまいました。

「勝負はまだこれからです。持久戦になるかもしれませんが、みんなで支え合って絶対に勝ちましょう」という山中先生からのメールの言葉に「試されてるのかもしれんな」と平尾さんはひと言。

ドラマの中で何度も奥さんが運転する車で病院から神戸製鋼のラグビー部の練習を観に行くシーンが出てきて、そのたびに平尾さんは何を想って車の中からじっと眺めていたのかと…。その想いは今となっては誰にも分かりませんが。

2016年4月から大阪の病院に通院しながら抗ガン剤を使い、サードライン。つまり最後の治療が始まりした。ガンは小さくなったけれど副作用はきつく、平尾さんの体は次第に衰弱していきました。

一度目の危篤のとき、それまで息子の病について何も知らされていなかった平尾さんのお母さんの渾身の呼びかけで意識を取り戻しました。そして、みるみるうちに回復していき、それはまさに奇跡の大逆転でした。

2016年5月、ステロイド治療が功を奏し自宅に戻ることもできました。アメリカからかけつけた息子さんとも家族水入らずで過ごすことができました。

その当時娘さんと奥さんにかけた平尾さんの言葉がそれぞれ素敵な言葉でした。新婚の娘さんには、

「さきちゃん。結婚ちゅうのは、相手が何を持ってるかが大事なんやない。その人の持ってるもんがなんもなくなったとき、それでも好きでいられるかどうかが大事なんや」

結婚28周年のお祝いを家族としたとき奥さんには、

「よう28年ももったなぁ。僕は性格悪ぅないけど、気ままやからなぁ。けいちゃんは、ほんま気ぃが長いわ。けいちゃん。あと三年は生きるから。どんなことがあっても、あと三年は治療頑張る。三年やったら大丈夫やろ?ほんまに今まで好きなように生きさせてくれてありがとう」

どうしても平尾さんを救いたい山中先生は、一度免疫療法を試した人がまた別の免疫薬を試した例は世界で一例もないにもかかわらず、「オプジーボ」という世界初の試みがまだあることを平尾さんに伝えます。

「世界初なんか!!」と明るく前向きに可能性に挑戦しようとした平尾さんは、決してあきらめない人でした。

でも、免疫力が下がっていて感染症で入院。10月になると病状はさらに悪化。どんなに苦しくても、神戸製鋼の試合を観ることだけは決して欠かしませんでした。骨の髄まで”ミスター-ラグビー”だったんですね。

2016年10月20日午前7時16分。平尾誠二さんは53歳で息を引き取りました。

「先生。平尾の最後の言葉。なんだと思いますか?『頑張る』でした。『頑張る』という言葉が嫌いだった彼の最後の言葉は『頑張る』でした。先生、ちかさん。ホントに長い間、平尾に寄り添っていだただいてありがとうございました。先生がいらっしゃらなかったら、こんな風に見送ることはできなかったと思います」

「けいこさん。山中にすべてお任せいただいたこと。もしかしたら、不本意だったこともあったかもしれません。それをおおらかに受け入れてくださって、ありがとうございました。山中は、私が今まで見たことないほど勉強していました。平尾さんが絶対に治ると、信じていました。それが、こんな結果になってしまって……」

「逆です。こちらこそホントに…。平尾は山中先生と最期まで一緒にいられて、幸せでした」

奥さん同士のこの会話のやり取りに号泣でした。

そして、山中先生からの言葉は友情を超えた”人間愛”を感じました。ユーミンの「ノーサイド」は私自身想い出のある曲なので、それが流れてきてのこのナレーションに、しばらく涙が止まりませんでした。

「平尾さん、君の闘病生活は究極の試合だった。ワンプレーワンプレーが結果を左右する極限状態を、僕も一緒に闘った。もしかしたら、平尾さんはこの試合を最初から負け試合と覚悟していたのかもしれない。それでも勝つためにありとあらゆる可能性を試し、全力をふりしぼった。僕を″司令塔″と信じて、満身創痍で、あの”ミスター・ラグビー”がボロボロの身体になっても闘うことをあきらめなかった。試合終了間際でも、君はきっとこう言うのだ。『いやいや先生、まだまだわからへんで』闘い抜くこと。それが平尾誠二の生き方だった」

2019年、日本開催のラグビーワールドカップ。実はスポーツの中でも飛びきりのラグビー好きな私は、部屋に試合結果をシールで貼り付けられるようなグッズを購入し、家の中で一人大声を出しながら応援していました。

ドラマの中で家族と山中先生ご夫婦と一緒にワールドカップを観に行った平尾さんの息子さんが、「先生、なんだかこの中に父が座っているような気がします」と言うシーンがありました。

平尾誠二の魂は、常に日本ラグビーと共に今も生き続けているのだと私も思います。

今年のワールドカップは目標に届かなかったかもしれませんが、日本ラグビーのこれからを一ラグビー・ファンとして私も心から楽しみにしています。

平尾さんと山中さんの友情物語。奇跡の出逢いから最後の一年まで。こんなにお互い信頼し合えて大切に想い合える友だちが大人になってからできるなんて、とてもうらやましかったです。

前向きに生きる力をもらえる本当に素晴らしいドラマでした。

長い文章最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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