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名付けて、「ドストエフスキー効果」~「カラマーゾフの兄弟」を読み終えてから少し経って思うことと感じること~

2か月くらい前に「カラマーゾフの兄弟」を読み終えた。
あんなに巨大な小説を読んだのは人生で初めてだった。
読み終える迄に、半年くらいの時間と労力を注ぎ込むことになった。

Netflixやらyoutubeやらゲームやら、これだけエンターテイメントが飽和している中で、小説を───それも半年もかかる小説を───読む意味ってあるのだろうか?という疑問が湧いてきた。

希望的観測も含めてだが、やっぱり読書体験でしか得られない価値がある気がしている。

また、「カラマーゾフの兄弟」を読み終えた後に生活する中で、「ドストエフスキー効果」とでも名付けたいような影響を色々感じることがあったので、ここでまとめてみる。

ドストエフスキー効果①:「やっぱり色んなところで引用されている。」

違う小説を読んだり、エッセイを読んだり、またはyoutubeを見たりする中で、やっぱり「カラマーゾフの兄弟」やドストエフスキーの話が引用されたり言及されることがとっても多い!

今迄だったら、「あードストエフスキーってよく聞くなー。よく分からないけどー。」で終わっていた。

しかし今はそういう話を以前と比較して、より深く理解することが出来るようになった気がする。

古典を読むことはこういう副次的な効果もあると感じる。

ドストエフスキー効果②:「世の中のほとんどの小説を読破する自信がついた。」

「カラマーゾフの兄弟」って、ピッチャーで言うなら160キロのストレートを投げて変化球も8種類くらい投げてくる感じだと思う。大谷翔平さんみたいな感じ。

そんなメジャーリーガーを相手に毎日打席に立っていた訳だから、かなり目が慣れている。

140キロくらいをバシバシ投げてこられても、「あー速いけどまあドストエフスキーさんほどではないからイケるかも。」と思えるようになった。

(とは言え、それは目が慣れているだけであって、実際にバッティング技術が飛躍した訳ではないから、ちゃんと打てるかどうかは別問題なのだが・・・。)

打てないかもしれないけど、以前のように目をつぶってしまったり、腰が引けてしまったり、打席に立たない、みたいなことは随分減った気がする。

ドストエフスキー効果③:「小説を読破する為の足腰が鍛えられた。」

それに、実際に小説を読破する為の足腰も鍛えられた気がする。

登山で言うなら、「カラマーゾフの兄弟」はエベレスト級の山だと思う。

途中で意識を失ったり、足首を捻挫したりもした訳だけど、それでも一応登頂したから、結構足腰も鍛えられた。

だから最近色んな小説を読む体力とか、読むリズムとかが掴めたという実感が強い。

「読む筋力」みたいなのがあるんだと思う。
いまはドストエフスキー先生に鍛え抜かれた後だから、その「読書筋力」が結構ついてるんだと思う。

最近、いろんな小説をスイスイ読めるようになっている気がする。

ドストエフスキー効果④:「ラーメン二郎的現象」

「カラマーゾフの兄弟」を読み終えた時、「もうむりだー!ドストエフスキーのドの字も見たくないーーー」と思った。

精魂尽き果てたというか、すごいエネルギーを消耗した。

しかし・・・。
不思議なもので、なんかドストエフスキーを読みたくなってる自分に気が付くのだ。

他の小説を読んでいても、「うーん、なんかドストエフスキー感が足りないなー」と思うようになった。

ラーメン二郎を食べて幾日か経った後、みたいな感じだ。

で、一度「罪と罰」を読み始めた。
気になって仕方なかったのだ。

読み始めると、「おー出たこの感じ。」とだんだんと胸が躍っていった。

しかしそれもつかの間・・・。

やっぱり「これを読みだすと他の読みたい本にぜんぜん手が回らないなー」と停滞感のようなものを感じ始めた。

そして新書とかエッセイとかに手が伸び、そっちばかりを読むようになり、気が付くと「罪と罰」を開かなくなっていった。。

2時間本を読める時間があるとして、ドストエフスキーなら2時間読んでも一人の人物描写が終わるくらいのペースだ。

だが、同じ2時間あれば、新書だったら丸一冊くらい読めてしまったりする。

相対的に、「他の本をもっとたくさん読みたい欲」が上回ってしまうのだ。

それに、ドストエフスキーの世界はそれこそ心の地下室みたいな空間だと思う。

だから、ドストエフスキーを読んだあとに外界に戻ると、「ま、まぶしい!!世界はこんなにまぶしかったのか!」と外界のまぶしさに目が眩む。地下で瞳孔が開きまくってたので。

反対に、まばゆい(誘惑の多い)世界の中で暮らしていると、なかなか地下室への階段を降りていく気にもなりづらかったりする。

何を言いたいというと、ドストエフスキーを読むときはドストエフスキーにだけ集中したくなってしまうという特性があると思う。

そういう訳で、なかなかドストエフスキーを読むというのは大変なのだが、それでもまた読みたくなってしまう魅力があるのも事実だ。

ドストエフスキー効果⑤:「他の世界文学・古典にも興味が出た」

トルストイとか、バルザックとか・・・いわゆる世界文学・古典に対する興味も一層高まった。

ゆくゆくは源氏物語なども含めた日本のクラシックも読みたいなと思うようになった。

ドストエフスキー効果⑥:「神について考えることが増えた」

「カラマーゾフの兄弟」の主題の一つは神だと思う。
読んで以来、神について考えることが増えた。

無宗教で生きていくということは実は結構大変なことなんじゃないかとも思うようになった。

というのも、「この世界がどういうもので、どういうふうに成り立っていて、何を信じて、何を拠り所にして生きて行けばいいのか?」というようなことを無宗教で考えることは結構大変なんだと思うのだ。

何故なら無宗教ってことは、「自分の頭で」この世界を理解していかないといけない訳だから。

歴史のある宗教について少し勉強してみると、それらはとても論理的に、とても納得できる内容で、しかもとても細部にまで詳細に構成されていることに気が付く、とても驚く。

あそこまで体系的に、秩序立ててこの世界を解き明かすなんて、個人の作業では無理があるなと思ってしまう。

そしてだからこそ、宗教は大きな役割を果たしてきたし、いまも果たしているんだと感じる。

日本では、無宗教の方も比較的に多いと思う。
それでも秩序立てて・・・かなり秩序立てて生活している日本人は、ひょっとしたら世界では珍しい形なのかもしれない。

私はだから宗教に入るべきだ、という結論するつもりではない。

たぶん多くの人は、科学とか、論理とか、ビジネスとか、勤務先とか、お金とか、教養とか、’’推し’’とか、資格とか、インフルエンサーとか・・・何か自分の信じられるもの、拠り所にできるものを「自分で」見つけているのだろう。

だから、必ずしも対象が宗教である必要は無い気がする。
何か自分が納得できれば、信じることができればなんであってもいいんだろう・・・。

おわりに

「カラマーゾフの兄弟」を読むことは、それはそれは大変だった。

だが、一度読むと心の地下室の書架に「でーん」と存在感のある本が収まるような、そういう深くて重みのある読書体験になると思う。

これからもドストエフスキーはもちろん他の世界文学や古典にもどんどんチャレンジしていきたいなと思う。

▼カラマーゾフの兄弟を読む決心や動機を綴った格闘日記もいくつか書きましたのでよかったら、、

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