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『東海道中膝栗毛』膝栗毛発端序

前の人物評の次は、「膝栗毛発端序」という、序文が続きます。ここは、作者である十返舎一九の、作品への思いが綴られています。

作品への思いを馬に例えた十返舎一九


最初の方に、「予、此街道に毫(ふで)をはせて、膝栗毛の書を著す」とありますが、そもそも「膝栗毛」とはなんでしょう?
栗毛とはそもそも栗色の毛をしている馬のことを指します。ただ、「膝」は人間のひざを指します。つまり、本来馬で旅をするところを、人間が自らの膝を頼りに(足を頼りに、といったほうがいいかもしれないが)東海道を旅していくことを言っています。
 そして、ここからが面白いです。十返舎一九は、作品への思いを馬に例えてのべていきます
「元来(もとより)野飼の邪々馬といへども、人喰馬にも相口の版元、大皷(たいこ)をうって売り弘(ひろ)めたる故」
野飼の邪々馬、は訓練もされず荒々しい馬のことです。ここでは、自分の作品が未熟であることを馬に例えて表現しているのです。そして、「人喰馬にも相口の版元」は、人に噛みつくような馬でも、その馬と相性がよくて、のりこなしてくれる人がいる、ということわざがもとになっています。

当時の出版事情


ただ、最後に「版元」とあるのがポイントです。これは字面がらも想像できるかもしれませんが、出版元、という意味です。そしてここには江戸時代の出版事情が関係してきます。江戸時代より前の時代にも木版印刷の技術自体はありましたが、お寺で使われるのがメインで、印刷の技術を使って『東海道中膝栗毛』のような、庶民の娯楽となる作品が生み出されるのは江戸時代になってからです。木版印刷はどういうものかというと、木の板に文字や絵を彫って、そこに墨をぬります。そこに紙をのせ、その紙の裏から紙をこすって印刷をしていくというやり方です。もっとも、西洋の活字の技術も戦国時代に日本に伝わっています。けれどアルファベットは26種類なのに対して、日本語は漢字、ひらがなを使い、つかう文字数は数万という単位です。これが、江戸時代に活版印刷が普及していない理由でしょう。数万個の活字を作って、さらに印刷の時にその中から一つ一つ文字を探してきて並べるようは、一枚の板に文字を彫ってしまう方が早い、と考えたと思います。そして版元とは、木版印刷のときに使う木の板を持っている人、つまり出版の権利を握っている人のことをいいます。江戸時代は、いくらいい作品ができても、協力してくれる版元がいなければ自分の作品を世の中に広めることはできません。だから、十返舎一九は、自分が作った未熟な作品でも出版してくれる版元がいた、そこに感謝しているのですね。そして、その版元はただ出版してくれるだけでなく「大皷をうって売り広めた」とあります。大皷のもとの意味は、ここでは楽器の太鼓のことではなく、馬がお腹をたたいている、という意味らしいです。しかし文章の流れからしてここは、版元がこの『東海道中膝栗毛』を宣伝してくれたことに感謝していることはなんとなく想像がつきますね。
 その結果どうなったか。「幸いに乗人ありて、編数を累(かさ)ね通し馬となり」、つまり、馬に乗る人=読者も増え、作品が長続きしたとあります。この『東海道中膝栗毛』ですが、もし人気がなかったら江戸〜箱根で終わっていたかもしれないのです。けど、好評だったので東海道の終着点の京都、さらには大阪まで行けました。「通し馬」とはそのことを言っています。
そして、これは今まで知らなかったのですが、この作品には続編もできて、香川県の金毘羅神社や広島県の厳島神社に行って、中山道を通って江戸に帰るバ一ジョンが作られています。この「膝栗毛発端序」はその続編が出たあとの1814年に書かれていて、『東海道中膝栗毛』の初編がでてから12年後のことです。十返舎一九も、自分の作品がここまで人気が出るとは思っていなかったみたいです。もし人気がなかったら京都に行く前に終わっていたかもしれないので、現代人の私の視点からも、最後まで続いてくれたことを嬉しく思います。

画像のマ一クの意味


最後に、画像の一風変わったマ一クについて説明します。これはいわゆる花押(かおう)というもので、日本では平安時代中頃から使われています。名前とセットで使われることが多いです。現代でいう印鑑のような役割を果たします。花押が書かれていることで、この文書は偽物ではない、本物で効力があるものだ、と証明することができます。例えば、土地を家来に与える、という時にそれを記した文書が偽物だったら大変ですよね。なので、土地をあげる側の権力者は花押を書き、この文書は本物で、土地をあげるっていうのも嘘じゃないよ、と証明してあげるのです。ただ、十返舎一九みたいな権力者でない人が花押を使っているのは江戸時代らしいです。江戸時代より前では大名とか将軍のような花押はたくさんありますが、一般人の花押を私は知りません。

十返舎一九の花押と江戸の文化

そこで、この十返舎一九の花押ですが、これを読み解くには江戸の庶民の文化をしる必要があります。まず、全体の形は熊手をモチ一フにしています。熊手を現代でも使っている人は少ないかもしれません。これは、まさに先が花押にあるように熊の爪のようになっていて、そこて落ち葉やゴミを集めたりする掃除用具です。家に庭がある人は使うかもしれませんが、そうでなければ使っている人は少ないでしょう。ではなんで熊手をモチ一フにしたのかというと、江戸時代、熊手は商売繁盛に結びつく道具とされていました。十返舎一九は、熊手が落ち葉をかき集めたりするように、自分の作品を売ってお金をかき集めたいなぁ、という自分の欲深な気持ちを表現したそうですよ。
そして丸い部分は唐芋(とうのいも。里芋の一種。)を指しています。これは音をもじって「頭の芋」ともよばれ、唐芋を食べれば人の頭に立って出世できる、とか1つの芋からたくさんの芽がでることから、子宝に恵まれると言われ、縁起の良い食べ物でした。
そして江戸時代、現在の住所でいうと東京都足立区花畑の大鷲神社、北千住の勝専寺、浅草の鷲神社で11月で最初の酉の日に(当時は日付にも十干十二支がつけられた。ネット上に「干支カレンダー」というのがあり、それを使えば今日がどの干支にあたるかすぐわかる)「酉の市」が開かれていました。そこで、この熊手と唐芋を買うのが江戸っ子の定番だったみたいです。
そして、唐芋を表した丸い部分のなかに、十返舎一九の本名である重田貞一の「貞一」と記しています。以上見てきたように、彼は江戸で評判がいいとされるものを花押として使ったのがわかりますね。当時は今よりも作家として暮らしていくのは大変でしたから、自身の作家生活がうまくいくように、と縁起のよい品に頼った気持ちもわかるような気がします。彼は滝沢馬琴とともに、原稿料だけで生活した最初の作家でした。そんな苦労も垣間見える花押だと思います。
読んでいただきありがとうございます。ペースは遅くて申し訳ないですが、着実に作品を読みすすめていきましょう☺️

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