墓に入ることと子世代の無宗教観

僕個人としては無宗教であるのだけれど、宗教を気嫌いしているわけではなくて仏像彫刻や人の心理的な影響としての存在は興味を持っている。美術的な視点や哲学的な観測みたいな学問的な難しいものではなく、もっとカジュアルな立ち位置。仏師知らないけどこの彫刻カッコいいな程度。

我が家は祖父母の代から檀家となってるお寺があり、なにかしら寺イベントがあれば祖母はお寺の厨房を仕切ったりしていた。これがまた大人数の食事を賄ったり、偉いお坊さんの食事や形式的なルールなんかも把握してお膳を用意したりと活躍していた。かなり活躍していた。ほぼ通勤していた。

祖父母は戦争時代を乳飲み子抱えて生き抜いてきた世代なので、ひとつの「コミュニティ」としてお寺を活用してきていた様に見えた。集う人たちと協力してなにかを行なう。それぞれの檀家を順番に回ってお互いを助ける。何かと細かに連絡し合いながら近況を確かめたり。それは今の時代ではあまり想像出来ない様な『機能』を持ち合わせていたのかもしれないなと思う。ひとりじゃ生きられない時代だからこそ。

そんな祖父母の家に嫁いだ母は、どちらかというと「精神的な拠り所」として、そのお寺と接してきた様に見える。長男の家に嫁ぎ、その両親との共同生活には苦労が多かったと思う。精神的な不安や不満もあるだろうし、今みたいに、SNSを見ながら同じ様な思いや考え方を持っている人がいるかなんて分からない。実家に頻繁に帰るのも世間が許さずな時代だから、不安は自分で解決するか飲み込むしかない。
更には病気が重なったり、第一子を失ったりと不幸も重なる。その救いのひとつとして「寺=宗教」があったようにも見える。そこに集う人というよりも、教え的の方に注目していた気がしている。

そんな環境の中、僕自身子ども時代はお参りに付き合わされる形で定期的に通っていた。特に疑いも無く「無視しちゃいけないのかな」くらいに思っていたのだけど、大学受験で決定的な出来事があって寺の行事などからも離れることになる。実は高校が大学の付属校ということもありMARCHレベルの大学の推薦をもらっていた。それが僕の望む学部でないことが分かったから他校を受験する選択をする。それが高3の夏前くらい。
聞く人全員に「浪人確定だ」と言われる中で奇跡的に合格はするんだけど、それを報告すると「仏様のおかげだ」と開口一番言った母に「馬鹿か、頑張ったのは俺だ」と自然に口から出た。それから完全に寺から離れたと思う。

後で補足するんだけど・・・
そのお寺では「他の神様を拝むとバチがあたる」って言われてて、「他の神様拝んで嫉妬して『言うこと聞いてやんないぞ』ならわかるけど『バチ当てる』って嫌なやつだな」と、出来る限り近づかない様にしたいとさえ思ってた。

で、まあそんなことでお寺から距離を持っていたのだけれど、父が亡くなったことでお墓に入れる必要がある。葬儀で依頼したのも、このお寺のお坊さんなのだけど、墓に入れる時に色々と決める必要がある。

そもそも「墓に入れるのは檀家のみ」という規定があるらしく「そりゃそうだろうな」と思う反面、「おばあちゃんが死んでも孫たちに迷惑掛けないように、ちゃんと墓の権利を買ったからね」と言っていた祖母の言葉が頭の中でリフレインが叫んでる。

お寺という場をコミュニティとして活用していた側でもあるから、祖父母的には損得はないのだろうけれど、あれだけお寺の仕事をした祖母が後世に迷惑かけまいと大枚はたいて購入した権利も、僕らが檀家にならなければ放り出されるという事実を前に「こんなスタイルの宗教は廃るよな」って思った。

経営としてサスティナブルではない。もちろん「墓」という物理的な存在に対して、後日見込まれる顧客(檀家)を想定するなら「墓不足」という決定的な課題にぶち当たる。
それに対して「既存客(墓を持ってる家)」から骨を人質にお金を取り続けようというスタイルは倒産の二文字しか見えない。まだヤフープレミアムに入ったことを忘れた人から毎月300円気づかない様に取り続けるヤフーを見習った方が良い。

結局、まだ生存している「母」を檀家として登録させることで墓を存続。無事に父の居場所が出来ました。
とりあえず祖父母から継いだ実家の土地を売り、そのお金を母の治療費に当てて、母が亡くなったら残りを毎月のお布施にしても良いのでは?という姉からの提案を飲むこととしました。

ただし、そのお金が尽きるか僕らが高齢になったら寺から離れるしかない。そうなると今まで納めていた骨は墓から出されて「合葬」という形で寺の一部へまとめられるらしい。ま、先に書いた生前の祖母のセリフのことを考えれば複雑な思いはあるよ。

「死んだらどうなるの?」って話をこの寺のお坊さんに聞いたことは書いたけれど、あらためてまとめると。「49日以降は生まれ変わる。輪廻転生。思い出は残るけど魂は様々な命として生き続ける」という話。だから墓は無くなっても魂が生きているなら「良っかね?」ってこと。過去になんて誰も未練ないでしょ。来世来世と言うならば。

輪廻の話を深く聞くと「全ては来世で」という考え方らしい。苦しい時、辛い時、不幸があったり、過ちを犯したり、それは来世で立場が変わって解決!みたいな話。これ日本にあった差別制度、士農工商穢多非人カースト時代にあったからこその「救い」だよね。
姉はこの点についてもう一歩興味から調べてて、「キリスト教はざっくり言えば現世で救う考え方」という。この視点の違いが時代背景やそれぞれの歴史に沿っているって話が面白かった。脱線。

現代における「救い」は何が適しているのか?は人それぞれとは思う一方で、僕ら姉弟の考え方の中では「来世」という考え方はリアリティが無いなと一致した。
宗教の経営として考えれば「来世で救われる」「現世は耐えろ」みたいなのは、現代の発想から「そこまで我慢しなくて良くない?」って感じになるから、方針として間違っている気がする。

先に書いた「他の神様を拝むとバチが当たる」ってのも下手な営業の発想なんだろうなというのが僕らの意見。神様仏様はたぶん崇高なものであって、僕らが考える以上に大きな存在だと思うんですよ。だとしたら、そんなことで見放したり、ましてやバチを当てる様な輩が神とか仏になれるものかと。もしそれが間違って仏様になってるなら、近づきたく無いし近づいてほしくない。誰だってそう思うよw

経営する坊さん達がちょっと世間知らず過ぎる気もしていて、このままだと「若者のお寺離れ」は加速するんじゃないのかなと他人事ながら心配したりもしましたよ。

僕は違法にならない山とか埋めてくれればいいよ。

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