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診察場面として観る「LIGHT HOUSE/ライトハウス」

「LIGHT HOUSE」「THE Lighthouse/ライトハウス」という作品を観た。片や星野源と若林正恭(オードリー)がお互いの悩みを語り合うトーク番組で、片やロバート・パティンソンとウィレム・デフォー演じる2人の灯台守が狂気に駆られる映画作品である。タイトルが同じゆえ検索でどうしても同時に出てくるのでついでにと2本続けてみたのだが、どちらも“2人の男の対話”を通して紡がれる作品でありながら内容は両極端でとても興味深かった。

私はというと、”2人の人間同士の対話“というのを生業としている。精神科医は診察室の中で対話を重ね、対話から相手の何かを導き出していくのが重要な役割である。診察場面を重ねながらこの両作品を並べた観た時、浮かび上がってくるものがとても多かったのでこの記事でも並べて書いてみたい。


まずは星野源と若林正恭の「LIGHT HOUSE」。正直、この2人が様々な葛藤を抱えた上で勝ち上がってきた歴史はリアルタイムで知っているし、観る前はこの2人がそういうモノを語り合う企画ってまだ必要なの?とまで思っていたのだが、まさしく今こそ必要な“最高の対話”のロールモデルたる番組だった。

儒教文化、男尊女卑の価値観が根強いこの国おいて、ジェンダーとしての男性は自分の“価値”は自身の地位や所有物で定義づけられるという思想を幼少期より植え付けられがちだ。それゆえ、男同士の対話とは立ち位置をはっきりさせた議論のようなものが多い。趣味ごとにおける楽しげな語らいでも、そうした立ち位置やモノ“の所有”にまつわる話になりやすい。これは精神科医/評論家の斎藤環が著書で述べている。

互いの悩みを語り合う前提の「LIGHTHOUSE」はそうした男性的な議論からは距離を置き、内面吐露へ向かう。仕事論など自身を覆っているものだけでなく、その内側にある心象を丁寧に語るのだ。これは精神科の診療場面で重要となるものだが、これをあくまで対話という形で試みる2人には驚くばかりだ。男性同士で弱さや生き辛さといった内側を語り合う姿がこうして世界配信されている意義は大きいと思う。

次第に星野源が若林をカウンセリングするような構造となっていくのだが、それでもしっかりと2人の対話としての枠組みは残している。濃い対話でありつつ、外から観る我々にも伝わる言葉。そして対話が”歌“という表現に昇華されていく構成。カウンセリングがエンタメへとショーアップされた、とも言えるのがこの「LIGHT HOUSE」だ。


精神科の診療場面だとすれば、悩みに対して解釈や具体的な助言を言い過ぎることは時に“導きすぎている”という点から避けられがちだ。精神科医は支持者であるべきで、先導者であってはならない。そういう意味では、この番組で星野源が若林に語り掛けるような力強い言葉たちは羨ましさすらあった。観る人によっては、あまりにも効きすぎてしまう言葉。解決しない葛藤を抱えたままでも、言葉を発し導く側にならざるを得なかった2人。そこにいるだけで他者を導いてしまう存在、という“灯台=ライトハウス”とはあまりにも言い得て妙なユニット名だと思った。



さて一方の映画「ライトハウス」。こちらは言うなれば“最悪の対話”が繰り広げ続けられる映画である。態度の大きなベテラン灯台守・トーマス(ウィレム・デフォー)と、彼になじられる同じ灯台に赴任してきた新人の灯台守ウィンズロー(ロバート・パティンソン)大半はこの2人による会話劇である。

灯台という密室で支配的に振る舞うトーマスとそれに苛立つウィンズロー、苛立ちと閉塞感が真四角の画面いっぱいに募る。これは実のところ、医療者側が精神的な苦しみを感じてしまうような診察場面とよく似ている。特に激しく医師を糾弾する患者や、医師を操作して要求を通そうとする患者との診療はこうした強い感情に翻弄されるケースがあるのだ。先輩-後輩関係という「ライトハウス」と完全に一致はしないまでも、互いのことをあまり知らない状態から徐々に知っていくという関係構築の過程は診療場面と重なる。

患者が自身の抱える他者への感情を医師へと向けることを“転移”と言う。そしてそれを受け、医師が患者に向けることになる感情の動きを“逆転移”と言う。この転移と逆転移をうまく扱うことが精神科診察では重要となるのだが、失敗すればお互いがただ負の感情をぶつけ合うことにしかならない。医者と患者とはある程度、画一化された関係性のはずだが、時に双方向の"強い感情"が関係性を捻じれさせていく。「ライトハウス」を観ながら背筋が凍る気分になったのは、こうした対話関係の崩壊を追体験したからだろう。

本作では双方向の苛立ちや怒りが次第にアルコールの影響でごちゃまぜになり、抱えている感情すらも見失う程の幻惑の中に迷い込んでいく。“灯台”という幻想に取り憑かれるうちに深層心理へと潜り込んでいくシナリオも、メタファーを扱いつつその人の心理に迫るという点がまさに診察場面的であるが、これはさすがにノーコントロールすぎる。酒には要注意ということと、見知らぬ人と語り合う時の距離感の重要性を身に沁みて思い知る映画だ。


映画のほうで”灯台“はペニス、転じて父性マチズモの象徴として扱われる。一方、対談番組の側でも常に“男らしさ”というのが議論として通奏しており、“灯台”というモチーフはどことなく呼応している。支配のメタファーとしての”灯台“と、導きのメタファーの“灯台”。“男らしさ”の二極がこの“灯台”のメタファーに息づいている。男らしさ壊れること、男らしさ壊すこと、という力動の面でも非常に両極端だ。

同じ「ライトハウス=灯台」というモチーフを用いながら、これほどまでに両極端な対話の可能性を描いたこの2作。並べて観れば希望も絶望も、そこに横たわっていることが嫌でも分かってしまう。だからこそ私たちは対話を諦められない。諦めてはならないと思う。



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