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[気持ちいい]という感覚には2種類あるのかもしれない



学生の頃

自分がどうやっても
勉強や恋愛において

勝てない、と思っていた相手に対して

わたしは密かに
相手がうまくいかないことを
願ってしまっていた。



だけど
そんなものは
叶うことはなく、

大抵の場合は

逆にどんどん
相手に敵わないというシーンを
目の当たりにしていくものだった。





この時のわたしは
自分の望みを

「他者が」うまくいかないこと

としていたけど、



本当に望んでいるもの

=本来の望み
=自分がしっくりくる想い

というのは


「自分」が主体のものであり
主語が「わたしが」というものがほとんどだ。






それを
突き詰めていく先で
自分が満たされていくと

心の奥底から

〇〇がうまくいきますように
とか
〇〇の夢が叶いますように
だったり

他者を想う気持ち、


それは祈りのような
真っ直ぐに純粋な想い


そんななものが湧いてくる




少なくともわたしの場合は
その順番だった。





ということで
まずはどんな時であっても

自分が主体の望みを
抽出するように意識し始めた。



自分の望みを知るには
自分の感覚や感情が指針になっている。



望みの核に近づくほど
"心地よさ"が、

核からおかしな方向に行くほど
"心地わるさ"

内側に湧く。




その証拠に

他者がうまくいかないことを
望んでいたとき、

わたしの内側は

心地わるさでいっぱいだった。



じゃあ
どうしてそんなことを

望んでしまうのかというと

一瞬の気持ちよさに

惑わされているのかもしれない。





例えば
他者に対して悪意的な想いも

イライラしてる時に
誰かに八つ当たりしてしまうのも 

気持ちよさがそこにあると
無意識で信じてしまっているから
そっちの方向に進んでしまう、


そんなイメージだ



だけど
その類の気持ちよさは

よく内側を見てみると
長続きしない気持ちよさで

刺激的だけど一時的で
だからこそ
またそれが欲しくなってしまう

そんな軽い中毒性があるものの様に思う。



そうやって
わたしの感じた

Goサインを表す気持ちよさと
Stopサインを表す気持ちよさの例

の特徴を表にまとめてみた



右が間違い、だとか
左が正しい、だとか

そういうことを言いたいわけじゃない。


自己顕示欲を満たしてくれるものを
求めても別にいいわけで
優越感を感じていけないわけでもない。


ただ、

自分の中に
これらの感覚が湧いた時に

「あ、今優越感に浸ろうとしてるな」

とか

「自己顕示欲を満たそうとしてるなー」

みたいな感じで
かるーく観察して

そこに

最低だなーとか
ダメだなーとか

そんなジャッジメントはいらなくて

ただ、今あるなぁ、
という感じで見るようになった。





こんな風に
表にまでしたのは


わたしが
自分の心からの心地よさを
感じていきたい、という貪欲さと

それを追求していった先の
景色を見てみたくて仕方がないという


好奇心と衝動で
いま、生きてしまってるからだ。



だから
わざわざこうして

自分の感覚を見つめながら
気持ちよさ、というものについて
言語化して

左の方の気持ちよさを
求めるように意識するようになった。





右側の気持ち良さに惹かれた時は
いったん止まる。


その向こうがわに
もっと望んでいるものがある、

そんな"道しるべ"として


それらの感覚を使うようになった




そうしてわたしは

望みを捉える時には
気持ちよさの感覚に注目しながら


的確に
自分の核の想いをとらえるようになる。




これがきっと 


意図すること、と

そのまま繋がることだと思っていて


それが

望みを叶えること、に直結していると

実感するようになる。





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"自分と真っ直ぐ向き合うこと" でより満たされた日々を送れるようなヒントになったらとこれまでの研究を言語化して公開を始めました ♔ 繊細で不器用で生きるのが難しい、そんなふうな私でもひたむきに今を生きてる…そんなことを表現できたらなと思ってますꪔ̤̫