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意味と無意味、意識と無意識〜 ゲルハルト・リヒター展@豊田市美術館

何かを観たり聴いたりした後でその感想を書こうとする時、私はその作品に込められた意味を真っ先に考えがちだ。しかしその一方、むしろ"意味がない"としか言いようがないものにも強く惹かれることだって多い。たとえばランジャタイの漫才。不条理を極めた意味のない言葉の羅列と、道理の通らない動きを繰り出しつ続けるネタには初めて観た時から魅了され続けている。

また、UNISON SQUARE GARDENの楽曲の歌詞にも近い質感を覚える。ライブでも定番の「場違いハミングバード」における、《ああ迷子のため息.com/ともすれば皮肉のるつぼ/でもそれがあるから ほら反動が半端じゃない》という歌詞は初めて聴いた時から意味などさっぱり何も分からない。しかし不思議なことにそれがメロディに乗って発せられると心が強烈に昂っていく。

表現物において”無意味さ"は時に本能をダイレクトに鼓舞する作用もある。そう考えると純粋に意味のないものなんて存在しないのかもしれない。


意味を問う絵画

豊田市美術館で1/29まで開催中の「ゲルハルト・リヒター展」。ドイツのドレスデン出身の画家であり、現代アート最高峰と謳われる芸術家ゲルハルト・リヒター。彼の16年ぶりとなる日本での個展である。この展覧会で初めてリヒターの作品に触れることになったのだが、私のような芸術作品に意味を求めがちな観客の持つ視点を大きく揺さぶってくる作品ばかりだった。


「モーターボート(第1ヴァージョン)」

この作品は雑誌の広告をそのまま絵の具でキャンバスに書き写す、フォト・ペインティングという手法で作られた油彩画だ。拡大写真にしか見えないがじっくり観るとこれが絵だと分かる。描く対象そのものに大きな意味がない分、どう"描いているか"という視点に面白さが宿る。また、元が広告という前提を知ればこのわざとらしい盛り上がりの瞬間をわざわざ手間をかけて描くということを面白く思えるし、広告への皮肉めいた意味合いも浮かぶ。


「エラ」
「ルディ叔父さん」

上の作品はリヒターの娘を描いた肖像画だ。しかし、実際には娘を撮影した写真を描き写したものである。下の写真はリヒターの叔父を描いた油彩画を何年も経ってからピントをずらして撮影した写真である。このように、対象を描く上で幾つかの層を挟んでいる。鑑賞者は一目見るだけでそれを見抜くのは難しく、つくづく自分たちの"見る"ということの信用ならなさを思い知らされる。一見、無意味に思えるひと手間が我々の目を惑わせてくるのだ。


「4900の色彩」

この作品の実物はかなり巨大だ。別の作品を制作する過程で、様々なカラーバリエーションを考えながら生まれた。1枚25色で構成される196枚のパネルを作者が意図を持たせることなく羅列したもの。そこに明確な意味はなく、ただひたすらに鮮やかな色彩のみが作品として鎮座している。しかし、隣り合った色同士が意味を持つことだってある。それはたとえば国旗の色であったり、その人にしか受け止められないメッセージだったりするだろう。


「8人の女性見習看護師」
「不法滞在者の家」

上は殺人事件の被害者を描いた絵を撮影した8枚の写真で、下は不法滞在者の住む家の写真をもとに描かれた絵画だが、一目でその文脈は知り得ないだろう。リヒターは絵画→写真や写真→絵画へと変換していくことで対象に与えられた意味を引き剥がしているように思える。しかし一方で説明書きとともに展示することによって対象が持つ意味をより強調しているようにも見えてくる。アートの中心に確かな現実があるということ。作品たちを見進めていくとリヒターが社会への鋭い目線を持つ芸術家だと次第に分かり始める。


無意識への誘い

「アブストラクト・ペインティング」

アブスラクト・ペインティング」のシリーズは見ての通りの抽象画で意味を感じることは難しい。これは絵につけられた痕跡を楽しむ作品だと思う。絵の具をキャンバスに塗り、それをスキージと呼ばれる大きなヘラで塗り広げながら削り取ることで予想もしない色味を生み出す。言うなれば、作家の無意識を作品に取り込んだ作品と言えるだろう。意識的に塗り始めたはずの色が、無意識の先で一つの作品に結実する、その制御できなさが面白い。


