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DINKsが考える昨今のスキャンダルと炎上

人やモノの存在、行為、発言が炎上する事象が多く観測された2023年。年末年始にかけても、その傾向が続いている。芸能界、芸術、有識者、政治家と、分野は問わない。これは単なるワイドショー的なものではなく、DINKsの生き方にとってみても、考えさせられる世の中の流れなので、考えを整理してみる。


1.問題が起こるテーマ

何が非難されているのかを見ると、以下に分類できる。「性」「暴力」「差別」…どれも嫌なものだ。嫌なものだというのは「社会的に悪である」という意図ではなく、ここでは敢えて「私が嫌いなもの」であると定義しておく。正しいから正しくないからと、好き嫌いを別次元で考えることが重要であることが、この記事の重要な点だからだ。一つ一つ見ていくことにする。

(1)性

性について。異性関係に不誠実なものから性暴力を伴うもの、立場や地位を利用して女性を傷つけるものなど、様々な事象が摘発されている。事実関係がどうのこうので世間は騒いでいるが、事実関係なんて当事者にしかわからないし、本人と会ったこともない人間が憶測で白黒つけるのは難しいだろうから、ここでは事実関係に着目するのはやめておく。

重要なのは、性にだらしないことは、この時代には厳しい目線を向けられるということ。それは少なくとも、性に誠実でありたいと考えている私にとっては、都合の悪いものではない。思想的、道徳的にも、そういう傾向で構わないと思う。同じくらい重要なことは、性にだらしない男性を、これまでの社会が許容してきたこと、特に女性にもそれを容認する人間が相当数存在していたことだ。これがとても重要なことで、今後も注意すべきことだと思っている。

別の視点から見える事実は、未だにかなりの数の男性が、性に対して不誠実でも許されると勘違いしていること。これだけ性のスキャンダルが世の中の非難を浴びても、絶えず出てくるのは、それが大したことないだろうと思っている人が多いことを意味していると、個人的には考えた。

性にだらしないというのは、私の経験でいえば、自分のパートナーがいるのに、風俗店に行ったり、キャバクラに行ったり、要するに、パートナーがありながら、別の女性を異性として見る場面を設けたい思考を抑えきれない状態を指す。

それを「まあ男だから仕方ないよね」としてしまう風潮、そう思う人間は、男女・年齢・居住地ごとに、どれくらいいるのか、こういう不道徳なアンケートは実行しにくいだろうが、たとえば、性に奔放な男性を野放しにする地域が偏っているとしたら、そういう社会に居心地の良さを感じる人はそういう地域に住み、嫌だと思う人はそうじゃない地域に住めば、不快感は相対的に減るかもしれない。

善悪や道徳も重要だが、自分の価値観を侵害しない他者に囲まれるというのが、人生設計・人生選択で重要になると思うので、これをもう少し可視化できないかと思う。

(2)暴力

暴力について。言葉の暴力はもちろんのこと、腕力の暴力も未だに閉鎖社会では発生する。テレビは暴力を助長したかと問われれば、答えはイエスだと思うが、テレビに限った話ではない。少年漫画の殴り合いの喧嘩や、大ヒットしたアニメにも、残虐な暴力シーンが有る。もはや暴力は社会の総意なのかと思ってしまう。バーチャル体験としての、舞台としての暴力なのだろうか。お笑いやバラエティ番組が暴力を助長したかといえば、答えはイエスだと思うし、学校で類似のいじめが起こっていることを考えれば、誰かをいじること自体が、有害な側面を生む。そういう番組が視聴率を取っているとすれば、暴力は社会の総意であるという認識は、まあまあ妥当だと思う。

(3)差別

差別について。人種や国境、政治、思想など、人間が対立したり多数少数にわかれる要素が散見されるこの社会で、差別を生むものはなんだろう。おそらく、人間の好き嫌いだ。人間の好き嫌いほど厄介なものはない。昔の自分も含め子供が平気で口にする「〇〇(食べ物、色、生き物、形、モノ)きらい!」という発言。善悪ではなく、私はこの発言がとても嫌いで、子供が苦手な理由の最も大きな理由がこれだ。嫌いとか美味しくないとか変だとか、そういう「言わなくて良いこと」を考えずに言ってしまうのが子供であり、子供時代の自分もこういう発言をしていた。気に入らない人形や食器を「これいや」と言っていた。こういう自分を振り返ると、子供は悪魔だと思うし、幼少期の自分の写真を捨てようと思うに至る。最も忌み嫌う生き物の無邪気さがそこにある。

