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メンタルヘルスと2023年のポップカルチャー①"病み"を魅せることについて

一端の若手精神科医が2023年を生きる中で感じたことを2023年に摂取したポップカルチャーの話を通し書き残していく文章のシリーズです(全3回予定)。

アニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」が年末年始に大きく注目されたこともあってかアジカンが「転がる岩、君に朝が降る」を演奏することが増えた2023年。あの作品が描いていた、自虐をしつつも自分を強く守る姿は広く共感を呼んでいたし、高いプライドと低い自信が標榜する"自傷的自己愛"と、その姿勢と向き合った最終話は紛れもなく多くの人が胸を打たれていた。

しかし現実はそう簡単ではない。現代において、成熟した自己愛を育んでいく難しさは多くの人が抱えている。自分が嫌い、というレベルを超えて”自分自身に病む“という感覚を抱えた人は私が普段従事している診察場面でもSNS上でもよく見かける。この記事では作品やムーブメントを横断し、2023年のポップカルチャーにひしめいていた"病み"について掘り下げてみたい。



映画「シック・オブ・マイセルフ」

10/13に日本で公開されたノルウェー映画『シック・オブ・マイセルフ』。アーティストとして名声を獲得しつつある恋人を持つシグネは、何者でもない自分に焦り、病を偽ったり、怪我をしようとしたりする。しまいにはひどい副作用が出る薬を服用し、大きな傷を負う。しかし彼女はそれにより他者の視線を集め、その承認欲求は更に加速するという物語だ。低い自信と高いプライドを抱えたシグネは強烈な自傷的自己愛を抱えているように見える。

彼女の自己愛は彼女を内側に閉じ込めず、承認欲求を賦活化していく。どうにかして他者の視線を集めるために自分で自分を傷つけることを選び、何が起きても“承認されている自分”をイメージして目の前の現実を切断しようとする。彼女の”傷“への憐憫を持つ者や肯定的に捉えるフリをする者も現れるが、周囲は彼女に巻き込まれて疲弊していき、次第に彼女自身も蝕まれていく。自傷的自己愛の最悪の結末とも言える、非常に後味の悪い映画なのだ。

そもそもその“承認”の先に何があるか、彼女は分かっていない。ただ”承認されたいから承認されたい“のだ。このような理屈のない欲望は底なしである。シグネは他者からの評価(ともいえないレベルの視線や注目)を四方八方に求めてしまう。他者の承認を追いかけるうちに、他者は消え去り、そしてまた自分を見てもらうために他者を求めていく。終わらない承認の地獄の中でどこにも立ち行かなくなる様は、現代を見事に切り取っているように思う。

この映画で注目すべき点は、承認欲求のためなら自分の身体を傷つけることも厭わない人物を描いた点であると思う。自傷行為が承認欲求を満たすことに繋がるとはにわかに信じがたいのだが、映画としてそのような人物が描かれたということは現代においてある程度共有されている事象とも言えるのではないだろうか。そうした大きな認知の歪みについて掘り下げるべく次項ではまず、自傷行為とはそもそもなんなのか精神科的見地から紐解いてみる。


傷で魅せる

精神科医・松本俊彦の著書『自傷行為の援助と理解』によればそもそも自らの体に傷をつける行為、つまり自傷行為は単なる外傷であることに加え“自分の意識から「つらい感情」「つらい出来事の記憶」をも切り離して、「何も起こらなかった」「何も感じなかった」ことにする行為であり、同時に「身体の痛み」によって「心の痛み」に蓋をする行為でもある”と述べている。

自傷行為は秘匿的に行われることも多く、単なる承認欲求のアピールとみなすのは避けられるべきだ。しかし自傷の回数が増え、依存状態に陥っていくと反復性自傷行為と呼ばれる状態になる。そうなると"病んだ自分"という自己同一性の根拠を自傷行為に求めるようになると松本は述べる。アイデンティティと”自分についた傷“が結ばれてしまうケースと言えるだろう。

『シック・オブ・マイセルフ』が描いた承認の暗部が先述したような反復性自傷行為には見られる。傷つくことすらエンターテイメントにしようとする、“病み“のエンタメ化とも言える状況はここ数年で加速しているように思える。自分の重さや気難しさを"メンヘラ"と自嘲することを始め、近年では独自のファッションや連帯を見せる“ぴえん系”なる存在も注目を集めた。

