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「夜が明ける」に見る、ストレスの段階——文学と希死念慮①

「夜が明ける」は、西加奈子さんによる、若者の貧困・過重労働・虐待を描いた名作だ。決して救いのない物語ではないのだけど、かなりシリアスなストーリーなので、重すぎて読めなかったなどの声もちらほら見かける。
しかしこれは、貧困の属性を継ぎはぎして必要以上に重くしたコラージュではなくて、ほんとうにリアルな苦しみを表現しているのだ。

今回は、メインの登場人物のうち、詳細が詳しく書かれている、「俺」について言及していきたい。
ネタバレになってしまうが、「俺」はパワーハラスメントを毎日受けており、奨学金の返済義務もあるため、仕事を辞めて静養するということがどうしてもできなかった。もしかすると、「俺」は助かる方法を自分で潰してしまう人だったのかもしれない、と思ってしまうほど不器用な人物なのだ。

「俺」という人物

「俺」は高校生のときに父親を亡くし、父親代わりのような存在(中島さん)を得るが、彼からはことあるごとに「負けるな」と発破をかけられる。「俺」はその言葉通りにがむしゃらになって働き、勉強の手も抜かなかったため、苦学生から成りあがったという自負が生まれてしまう。
それに「俺」は周りにも恵まれなかった。自分と同じような「負けたくない思い」を持つ人しかいなかったのだ。反骨心は決して悪いものではなく、バネにすることもできるものだが、代わりに副作用を併せ持つ。それは他人に心をひらけなくなってしまうことだ。
「俺」は援助希求能力が育たなかった。死なないため・心を犠牲にしないために一番大切な力が育たなかったのだ。

とはいえ、主人公である「俺」は物語の中で死んではいない。
ただ、リストカットが常習化し、精神的に追い詰められ、身体が悲鳴をあげたところでようやく限界に気付くという経過をたどってしまう(その状況でも「俺」は、自分の状態を”ストレス”の一言で片づけられるのを嫌っているため、本当に危ない考えであったと思う)
そのケースはおそらく珍しくないだろうし、なによりわたし(はちどり)もそのパターンだった。だけど、これからの人にはそんなふうになってほしくない。
限界を超える前に、限界を迎えつつあることに気付いてほしい

そう願いながら、ここからは作中における、「俺」の症状の遷移をみていこう。
太線で書かれた箇所は、トリガーとなりうる重大なストレスとなっている。
(この物語中では認知のゆがみももたらす悪質なストレスだ)

「俺」の症状の遷移

前編


※「男はこうでなくちゃという規範を植え付けられて育つ」
「圧迫面接に耐えながら、睡眠不足で就活を続ける」
「根性のあるやつだけが生き残れる世界だ」と社長に宣告される
「1週間家に帰れない、お風呂に入れない歯も磨けないのは当然という労働環境」
前編では主に辛い労働環境や生い立ちについて描かれることになる。
それでも若さゆえに、あるいは「負けるな」という言葉とこれまでの努力を信じて、明るい未来を想像する。

※奈良少年刑務所(廃業・現在は星野リゾートに買われてホテルになる予定)での詩の授業の様子をまとめた本、「世界はもっと美しくなる」にも、受刑者となる少年は極端な男性らしさに縛られている子も多い、とありました。

後編


前編の環境下で9年間働く

・咳が止まらなくなる(ひどい時は喘息の症状になる)
・お風呂をためる気力がなくなる
・洗濯ができない・もしくは干す気力がない
・暇つぶしの手段がなくなる(ネットニュースを見るだけになる)
パワーハラスメントを受けるようになる(それも重度のもの)
差し替えのために必要なテープを紛失する(実際は車に積み忘れる、がその記憶もない)
・リストカットをする
・その効果を認め、発散の道具としてリストカットを使うようになる
「番組出演者にセクハラを受ける」
「番組出演者に過度な依存・干渉を受ける」

→入院へ


入院後は、
・涙が止まらなくなる
・悪夢のせいで横になって眠れなくなる
・文書などの意味が理解できなくなる
・少し歩いただけで疲労困憊する
などの症状が現れた。

経験者には「そうそう」と共感できる話であったりもすると思うけれど、精神疾患について明るくない方からすると、こんなに色々な症状が出るの?という驚きや疑問の気持ちのほうが強いかもしれない。

しかし、ストレスによって脳に損傷を起こしているような状態が精神疾患であるので、感情や行動などがコントロール不可になるというのは筋の通る話なのである。自傷や自殺にいかにしてつながるのか、その機序を知らなかった方には、それも無理からぬことだと知ってもらえたら嬉しい。

この、終盤の「俺」の荒れっぷりはほんとうによく調べて書いておられて、精神疾患というのはただ気持ちが落ち込むだけではないということを上手く表現している。
前書きにも書いたが、この本を重い、しんどいと評する人がいる。
たしかにつらい現実を描いていて、わかりやすいハッピーエンドなわけでもない。だからこそ、わたしはこの名作に学びの余地があると思うのだ。

過重労働、視野狭窄、奨学金制度と貧困、ハラスメント。
無縁の人々からするとおとぎ話のように思える要素に、何重苦にもなって絡めとられてしまう人がいる。
そういう境遇を「親ガチャ」という言葉で片づけてしまう前に、可能ならこの本を読んで、苦しみとその作用機序について学んでほしいと切に思う。

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