2.地獄になるSNS

何かが叩かれると、今はSNSが地獄の様相になる。冒頭にも書いた通り、会ったこともない人間が、憶測や断片的な情報収集だけで、あたかも、他人を十分に理解したかのように語り、賛成や反対の立場を標榜することがいかに危険なことかが、誰もわからない世の中になってしまうような感じがある。思慮深さや行間よりもわかりやすさが求められる時代、はっきりさせることに急ぎすぎて、間違っていてもいいから結論を出すことを優先するようなアクセルがかかっている人をたくさんみかける。そしてそれが「自分の推し」によるものとなれば、たちまちそれを信じ、崇拝してしまう。

自分が尊敬していたり、好きだったりする有名人が好む論調を、無意識のうちに自分も肯定していないだろうか、反対の意見だったときに、その有名人に合わせて自分の価値観を修正していないだろうか。そういう言動が増えすぎている。好きだから、好きが正しいものになるような根拠を集めることに一生懸命になり、本当の自分の考え方を何も持っていない人が増えていて、それが攻撃的言動の頻発につながっていると考えている。

3.好き嫌いを善悪に結びつける不幸

「すき」と「こうなりたい」は違う。「好き」であることに、「推し」であることに執着して、無理にその人物の価値観に自分を当てはめようとしていないだろうか。誰かの味方をして、誰かの敵になることに安心を見出すのは小学生で卒業したはずなのに、結局、おじさんやおばさんになっても、イデオロギー論争と好き嫌いをゴッチャにするオムツ履いた頭から成長できていないことに気づくなんてこともあるだろう。心のオムツを履いた方が良いんじゃないかと思う人が多すぎる。

私が割と興味を持って長年聴いているアーティストのミスチル。ボーカルの桜井氏が不倫問題を起こしたことはよく知られるが、私はこの問題と曲は切り離して考えている。曲はMP3であり、音であり、その人の人格とは別としている。芸能人や有名人の発する言葉は、一般人は断片的にしか認識できないし、作品にその人の内面のすべてが反映されていると考えるのは危うい思考だと思うからだ。だから、ミスチルの曲が好きだ、ということと、ミスチルという歌手が好きだ、というのは、私の中でイコールではない。だから、私は誰のファンにもならないし、妻以外の人間に特別な思い入れを持つことがない。

という私の感情はどうでもよくて、この問題でいつも思い出すのは、桜井氏の不倫騒動について、ファンであろう人が以前、ネットにこのような書き込みをしていたことだ。内容は「前妻はちょっと変な人だったらしくて…」である。詳細を読み進めると「前妻が変な人」だから、本人は被害者である、という主張なのである。これは昨今のスキャンダルにも共通する。「〇〇は〇〇な良いところがある」「お世話になった」「相手の女にも問題がある」的な、まったく根拠のない話をして、相手を擁護する意見がとても多い。こういう意見が出てくるのは仕方がないが、普通に考えれば、何の根拠も確認もなく「好きな人を悪く言われるのが嫌だ」という私情を社会の是非と混同している致命的な問題にしか思えない。

(1)レビューや口コミが地獄になる

たとえば、お店の情報があるとする。外観、内観、料理など、客観的にこれだとわかる情報を情報Aとし、口コミやレビューを情報Bとする。SNS全盛期の今、情報Aよりも情報Bが重視される場面は多い。決して情報Bが重要度の低いものだとは思わないが、自分の眼で見て確かめることをせず、誰だかよくわからない第三者が発信した断片的な情報を入手することに執着することは、個人的に好きではない。