ライター・佐々木チワワの著書「“ぴえん”という病」には、“一部のぴえん系女子のなかでは、メンヘラと呼ばれる人々の要素である OD(過量服薬)、リストカット、大量の煙草や酒といった嗜好品の消費、性的消費でさえファッションの一部として行うものもいる。“と記載があり、多くの当事者のエピソードも記載されている。これらはまさに自分を傷つけること=アイデンティティとなり、傷こそが自分を魅せるものという見方ができる行動だろう。

上記の著書の主な舞台となっていたトー横も現在は整備されているらしく、次々と移り変わる文化圏ではあるが、その流れで2023年に存在感を示してきたのが水色界隈/天使界隈と呼ばれるファッション層だ。あの(ex.ゆるめるモ!)の本格的ブレイクに連動するようにして表出したかに見えるこの界隈。概要や特質は以下のライター・つやちゃんの記事に詳細に示されている。

ぴえん系として語られることの多い地雷系と、この天使界隈/水色界隈はセットで使われる事例が多いことは上記の記事でも示されている。天使のモチーフなどあからさまに死の匂いを纏っているが血生臭さは少ない。どちらかといえば透明感であったり、儚さや神秘性が強調されている。現実に根ざすことのできない不安感が前景化しているとも解釈できるファッションだろう。

自分自身を傷つけるというアイデンティティから、自分自身を儚さで包み込むようになる傾向は死のリスクを遠ざけるという意味では健全化しているのかもしれない。しかし根底にあるのが“つらい感情に蓋をする“ということなのであれば、内在する爆発性に注意が必要なことは変わらない。その行動がファッションなのか、本当の苦しみゆえなのか、もしくは両者を混濁しているのか。その判然としなさこそが”病み"を捉える難しさであるように思う。


そして女性に限った話でばかりこうした事象が取り上げられる点がもどかしい。『自傷行為の援助と理解』によれば自傷自体には性差はないとのことだが診療場面では男性は自傷行為がどうも表面化しづらい。男たるもの、苦しみは隠すべきだというまた別の病理が見えてくる。しかし酒や女に溺れ、タバコを吸いまくり、サウナで脱水をあえて引き起こし続けるような"男らしい"道楽も長期的に見れば自傷行為と言えるかもしれない。想像以上に無意識的な自傷行為はポピュラーであり、エンタメ化している可能性がある。


"病み"と搾取

自らのダークサイド(とも考えられていないかもしれないが)をショーアップして見せるという発想。お笑い芸人であれば、自身のダメさをクズ芸人などと自称して、笑いという枠組をつけて昇華することは馴染み深い振る舞いだが、もはやそうした仕草が一般へと浸透しているのではないか。現に自分の生活を面白く切り売りするエンタメはYouTubeやTikTokに溢れ返っている。

その延長に『シック・オブ・マイセルフ』で描かれた承認欲求や、傷を"魅せる"動きがあるのだと思う。問題なのは、こうした"病み"を抱える人は他者から容易に搾取されていく可能性があるということだ。若者の不安定な精神構造を搾取する人々の存在は『ぴえんという病』でも記されている。10代、20代だけの話ではない。支配的な伴侶からの承認を受けて一時は安心するも絶えない不安と支配で生活に苦しむケースは幾度も診察場面で見てきた。

他者からの目線に影響され、他者の基準で生きているうちに、他者の欲望に搾取される。何者かになることを強いられ、自分を何としてでも"他者に魅せる"ように仕立てるうちに、自分自身を見失う。どうか慎ましくあれ、だとか、身近な人々を大切に、と簡単に言えないのは承認欲求を巧みに誘い出す社会構造が背後にそびえ立っているからなのだ。慎ましく身近な幸福を大事にしたくてもすぐ隣で当然のように”承認"が口を開けて待ち受けている。

精神分析家のジャック・ラカンは“欲望とは他者の欲望である”という言葉を残している。自分がやりたいことや欲しているものなどは存在せず、全ては他者の目線に影響されており、「自分だけの理由」は見当たらないと解釈できる言葉だ。この言葉こそ、今こそ捉え直すべきではないだろうか。今、自分を傷つけたいと思っていること。今、承認されたいと思っていること。それは誰かに思わされているだけでないか?と思考する必要がきっとある。


他者からの終わりなき承認地獄から手を引くにはどうすればいいのか。ぼんやりと思うのは“他者の目線”など無関係に愛することができる何かを手にすること。誰かにいいねを貰うために発信する行為は真逆の誰ともシェアしない喜びを再確認すること。そこに承認の地獄から抜け出すヒントはありそうだ。分かってはいる。分かってはいるけども、そこに戻る上で理由なき寂しさが我々を足止めする。2023年はこの選択について何度も考えてしまった。




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