「鏡、血のような赤」
「8枚のガラス」

いくつも鏡をモチーフにした作品たちが置かれているのも印象的だ。様々な色に着色されたそれらは意識的に作品としてその場所に鎮座することになってはいるが、そこに投影されるのは場の移ろいや鑑賞者が不意に映り込んでしまう姿だ。そう、これもまた作品の中に鑑賞者の無意識を取り込んでいく作品と言える。他にも、8枚のガラスを並べることで観る場所によってそこに映る像を変化させる作品もある。意識的に、無意識を取り込んでいるのだ。


「Strip」

ひときわインパクトがあったのがこの無数の縞模様。何かが高速移動しているようにも見える。近づいて観ると目がクラクラして前後が分からなくなる。これは1枚の「アブストラクト・ペインティング」の色彩を元に、それをデジタルプリントしたもの。無意識から生まれた色彩を、意識的に配置した作品と言える。グラフィックそのものは意味を持たないが、この空間に置かれることで視覚を揺さぶるという意味を持った存在に変わる。意識-無意識と、意味-無意味が混在しながら結びつくこの作風は次項で紹介する傑作に繋がる。


「ビルケナウ」へ

この展示会のハイライト、「ビルケナウ」。大きな4枚の絵からなるこの作品。一見すると前項でのアブストラクト・ペインティングに似た質感を持つ。しかし塗り込められた絵の具の下にはある絵が隠されている。第二次世界大戦中のアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所で囚人が隠し撮りした、収容所の凄惨な写真をフォト・ペインティングした絵だ。元となった写真も同じ空間に展示されており、このエリアには強い緊張感が走っていた。


一見すると具体的な意味を持たない抽象画だが、この題、そしてモチーフとなった写真とともに展示されると、そこに強烈な意味が浮かび上がってくる。東ドイツに生まれ、第二次世界大戦中にはナチス政権下で幼少期を過ごしたリヒター。東西が分断されたドイツに身を置きながら、自身の芸術を磨いてきた彼が何度も挫折してようやく完成させた作品が「ビルケナウ」だ。そこには並々ならぬ思いがあり、誠実にその歴史の暗部と向き合っている。


アブストラクト・ペインティングの手法で、無意識とともに描かれたであろうこの黒々しい表面。そこには肌を這うような恐ろしさが立ち込めているし、非人道的な殺戮が歴史に塗り込められたというイメージも浮かんでくる。その真相を覗こうにも覗けないという気分にもなるし、そもそもそういう絵を観たいと思ってしまう自分にも気づく。無意識に導かれたとは思えないほどに、多層的な意味を放つ「ビルケナウ」。ただ、立ち尽くした。


精神科医/心理学者のユングは、無意識を心の中に無限に広がっているものだと定義した。ネガティブやポジティブといった価値を問わず、普段生きている中では析出しない心の大部分なのだ、と。リヒターはアブストラクト・ペインティングを用いることで、無意識を露わにしながら自身の見聞きしてきた歴史の暗部へのあらゆる感情をこの「ビルケナウ」に刻みつけたのではないか。今まで行ってきたあらゆる作品へのアプローチを駆使して、自分でも知り得ない自分の心を引き出すことに成功したのが「ビルケナウ」だろう。



ビルケナウ後のリヒター

自らの芸術的課題だった「ビルケナウ」を完成させたことで、「自分が自由になった」と語るリヒター。それ以降に作られた油彩画は「アブストラクト・ペインティング」においてもキッチンナイフで絵の具をこそぐようなアプローチが見え、より能動的/意識的に作られていることが伺える。そして2017年に制作された上の絵をもって油絵からは引退を宣言したという。



しかしそれ以降も制作自体は絶え間なく行われている。2021年には、黒鉛を用いた何点かのドローイングが発表された。とても不思議な感触を覚える絵だ。どこか知らない場所の地形図のようにも見えるし、謎の惑星のスケッチのようにも見えるし、無機質な水墨画のようにも見える。ここにも、意識的に引かれた線と、無意識につけられた濃淡がひしめきあっている。



そして2022年、最新の作品も展示されていた。抽象的に描かれた水彩画を写真に映した作品群「mood」。油彩とも異なる質感の幻惑的な魅力がある。リヒターの、意識と無意識を巡るアートへの探求は今なおあり続けている。


リヒターの作品にあるのは安易なメッセージではない。それを作るリヒター自身の心の揺れを読み取ることが醍醐味なのだろう。その過程で我々は必然的に今それを見ている行為についても意識を巡らせねばならない。そして無意識に眠る感情が引き出され、その先で無意味に思えたものに意味が宿る。無意味を”味わう“ことの解像度が上がったように思えるのだ。



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