ニュースも同じで、起こった事実よりも、誰がどんなコメントをしているのかが気になってしまっては、そのニュースをじっくり自分で読み解いたりすることができなくなってしまう。ニュースやハウツーなどの解説系動画がこれに該当する。解説が本当に事実だけを淡々と述べているのであればよいが、恣意的なものが含まれたり、発信者の価値観が介在するものになると、それが受信者にも恣意的な伝わり方をしてしまう。

(2)何を言ったかではなく誰が言ったかで判断していないだろうか

なぜそうなるのか。それは、人が情報を見る時に、その内容よりも発信者により判断するからである。何か議論を呼ぶトピックがある時に、反対と擁護のような構造が出来る。この時、直接テキストにそう書いてあるものも含め、好き嫌いで判断しているものが多数みられる。応援している人だから無実を信じたい、応援している人だからその人のいうことを実践してみる、嫌いな人だから悪いニュースが出るとざまあみろと思う、嫌いな人の行動だから肯定したくない、などだ。

もし、事実だけが匿名で情報として流れてきたとしたら、読み手は同じ判断を下すだろうか。これに下せると言える人は少ないはずだ。私も「できない」と思う。自分が特定の価値観や選択をしている以上、それを否定するような言説からは目を背けたいからだ。

そういう弱さがある。たとえば、子供を持つことが人として当たり前だとか、男性は旧来からの男性社会に迎合するように生きるべきだという主張に対しては、仮にそれが合理的な意見、理屈で固められた意見だとしても、自分の行動や人生に取り入れることは出来ない。かといって、それを支持する人がいる以上、それが誤りであるとは言い切れないので、そっと距離を置くか、画面を閉じる。決して噛みついたりはしない。

(3)嫌いな人が言った正論に賛同できるか

嫌いな人が正しいことを言ったときに、それをきちんと肯定できるかどうかが、その人の本質を表していると思う。私はこの人のことを好きではないけれど、この意見は正しいよね、といえれば、人生は豊かになるだろう。意見は違うけど、なんとなく続いている友人関係が、まさにこれを具現化しているものであると思う。
 
逆に、好きな人が自分と間違ったことを言ったときに、それを曖昧にせず、きちんと「不快感や違和感」を持てることも重要だ。たとえば、自分の好きな芸能人やインフルエンサー、信頼する友人が、自分の親戚が経営する飲食店に変なレビューを付けてきたり、悪口を言ってきたりしたらどうだろうか。そこらへんの匿名アカウントが低評価をつけてくる時と同じような不快感を持つだろうか。ここで同じように不快感を持てない場合は、自分の中で「人で選ぶ・判断する」作用が効いている。私もこれに該当する思考回路に陥る時があるので、意識して気を付けるようにしている。この場合も、もし、発言者のユーザー名が目隠しされたら、同じような反応が出来るかを考えてみると効果的だと思う。

(4)鬱憤の発散と重なるSNS

緊急事態にもイデオロギーの対立が絶えないTwitter、人を叩きたい、自分の主張を正当化したい欲望が垣間見えるだけの地獄が一部にある。対して、インスタグラムは、ただ写真を載せているだけのアカウントで、基本的に何かを「褒める」ものが多いように思う。ポジティブな言葉や表現がどれほど人の心理を安定させるかを、この二つを往来していると痛感する。

4.嫌いなものや苦手なものを定期的に取り入れる

嫌いなものの中に正しいものを認める作業は年齢を重ねるにつれて重要度が増すと思う。好き嫌いと善悪は別物だという意識を常に持っていたい。その訓練の一つとして、定期的に苦手な食べ物を食べるようにすることや、耐えられる範囲のもので、苦手なことをしてみることにしている。食べ物の好き嫌いはないけれど、今日は敢えて気が進まない総菜を買ってみようとか、なぜこれに自分の気持ちが向かないのかを考えたりする。
 
苦手なことの例でいえば、私は昔の自分の写真を見ることをはじめ、過去の自分、子供のころの自分を振り返ることがとても苦手なのだが、家族は昔の私を思い出したり、写真を引っ張り出したり、話題にしたりする。これが結構嫌なことで、やや苦痛なわけだが、相手はそれを喜んでいるし、少しくらい、嫌だなと思う体験が、よほど傷心を伴うものでなければ、あってもいいのかなと思っているから、聞き流すようにしている。
 
ちなみに、なぜ嫌なのかといえば、昔の自分、子供のころの自分は、今と比較して身勝手で思いやりに欠けていて、短絡的で愚かだと思うからだ。仮にそれが子供時代だったとしても、人間臭い、面倒くさい何かを感じ、できるだけ蓋をしていたい存在なのだ。

私が機械的なものが好きで、人間的なものが苦手なのも、子供が苦手なのも、幼少期の自身を忌み嫌っていることに起因するのかもしれない。
 
話がそれてしまったが、情報の本体よりも、第三者の発言や価値観に一喜一憂し、本来であれば関わることもない人間からの影響、とりわけ負の影響を、簡単に自分の人生に取り込めてしまうというところが、SNS社会、SNS中毒の罠であると心底思う。

情報の本体を咀嚼して、自分で思考を巡らせる前に、第三者の価値観に扇動され、好き嫌いの判定に奔走しているとすれば、それはもう、すぐにキレる高齢者と変わりない。そうなる罠がトレンドやエンタメには散りばめられている。本当に気を付けたいと思う。

5.昔のことを今叩くなという主張について

(1)昔は良かったのか?

昔は容認されていただろうものが、今になって批判の的になっている事象が議論になっている。遡ってバッシングすることへの疑問視も生じている。色々と今の社会に当てはめても、考えのヒントが詰まっている。たとえば、過去に流行したり、歓迎されていたものが、果たして本当に広く容認されていたのだろうか。

20世紀は、バブルは、高度成長期は良い時代だったという人が多い一方、20世紀少年に描写されるように、あの時代が地獄だった人、差別や迫害を受けていた人もいたはずだ。今回は、芸能や政治など、大衆社会の中心や頂点になる場面で、過去に賛同されていたものの価値が見直されているように見える。

加害行為を行ったとされる人物への批判については、客観的な事実を判断する材料を持ち合わせていないので何とも言えないが、今の時代、今の世代、今の社会から生きている人にとってみれば、他者をいじったり、手を挙げだり、ハラスメント紛いのことをやることは違和感を持たれることであるとわかる。

(2)昔の自分と再出発と償い

昔の自分はどうだっただろうか。今よりは、社会一般、世間一般的な価値観に近かったと思う。なぜなら、子供であった自分は、自ら判断する知識や能力がなく、入手した断片的な情報を妄信していたからである。それが徐々に更生されてきたといえる。私は過去の自分が嫌いなので、敢えて更生という言葉を使っている。

では、昔の自分の行動を掘り起こされて、それが悪いものだと、今の自分自身が叩かれたらどうか、と考えると、少なくとも良いものではない。現在、こうして昔の自分の生き様を反省し、死ぬまでにできるだけリカバーしたいと思いながら進んでいる中で、過去を敢えて掘り起こされたくはないと思う。

ただ、昔の自分を「昔は昔でありそれの延長線上に今がある」と肯定することは自分でも難しいため、やっぱり過去に自分が歩んできた道は、今それを振り返った時に悪いものだと解釈するものである場合、その時はその時で仕方ない、正常な判断だったんだと肯定することは難しいと思う。自分自身でもそうなのだから、やはり、他人、特に不快感を持っていた他人からすれば、我慢していたけれど、それを許容することは難しいだろうと思う。

私自身も、自身の軽率な言動や余裕のなさが他人を不快にさせた意識、自省の意があるからこそ、進んで回顧の場に出席することもないし、価値観の相違が起こりすれ違ったり、互いに嫌な思いをさせてしまった関係、場からは、距離を置き、身を引くのが最善策かなと、現時点では思っている。

6.被害者が救済されることだけが「べき」といえることかもしれない

何より、スキャンダル問題は、どれも共通するが、告発された事実における被害者、傷を負った人間が、さらなる傷を負わないことを願うばかりで、それを忘れてイデオロギー論争に勤しむようになっては、人間はオシマイだと感じるばかりである。

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